お嬢様に常識は必要?
いつもより早く起きて用意してみた。
侍女はちょっと不満顔だったけれど、我慢してもらうしかない。
廊下を駆け、義弟の部屋の前に立つ。
うふふ。今日は大丈夫なはずだ。
私は扉をノックした。返事が来ないことを予測して、すぐに扉を開けて部屋に入られるよう、心の準備はできている。
そう覚悟していたので、私の手は既にドアノブに伸びていた。
すると、うんともすんとも言わないはずのドアからドアノブがカチャリと音を立てたのが聞こえてきた。予想外のことが起こって若干狼狽した私の前で、扉が開かれた。
そこには清々しい顔で微笑む義弟の姿があった。
眠そうなそぶりは全くない。
「おはようございます、義姉上」
朝から全開の笑顔だった。どうやらとても機嫌が良いらしい。
朝食室に促された私は、やはり腑に落ちない上に、待ち伏せされていたような気がして、釈然としなかった。彼の笑みが意味ありげに思えるのだ。
突然私の前に手の平が現れ、視界を遮った。
「そんなに睨まれるようなことをした覚えはないよ」
彼の右手だった。
私だって睨んでいた覚えはないのだけども。
「だって、こんなに早いのに、当然のように起きて用意も終わってるって、どういうこと?」
悔しかったけど、素直に疑問をぶちまけてみた。
義弟は少し目を細めて私を見やる。
「解り易すぎ。昨日の様子から、今日は早めに起こしに来ると思ったよ」
「うっ。でも、朝は苦手だったでしょ。どうして毎日ちゃんと起きてるの? 今までできなかったくせに」
安易な策略が見透かされていたことは一先ず置いておく。実のところ、彼が一人で朝早く起きてしまい、私の目覚ましの役割がなくなったことが問題なのだ。
そう、私は置いてきぼりを食らった気がして寂しいのだ。昨日だって、腹が立ったのは取り残されたような気がしたのだ。
「もうすぐ十一歳だしな。怪我が良い切っ掛けになったんじゃないか」
彼は他人事のように独りごちる。
「まだまだ起こしてあげるよ?」
私が言うと、階段を降りようとしていた義弟は動きを止め、ゆっくりと振り返った。
「いらない。明日、もっと早く起きてこようとしても無駄だよ」
「な、何の話しかしらあ?」
図星を突かれて、しどろもどろになってしまった私を置いて、彼は階段を下りて行った。
……このままじゃ負けっぱなしのような気がする。別に、勝ちたいとか、というのではないんだけれど。
ということがあったので、私は少々不貞腐れていたのだけれど、父が明日午前中に登城するというのでついて行く許可をもらって気持ちが浮上した。
結局、怪我で一カ月以上従者君と会っていないし、街の散策に連れて行ってもらう約束も宙に浮いたままだったのだ。
父の部下に従者君への伝言を頼んでホクホクしていると、マナーの先生に叱られてしまった。
女性のマナーを教える先生なので、この授業だけは義弟と別になる。
昔は毎日だったけど、最近は週に二回に減らしてもらった。
食事の食べ方や、招待を受けた時の作法に関しては及第点をいただいているし、社交界に出るまで、まだ時間があるからだ。
実は、私はこの先生との付き合いが一番長い。
彼女は気がつくと私のマナーの先生だった。侍女やナニーは二、三回変わっているが、マナーの先生だけはずっと一緒だった。
だから、本来なら父、義弟の次に甘えやすい人物でもあるはずなのだが、いかんせん、この先生は厳しくて取り付く島がないのだ。
それでも、質問すれば的確に応えてくれるし、ただ厳しいだけの人ではない。そうでなければ、これほど長く私の先生でいられるはずがないのだ。
「先生、街でお買い物したことがありますか?」
尋ねてみると、先生は私の意図を探りながらも応えてくれる。
「もちろんです」
「お買い物での淑女のマナーなど、ございますか」
具体的な質問に、先生の顔が怪訝な色を浮かべた。
「上流階級の淑女は一人では街へ出ません。必ず男性のエスコートを必要とします」
つまり、買い物中はすべて男性が世話をするので、女性がすることと言えば、欲しいものを見せてもらうだけなのだそうだ。または、男性と行けない場所は親族の年上の女性がその役割を果たすらしい。
「先生もそういうお買い物をなさるのですか?」
と、尋ねると、珍しく先生は言葉に詰まったようだった。
「私は、正確には上流階級の淑女ではございませんので、自らの足で赴き、自らお金を出して購入します」
先生が一瞬回答に躊躇した理由が解らなかったけれど、その答えに私は頷いた。
「私もそのようなお買い物を望んでいます。お友達と約束いたしました。お金を持って行けばよいのですか? 私、お金って見たことがないのですけれど、お父様にお願いすればいただけるものなのかしら」
「リンスター公爵令嬢であれば、お金を持ち歩く必要はないですよ。お父様のお名前で買い物ができます。そうですね、どこかで一度街へ出る授業もいたしましょうか?」
先生が面白いものでも見るような目で私を見つめた。こんなに柔らかな表情の先生を見たのは今まで数度しかない。こういう表情をいつもしていれば、先生も美人なのになあと、関係のないことを考えながら、新しい授業の提案に私は大きく頷いた。
「お父様、お小遣いをいただけませんでしょうか」
マナーの授業が終わって今日のスケジュールを消化した後、書斎でそうお願いしてみると、父は机の一番下、鍵の付いた引き出しを開けて膨らんだ布袋を取り出した。
そんな所に入れておいて良いのかしら。私に場所を見せて良いのかしら。と、色々びっくりしたことはさて置き、父は別の空の布袋を出して、中の金貨を無造作にいくつか空袋に放り込んだ。
正確には数えていないけれど、十枚以上は入ったと思う。
足りるかしら?
一瞬不安が頭をもたげたが、買える範囲で遊べばいいと納得し、そのまま受け取った。
「理由は聞かなくてよろしいのでしょうか?」
「君が必要だと思ったのだろう?」
逆に不思議そうに問い返された。
時折、信頼されているのか、単に無頓着なだけなのか、分からなくなる時がある。
信頼されていると思えれば、嬉しくなるのだけれど。
私は父の腰へ抱きついて見上げた。
見開かれた青灰色の瞳が私を凝視している。驚いた顔をしていても、やっぱり父は端正だ。
「ありがとうございます、お父様!」
父の整った顔を見上げながら、微笑みと共に感謝の言葉を述べる。その後、何やら動揺しているらしい父を残して、私は書斎を後にした。
私を抱き上げるのに慣れたようなのに、変なの。因みに、私は父にくっつくのに慣れたようだ。まあ、全く照れがないのかと聞かれると肯定できないけど。
結局、私が父に触れることを緊張したり、恥ずかしくなったりするのは小さい頃からのコミュニケーション不足だったのだと思うのだ。だから、父も同じなのだろう。
書斎の扉を閉めた所で、私は金貨の入った袋へ視線を向けた。
この量で足りるのか、やはり心配になる。
街に出るのは二回目だ。前回は父と一緒だったため、お金が必要なかった。それに、結局王宮から呼び出されて、買い物がほとんどできなかったのだ。だから、街で散歩しながらちょっとしたお買い物をする時に、どのくらいお金が必要なのかなど、全く分からない。マナーの先生に聞いておけばよかったと後悔しても後の祭りでる。
こういう時は専属の相談役の出番だ。
私はそのまま足を隣の部屋へ向けた。父の書斎の隣の部屋は図書室になっている。通常大抵はそこにいるはずだ。
うーん。この対応、パターン化してる気がしなくもないな。
部屋に入り、席に座っているだろう義弟を探した。しかし、いない。書庫の棚の間も見てみたが、やはり姿がない。
自室かな。と、思ったので、彼の部屋の前でノックして待ってみた。
侍従が対応に出てくるかと予測して待っていたら、顔を出したのは本人だった。
「朝から私の顔を見るの好きじゃない?」
びっくりしてつい、思ってもなかった言葉が口を衝いて出てしまった。かなり、私は朝のやり取りを引きずっているらしい。
瞬間、義弟が凍りついた。
あ、しまった。と思った時は遅かった。
彼が無言で急いで扉を閉めようとしたので、またもや反射的な行動を起こしてしまった。
つまり閉まりかけの扉に足を挟んだのである。
「いっ!」
私の声に、義弟は大慌てで扉を開けた。
「無茶をするなよ! 無茶を!」
そう叫んで私の手を引いて部屋へと引っ張ると椅子へ座らせた。
右足をぶらぶらさせて痛みを確認する私を心配そうに琥珀の瞳が見上げた。
大丈夫みたい。と私が口にすると、膝をついて私の様子を窺っていた彼は、安堵の息を洩らす。
「ごめん、さっきのは冗談。聞きたいことがあったんだけど、それは朝のこととは別なの」
朝のことは素直に諦めるべきなような気がしてきた。あんなに拒絶されちゃあね。
「明日、お父様とお城に行くんだけれど、待ってる間にお城近くの通りを散策しようかと思って。それで、お金って、どれぐらいあると良いと思う?」
「義父上と一緒なら、金なんていらないぞ」
向かいの席に腰を下ろして、さも当然のようにマナーの先生と同じようなことを口にする。
「一緒じゃないもの。お父様の部下は一緒だけれど」
彼は怪訝な顔をしたが、父の部下が一緒だということで、父の許可が出てるのだと思ってくれたようだ。
「何をするかによるな」
「ちょっとお店に入ってお茶したり、お店で売っている食べ物を買って歩きながら食べたり?」
「……一人で?」
「父の部下の人がついて来るってば。ほら、目の細い、若い人。それで、お父様に金貨をいただいたのだけど、足りるのかなって」
説明しながら、布袋を逆さにしてテーブルへ中身を出す。ちゃりんちゃりんと澄んだ音がした。
テーブルへ広げられた金貨を見て義弟が絶句する。
「あんたの常識がないのは理解できる。義父上の犯罪のような常識のなさは何なんだ!」
額を押さえて彼は呻いた。
これに関しては私はともかく父に非はないと思う。だって、父は私が何をしようとしているか説明を求めなかった。つまり適正金額など、知る由もないのだ。
「犯罪ってことはやっぱり足りないのよね?」
「ちがう! 多すぎるんだ!」
そういうと、彼は自分の棚から何かを取り出し、テーブルへ持ってきた。そして、金貨を一枚取って後は布袋へ戻すと、私に袋を押しつける。
「それは、後で義父上に返してこい」
ぶつぶつ呟いて、先程とってきたものを私の前に並べる。
金貨と同じ形だが、一周りほど小さく、銀色だ。銀色のコイン十枚。
「銀貨十枚で金貨一枚分だ。本当は銅貨もあればいいんだが、それはすぐには用意できない。一番小さい銅貨二百枚で銀貨一枚。銅貨にはいろいろ種類があるから、実物がない今は説明は難しい。街を少し楽しむ程度なら銀貨一枚で十分お釣りが来る。金貨を銀貨へ両替してやるが、全部は持っていくな。銀貨二、三枚で良い。街中で子供が金貨や銀貨何ぞ見せびらかしてみろ、いいカモだぞ」
お父様がくれた布袋よりもさらに小さな袋にその十枚の銀貨を入れて渡してくれた。
何だかんだ言って義弟は優しいのだ。
だからつい知らない事柄が出てきた時に頼ってしまう。そして、いつも簡単に解決してくれる。
「ありがとう」
銀貨を受け取って、僅かばかり肩を落としながら感謝した。手間を取らせて悪いなあとは思うのだ。
少ししゅんとした私に思うところがあったのか、義弟が躊躇いがちに口を開いた。
「そんなことは別にいいんだけど……あんたさ、やっぱりちゃんと自分の資産を自分で把握しておくべきだと思う。お嬢様だし、いろいろ常識的な部分が欠如しているのは仕方がないとしても、今のままじゃ、一番必要なものを学べないままにならないか? 自分の資産を把握すれば、世の中、どうやって動いているのかとか、庶民の暮らしとか、物の適正価格とか、そういった常識的な知識もついてくるし」
真面目な顔で義弟が言葉を続ける。
「運用そのものは性に合わなくても、それに付随する知識には興味が湧くんじゃないか? 前に、小さな領地一つって言ってたけど、それだって運営していくにはちゃんとした知識が必要なんだ。領地ってことはそこに住んでいる人だっている訳だし。あんたが冒険家になろうが、領主になろうが、よしんば、この国の王妃になったとしてもだな、無駄にはならないだろ」
すごく私のために言ってくれていることは解るし、その通りだと頷ける。それが義弟の口から出ると反発してしまう。例に挙げた王妃ってのも悪い。せっかく無理やり忘れていたのに。
「すっごくまともなことを言われてる。反論できない……でも」
「納得したのなら、何で反論したがるんだよ」
憮然とする彼にいらっとした。
「だって、悔しいのよ。私よりもこんなに背が低いくせに、私よりしっかりしてるんだもの。私はあなたがいないと駄目なのに、あなたは私がいなくても起きられるようになってるし! 私と違って、お父様の自慢の息子なんだもの!」
自分でも気づいてなかった本音が飛び出して、びっくりした。私って、そんなことを義弟に対して思っていたのか。
そして、それを聞いた義弟はもっと驚いていた。
「うわ、冗談だろ。本気でそんなこと思ってる?」
自分が口にした内容が今更ながら恥ずかしくて、耳が熱くなってきた。
逃げ出そうと立ち上がった私の腕を、彼が強く掴んだ。身体は小さいくせに、力は強いなんてずるい。私は彼の腕を振り払えなかった。
恥ずかしいやら悔しいやらで、私は彼を強く睨む。
こんなに私が睨みつけているというのに、義弟は何故か嬉しそうに、口元を綻ばせている。その様子にさえ、腹が立った。
「何で笑ってるのよ。私は怒ってるんだけど」
「だって、あんた気づいてる? 義父上じゃなくて、俺に甘えてるの」
そう言ってそれこそ満面の笑みで私を見上げてきた。
私は二の句を告げられなかった。
実はちょっと自覚があったから。
私は父に嫌われたり、邪険にされたりするのが怖い。それは、おそらく幼少期の記憶が原因なのだと思う。だから、愛されているとは思いながらもどこか他人行儀で、愛想を振りまいている。ここまでの我儘なら許されるだろうと、線を引いている。親子だと思えていない自分がいる。
けれど、義弟にはありのままの自分でいられる。おそらくそれは、義弟が人から捨てられる怖さを知っているからだ。彼だけが縋ってきた者を見捨てないだろうと私が直感しているからだ。母親に捨てられた絶望を彼が知っているから。だから彼が口ではなんと言おうが、信じられるのだ。
そんな私の心中など、彼にはお見通しに違いない。
「いちいち修正してやるのもどうかと思うが、説明するとだな。俺が朝早く起きているのは俺の事情で、あんたがどうのという訳ではない。俺もあんたには依存してる所があるからお互い様だ。義父上に関しては、俺よりもあんたのほうが自慢の娘だろうよ。王室師団長が娘のために職を辞そうとしたってのは本当の話だからな」
あれ? そういえば、以前そんな話題が朝食の席で上がってたような。
父が本当に? 私のために王室師団長を辞めようとした?
私は両手を頬に当てた。絶対にさっきよりももっと赤くなってる。
一人で動揺していた私に、冷たい視線が突き刺さった。
「あんた、俺のフォローより、義父上の方の情報に反応したな」
「だって、私がお父様に影響を与えていたなんて」
「影響も何も、どうみたって、親馬鹿だろう、あれ」
呆れ口調で冷静な突込みを入れてくる義弟に、今度は違う意味ですぐには返す言葉を持てなかった。
さすがに、最近は認めるしかないかなあと感じている。
「でも、私まだ十一歳だし、お父様が親馬鹿でもまだまだ大丈夫!」
と発言しながら、一生職業を持たず、結婚もせず、公爵令嬢のまま人生を終えるなんて選択肢もあるのかしらと心配になり、久しぶりに脳裏の文字列を意識して「公爵令嬢」を探したが、悪役令嬢と没落公爵令嬢以外にそれらしきものがなかった。
そして、今の言葉で、久しぶりに義弟からは残念な子を見る眼差しを送られた。
何だか色々解決したんだかしてないんだか……。
「忘れてそうな感じだけど、さっき言ってたこと考えてみなよ」
忘れていました。私が常識がないって話ね。
「先生はあなたってこと?」
「そうなるかな」
最終的に運用の方まで言いくるめられてしまいそうだわ。でも、確かに彼の言った通りなんだよね。
「わかった。資産の把握ね。やってみるわよ」
と応えてみたものの、このまま経営者の道に進んでしまわないかと、少し不安になった。
金貨は寝る前に父に返した。一枚しかいらないと告げると、とても驚かれた。一体父は私が何に使うと想像していたのだろう。
義弟の目覚ましの件を解決しておこうと思ったら、プチ反抗期っぽくなってしまいました。




