日本政府の困惑
日本政府は、対中国戦争が始まってからずっと戦時内閣制を敷いていた。
政府の中枢では、軍がその発言権を大きく持ち、これまで舵取りをしてきた。
それが、謎の侵略者の出現で根底から揺らいだわけである。
ソロモン海戦での大敗北から一か月後、近衛内閣は総辞職した。
そして新たなる内閣が組閣された。
これは、対中国戦争の始末とオブジェクト対策のための措置で、休戦内閣であると同時に正体の判らぬ相手への新たな戦時内閣でもあった。であるから、依然として閣僚の序列では陸海軍の大臣の発言力は大きなままだ。いや、海軍は敗北した現実の前にその立場を確実に狭めていた、しかし南太平洋に歩いては行けぬ以上陸軍は海軍に問題の対処の一翼を任せるしかないのも現実だった。
とにかく、新たに平沼麒一郎内閣が誕生した。これは仕方のない首相交代と言えた。亀裂が発見される前の事、長引く中国との戦争に疲弊を始めていた日本は、ドイツ共和国を介して国民党政府との和平交渉を画策したのだが、前の首相の近衛がドイツのハウレル大統領は信用するに足りないと断じ、この話をまさにちゃぶ台返しよろしく反古にしていたのだ。この男が首班のままで、対中国休戦など出来るはずがない。
平沼なら、蒋介石と面と向かってでも剣を収める事ができる。そう目されての首班拝命であった。
組閣は難航したが、それでも新内閣は動き出した。オブジェクトの活動が活性化している以上、躊躇も逡巡も出来る余裕がなかったからだ。
その日本の新内閣に向け、アメリカからまさに青天の霹靂のような申し出があったのは、十二月の声を聞いたばかりの事だった。
平沼内閣は、三年前に完成したばかりの国会議事堂の閣議室に集まり臨時の閣議を開催した。無論、このアメリカから申し出に関する話し合いの為である。
居並んだほぼ全員が狐にでもつままれたような表情を浮かべていた。
最初に口を開いたのは海軍大臣だった。
「断る理由など何もない、むしろ大歓迎だ。だが、これは信じ難い話だ。一体アメリカは何を考えているのだ。そもそも彼らは正気なのか?」
海軍大臣の吉田善吾海軍大将の顔には、もう形容するのも難しい複雑な思いが種々浮かんでいた。前内閣の海相永野修身から一昨日最終的な引継ぎを終えたばかりだったのに、とんでもない話を突きつけられ困惑し混乱している。それがありありと理解できた。
海軍は、正規空母損失の後始末で天手古舞だったのだが、そのしわ寄せは当然海軍のトップに来ていたから、その処理だけでも彼は大変だったはずだ。だが、今議題に上がっている話は、とにもかくにも破天荒な話であった。
「何かの陰謀ではないのか、ペテンの類で実はトロイの木馬とかではないかと私は疑っている」
この話をまったく信用していない、露骨にそれを口調に表すのは、陸軍大臣板垣征四郎陸軍大将である。今回の人事で唯一前職から居残りとなった大臣だ。留任の理由は、就任まだ浅いことと中国への休戦に向けて陸軍をまとめるに足る人物と目されたからだ。
前任の杉山元陸軍大将はあまりに横暴で粗野であり、近衛内閣で年頭にあった停戦を巡る一連の騒ぎの後、公然と首相批判をし、結果的に内閣途中で辞任に追い込まれたのだが、皮肉なことにその二か月後にあの亀裂が発見され、現在までの混乱が続いているのだった。
板垣は戦略には長けているが、政治は疎い。それが、アメリカの申し出の真意を量れない最大の理由であろう。
首相の平沼がゆっくり口を開いた。
「信じ難い、それは私も同じだ。あれほど躍起になって海軍軍縮条約の不利を覆すため、我が国が傾倒し作り上げた正規空母の損失。その代替えを、無償で寄越すという話を馬鹿正直に鵜呑みにするのは、一国を預かる政府としてすべきではないと思う」
この平沼の言葉に、全員が首を傾げる理由がすべて語られていた。
そうなのだ、なんとアメリカ合衆国政府は、失われた日本海軍の大型空母加賀に代わる大型空母をアメリカ海軍から無償で提供、いや親書によれば進呈すると申し出てきたのだ。
それも、中型や建造年度の古い空母ではなく、最新鋭大型空母のヨークタウンをである。この空母は、昨年実戦配備されたまさにアメリカの最新鋭空母なのだ。
こんな美味しい話を信じられるほど日本とアメリカの関係は良好ではない。
そもそもなぜアメリカがこの空母を作ったかの経緯を考えれば自明の理なのだ。
アメリカと日本は海軍の増強で競争関係にあり、ヨークタウン級空母は日本海軍の空母部隊に対抗するために作られた代物なのだ。
軍縮条約により、戦艦の保有数を制限された日本が、条約の失効を睨み超巨大戦艦の製造準備にかかったという情報と、対中国戦争で空母が予想以上に活躍したという話から、アメリカは新鋭の戦艦部隊建造配備を計画推進し、この護衛を目的に新型空母3隻の建造に着手。その一番手が、まさにヨークタウンなのである。
その対日本向けに建造した空母を、日本にプレゼントするなど正気の沙汰とは思えない。誰だって驚くに決まっている。
「どうもアメリカは、今回のオブジェクト侵略に関し、我々の知り得ない何かを掴み、その為に航空部隊など一線級の兵力の現地展開を控えている可能性が高いのです」
口を開いたのは、外務大臣阿部信之陸軍大将だった。
平沼が眉根にしわを寄せた。
「それは、信用に足る情報なのかね」
「ええ、我が国の駐米大使館の掴んだ情報では、アメリカ政府は何か莫大な予算を秘密裏に動かしている模様なのですが、それが何のためであるかは掴めていません。ただ、現実に戦場に空母や航空機を向かわせていない事実と照らし合わせると、何かしら今回の件との関連で動き出しているのは間違いありません」
陸軍大臣が不快な表情を浮かべた。
「まさかとは思うが、アメリカはこの騒ぎで一人だけうまく生き残る道を選択し、その生き残るために国に籠る決意をした。だから空母を我が国に提供するなどという狂的な結論に達したのではあるまいな」
海軍大臣が首を横に振った。
「いやいや、それはないでしょう。確かに航空戦力は全くと言っていいほど送り込まぬアメリカですが、現地周辺には膨大な輸送艦隊を送り込み、亀裂近隣の島にどの国の軍でも使用が可能な巨大飛行場の建設を着手したのです。無論我が軍も無償でこれを使えると通達してきています。もし、今回の空母提供に裏があるとしたら、それが本当に彼らの戦略に不要になったからではないでしょうか」
首相が海相に聞いた。
「それはどんな推論に基づいた話かね」
「実は英国海軍から非公式に得た情報なのですが、米国は建造中だった新型戦艦の建造を総て中止し、別に何か大型の軍艦建造を開始したというのです」
「大型の軍艦?」
内閣の面々が明らかに腰を浮かす話であった。これは、まだ海相以外の知らぬ情報だったからだ。
「どうも、我々が想像するよりもかなり大型の空母を建造しているのではないかとイギリスは言っております。それが本当なら、たとえ最新鋭であっても現用空母は不要になる。アメリカは、我が国でなくオブジェクトを睨み本格的に軍備増強に踏み切った。しかし、その完遂までには多大な時間がかかる。その代償として、空母を我が国に提供する。そう考えると今回の話はすっきり飲み込めるのではありませんか」
一同は唸った。
確かにこの説には一理ありそうだ。
「真意については、いずれ私が訪米するなりしてルーズベルト大統領に確認したい。だが、これは正直助かる話だ。空母は失ったが、パイロットの人的損害は思ったより少なかった。ドイツの民間会社の救助協力で大半の不時着者が救助されたからな。彼らをもう一度戦場に送るにしろ、赤城、飛竜、蒼龍の三隻に任を押し付けるのと、ここにもう一隻大型空母が加わるのでは全く意味が違ってくる。飛竜と蒼龍は中型空母であり、搭載できる戦闘機の数は赤城に及ばないからな」
陸相が首相を見ながら訊いた。
「では、この申し出を受けるのですか」
平沼は頷いた。
「今までの話を総合し判断した。向こうがただでくれるというのだ、貰わない道理はない。この空母が来れば、海軍による南太平洋への再進出作戦計画も進展する。そして海軍がすんなり動けるなら、陸軍は中国との休戦に向け全力で活動が出来、ここからも南太平洋に進出させる兵力の捻出が可能になる。我が国にとって、これほど助かる話はない」
そこで大蔵大臣の石渡壮太朗が口を開いた。
「こんな美味い話はまたとありますまい。我が国の国庫は戦争のせいで枯渇寸前ですしな」
この一言が決め手となった。
日本政府は、アメリカ合衆国の申し出を受け入れ、アメリカ海軍の最新鋭空母ヨークタウンは翌年二月に無償で日本に引き渡される段取りがなった。
これは、ある意味、ルーズベルト流の贖罪であることは間違いなかった。
ライバルであった日本、その日本はこの先、間違いなく対オブジェクト戦闘の最前線における主力となる。自分たちがそこに行ける日はまだ遠い。その前線で命を賭け戦う日本へのはなむけ、それがヨークタウンであり、必要なら今後もアメリカは軍艦の譲渡や貸与を日本だけでなく銃を取る各国、特に航空戦力として期待度の高いイギリスなどにも行う決意をしていた。
しかし、やはりこの時点で日本にしろイギリスにしろ、アメリカがドイツと水面下で同盟関係を結び、対亀裂作戦の準備を行っている事実は掴めないでいたのだ。
そして、オブジェクトを巡る戦いで、もう一つこの先のカギを握ることになる国家が、ようやくこのころその重い腰を上げようとしていたのだった。
赤い熊、ソビエト連邦政府である。
彼らは年末に向け、何かを発表する準備を開始していた。
これは、確かにこの事件に大きな影響を与えるものになるのだが、それにはまだ少し時間がかかった。
スターリンは、この時期頻繁にドイツのベルリンを訪れており、これがつまりその発表に関わる背景に大きく影響しているのだが、この時期どの国の諜報機関もその耳目は南太平洋に向けられていたから、この両国に注意を向ける者は事実上存在しなかった。
とにかく、こうして各国が政治的駆け引きを演じている最中も、ソロモンの空には不気味な飛行物体オブジェクトが舞い続けているのだから、事態はどれも急速に転がす必要がある。
無論、これに現在対抗しているのは、取り急ぎ現地に送られた各国の航空部隊なわけだが、この時はまだ各国がバラバラに作戦を立て、結局戦果らしい戦果をあげられないという日々の連続だった。
そして飛翔するオブジェクトの数はどんどん増えていた。
そんな戦況を横に見ながら、オーストラリアのケアンズには世界各地から腕に覚えのあるパイロットが文字通りおっとり刀で集まりつつあった。
彼ら彼女らが目指すのは、南十字飛行義勇軍。ハンナ・ライチェの掲げた旗の下であった。
一九三八年が暮れていく中、南太平洋は大敗北からの雪辱に向けに、大きな戦雲がたちこめようとしているのであった。




