南十字星を目指して
台湾南部の都市台南。
日本統治下のこの町にある民間飛行場に大日本航空輸送のDC2型機が着陸した。
上海からの週二回の定期飛行便。乗客が十四人乗れる客席は満席だったが、その客席後部の荷物置き場には乗客の手荷物以外にもう一個の荷物が積まれていた。
飛行場に着陸後、大方の乗客が階段で機外に出た後、乗員が二人がかりでその荷物を下ろした。
畳まれたそれが組み立てられると、そこには一個の車椅子が現れた。
それを確認してから、機内から一人の人影がにゅっと姿を現した。
その背中にはもう一人の人影が見えた。
「お蝶、本当に大丈夫、気を付けてよ」
先に降りて、車椅子の組立てを見守っていた女性が声をかけた。
声をかけたのは、松本キク、そして出口に姿を現れたのは背中に長山きよ子を背負った馬淵蝶子だった。
「大丈夫、私には軽いものよ」
体格のいい蝶子は笑う。まあ、バランス感覚の優れたパイロットである、背中に人間一人背負っていても、急な階段を降りるなど造作もなかった。
蝶子は、ゆっくり階段を降りると、きよ子を愛用の車椅子に座らせた。
「うーん、ここも上海同様に温かいわ、いえ、もう暑いと言っていい環境ね」
きよ子が感謝の意を込めて、蝶子の両手をポンポンと平手で叩きながら言った。
「そうね、たぶん南太平洋も暑いわよ。南半球は季節が日本とは逆ですもの」
キクが言った。
三人は、上海を経由してこの台南にやって来た。
あのチラシを持って蝶子たちがキクを訪ねてまだ一週間しか経っていない。
義勇軍に参加を決意しした三人、まず蝶子が義勇軍の募集事務所と接触するため国際電報を打った。
すると、翌日すぐに国際電報での返事が届き、そこには、この台南まで迎えを寄越すので指定日時までに行くようにと記されていたのであった。
その期日が、ここに三人が到着した日の翌日なのであった。
つまり、電報が届いてから七日後がその期日となっていた訳である。
最初、三人は慌てた。そんな短時間に台南に行けるか判らない。最速の船を使っても間に合うのかギリギリといったところだ。
ところが、キクが蝶子ときよ子に言った。
「まあ、任せておいて」
そう言うとキクは懐に何やらかなり厚めの封筒を忍ばせ、日本民間飛行協会に出向き、何かを頼み込み、二人の元にあるものを持って帰ってきた。
「さあ、これでもう大丈夫」
そう言ってキクが二人に差し出して見せたのは、三人分の上海経由での台南までの航空券であった。
現在上海は、戦争の影響で日本軍が占領しており、大日本航空輸送会社の定期便がかなりの頻度日本から飛んでいた。航空券は、飛行協会が大日本航空輸送の委託を受け販売しているのだ。
しかし、その座席数は十四席もしくは十七席の二種類の機体しかなく、当然その価格は目を見張るほど高価だった。
そう言う訳だから、この高価な航空券を突き付けられた蝶子は目を丸くしてキクに聞いた。
「この航空券のお金はどうしたの?」
キクが笑って答えた。
「私の満州での結婚資金、丸々手付かずだったから使い切って来たわ。あたしにもう一度翼を授けてくれたあなたたちへのお礼よ」
蝶子は思い切りキクを抱きしめた。
大きな蝶子が抱き着くと、下手な男性が抱き着くより力強い。まあキクが平均的な女性の体格なのに、蝶子は日本人男子の平均身長より背が高いのだから当然か。
こうして三人は、荷物をまとめると早々に上海に向かい、便数の少ない台南行きを待ち、この日ついに、ここに降り立ったのであった。
「明日迎えに来るってことは、飛行機で来るってことよね。どこからかしら」
エンジンを止め、トラックに引かれ格納庫に向かうDC2型機を見送りながら、車椅子に乗ったきよ子が言った。
「多分フィリピンを経由してだと思うけど、あそこはアメリカの領土よね。義勇軍はアメリカに飛行場を使うことを認められているのかしら」
キクが首を傾げながら言った。
南十字義勇軍の後ろ盾が誰であるかなど、彼女達に判るはずもないので、この疑問はもっともであった。
日本でも、アメリカがソロモン海への出兵に消極的なことは大きく報道されていたからだ。
とてつもない大きな損害を被った日本だけに、このアメリカの態度を蔑視するものが大半で、その対オブジェクト戦闘に非協力的と思えるアメリカ領のフィリピンを義勇軍の飛行機が経由してくるのは、何となくしっくりこなかったわけである。
「細かいことは、実際に迎えが来てから聞けばいいじゃない。まず旅館に行きましょう。ちょっとここから離れてるはずなの」
蝶子が、ブラウスの胸ポケットから、予約をした旅館の住所を記したメモを取り出しながら言った。
「飛行場の係員にでも場所を聞きましょう」
きよ子が蝶子を振り仰ぎながらそう言った時だった。
飛行場の正門から、猛烈な勢いで一台の乗用車が走り寄ってくるのが見えた。
飛行機好きの彼女たちは、まあ乗り物全般に詳しい。だから、それが結構高級なクライスラーのセダンであることは遠目にも判った。
よく政治家などが乗って居るのと同じ車だ。
「何かしら…」
猛然と迫ってくるクライスラーの姿に、蝶子が訝しそうに呟いた。
車はブレーキの音を派手に立て、三人の前に停まった。
バタンと開いた運転席の扉から、白いスーツをて白い山高帽を被った男性が降りてきた。
いや、すっと立ち上がり帽子を脱ぎ、奇麗にうなじが刈り上げられた短髪の顔が現れた瞬間、三人は「彼女」の正体に気が付いた。
「やあ、やっと来たね。僕は、君たちは絶対に来るって信じてたよ」
その声を聞かぬ限り、見た目だけでは女性だとまず気が付かれないその相手は、三人の旧知であった。
「木部さん!」
三人が目をむいて同時にその名を叫んだ。
男装の麗人、まさにその名にふさわしい人間。
車を運転してきたのは、日本人女性パイロットとして三人の先輩に当たる木部しげのであった。
「木部さん、まさかあなたも義勇軍に?」
蝶子が驚きの顔を隠さずに聞いた。
「ああ、そのつもりさ。ここに居るのが何よりその証拠じゃないかな、君たちも受け取ったんだろう、義勇軍の迎えがここに来るという知らせを」
キクと蝶子が顔を見合わせた。
そこには、意外という言葉でしか表現できない表情が浮かんでいた。
それを代弁するように、きよ子が言った。
「しげのさん、あなたはもうずいぶん前に操縦をやめたと聞いていました。それなのに何故?」
木部がすがしい笑顔をきよ子に向けて答えた。
「僕はちょっと日本の空が嫌いになっていただけさ。この春から、北京でグライダーの操縦を教える飛行学校を作って、操縦を教えていたんだ。知らなかったのかい」
木部しげの、彼女は蝶子たちが注目を浴びる前の日本における女性パイロットの文字通り花形スターだった。なにしろ、この身なりである、プロマイドが作られ女性がこぞって飛びつき買ったという逸話もある。
いや、女性にもてるだけではない。
木部は、男性ではなく女性に対し愛情を感じる人間だった。それがつまり、僕という一人称と格好に表れているわけだ。
蝶子たちは、木部は女性を愛人にしたことがタブロイド新聞で暴かれ、それも彼女が日本に居ずらくなった理由の一つであるのを知っていたが、無論そのことは口にはしなかった。
「飛行学校を作った…、ちっとも知りませんでした、大陸に行ってタクシーの会社を興したとは聞いていましたが」
キクが言った。
「うん、それは飛行学校を開くための資金を作るためだったのさ。日本軍は一銭も貸してくれなかったからね」
木部は、日本陸軍に太いパイプを持っている。それは周知の事実。頭の回転の速いきよ子はすぐに気が付いた。
「そのグライダー学校というのは、陸軍飛行学校に生徒を入れるための予備学校ですね。しげのさんは一等免許を女性が取れない事をいつも怒ってました。その学校は、軍への意趣返しじゃないのですか、女性に教えられた生徒が軍の飛行士になることで、見返してやると言う」
木部が、アハハと大声で笑った。
「何でもお見通しだね、長山君。そう、その通りさ。だけど、この大騒ぎを見てね、自分はこんなことをしている場合じゃない、そう思ったのさ。軍は女というだけで、どんなに技量があっても戦闘機には乗せてくれない。技術の問題じゃない、女だからと言うだけで見下す。僕にはそれが許せなかった。だからね、義勇軍の募集広告を見て、すぐに電報を打ったのさ。君たちも、気持ち一緒なんじゃないかな? 空を飛びたいから、男に負けたくないからここまで来た、そうだろう?」
三人は、一瞬顔を見合わせたが、すぐに大きく頷いた。
「はい、その通りです」
きよ子が代表して答えた。
「じゃあ、僕たちは同志だ。さあ、車に乗って。宿まで送って行こう」
三人はまだこの時、木部がどんな気持ちで義勇軍に参加したのか、その真意を知らなかった。
とにかく翌日迎えに来るという義勇軍の飛行機を待つため、四人は台南の町へと休息をとるために向かったのだった。
オーストラリアは、まだまだ遠い彼方だった。




