彼女たちの決意、大和撫子たち1
日本は冬の冷え切った空気に包まれていた。関東平野にはからっ風が吹いていた。
入間川の川辺に、日本人の女性としてはかなり長身なショートヘアの女性が空を睨み立っていた。
「あたしたちは翼を奪われた。キクさんも、結局軍に行ったのに操縦桿を握らせてもらえなかった。これは、絶対に天の与えてくれた機会だと思いたい。彼女を誘うのにきよ子も絶対賛成するはずよ…」
彼女の名前は、馬淵蝶子。普段は下の名は、簡易にテフ子と書くが、友人は皆「お蝶」という愛称で呼んでいた。
彼女は、日本が誇る女性飛行士の一人で二等飛行免許を持つ一人前のパイロットだった。
日本の飛行免許は三種類で、飛ぶだけなら三等免許で出来るが自分で航法をするなら二等が必要。つまり蝶子はソロで飛べる女性パイロットなのだ。現在日本では女子に一等免許を与えることを認めていないので、女性パイロットの頂点に肩を並べていると言っても過言ではない存在だ。
だが、いま彼女は厳密にはパイロットではない。日本の女性パイロットをけん引してきた彼女は、今飛ぶ事を許されていなかった。
もうずいぶん時間が経ってしまったが、蝶子はかつて彼女とはライバルとも言える松本キクと競う形で満州国の建国記念飛行に挑んだ。
この時、まだ日本人女性で海峡を越え大陸に飛んだ者は皆無だった。
蝶子が神奈川から愛機「黄蝶号」で、キクが東京から「白菊号」で飛び立ち、満州国の首都である新京への渡洋飛行一番乗りを競ったのだ。
結果から言うと勝者はキクだった。
しかし、その松本キクが辿った道のりは大変厳しいもので、九州を発ち朝鮮半島に向かった彼女の白菊号は、エンジントラブルと燃料不足から京城飛行場を目前にしながらも、夕闇の中漢江の川べりの土手に不時着を余儀なくされたのだ。
飛行場以外の場所への着陸は、一歩間違えば大事故になる。しかしキクは、何とか無事に着陸を果たした。しかし翌朝、彼女は驚愕した。静止した白菊号の三メートル先で土手は終わり、広い川面があったのだ。もし速度が超過していたら機体は確実に大破していた。
近所の住民や飛行場からの応援で、白菊号は翼を外され荷車に乗せられ飛行場に移動。この翌々日に再飛行に成功した。
昭和七年十一月四日、白菊号は満州の首都である新京に到着した。
一方蝶子は、親友長山きよ子と翼を並べ、九州まで飛びそこで彼女と別れ満州を目指した。
しかし、松本キクの白菊号が改造で通常の三倍近い時間飛行、およそ七時間半飛行が可能だったのに対し、蝶子の黄蝶号は四時間程度の連続飛行しかできないため、経由回数が多くなり結果的に新京に到着したのは十一月五日、つまりキクに一日差で敗れてしまったのである。
惜敗はしたが、共に新京の飛行場で抱き合い、互いの無事を祝した。
キクと蝶子の周りには大勢の新聞記者が集まりしきりに写真を撮った。無論新聞に載せる為に。
こうして、二人の女性パイロットが朝鮮海峡を渡り中国本土に到達した記事は日本中に知れ渡り、キクと蝶子は世界に通用する日本女性パイロットをけん引する両輪として持て囃されることになった。
しかも、この時の快挙を認められ、一番乗りを果たした松本キクには栄誉ある世界的パイロットに与えられるハーモン・トロフィーが授与され、これは世界的なニュースになり、世界中の女性パイロットに日本人女子もついに世界水準に達したと認めさせたのだった。
キクも蝶子も知らなかったが、これを見て並々ならぬ敵愾心を燃やしたもう一人の日本人女性パイロットがいるのだが、その女性は一時はキクに向けた敵愾心を違う方向に変じていき、結果的により深く彼女と蝶子更に長山きよ子と関わることになるのだが、それは後に語る事になろう。
互いの無事に喜び合うほどであるから、ライバルであっても蝶子とキクの関係は悪くはなかった。おたがいよく飛行場でお茶をしたり、各種のイベント飛行で翼を並べることも多かった。この時は大概、長山きよ子も一緒だった。他にも一人、いつも一緒に顔を合わせる女性がいた。
上仲鈴子である。鈴子は、蝶子やキクたちより一級年下であったが、二等免許を十九歳で取得した空では先輩にあたる存在だった。
日本の女性パイロットも輪は、見えない絆で繋がっている。誰もがそう感じていた。
しかし、その華やかな時代は長くは続かなかったのだった。




