日常へ復帰します
全快です。
足も軽やかです。
全力で廊下を走れます。
昨日お医者様から太鼓判を押してもらいましたので、走っても誰にも文句は言われません。
……廊下を走るのはマナーの先生には叱られるかもだけど。
朝起きて、私は急いで義弟の部屋へ向かった。
扉の前で深呼吸すると、ドアをノックした。四週間ぶりなので少しばかり緊張する。
ノックに返事がないのは当たり前。
私は今迄のように扉を開けて中に入ろうと、ドアノブに手をかけた。
その時、中から扉が開いたが、顔を出したのは義弟ではなく、彼の若い従僕だった。
「おはようございます。もう朝食室へ向かわれましたよ?」
そう告げられて、私はしばらく呆然と突っ立ってしまった。
良く良く考えれば、当然そうなる。
私が療養中の四週間、起こしに来なくてもちゃんと義弟は朝食室に来ていたのだ。今更私という目覚ましは必要ない。
従僕は私の様子に首を傾げながら、扉を閉めた。
何かしら、この拒絶された感じは。
腑に落ちない物を感じながら朝食室に入ると、父と義弟が既に席に着いていた。
寝起きの不機嫌もなく、落ち着いた様子で挨拶をしてくる義弟に釈然としない気分で挨拶を返す。
若干、私の眉間にしわが寄ってるかも。
先程から、何やら胸のあたりがもやもやする。
いつもの日常に戻ったつもりで、そうではなかったことを知らされたような、説明できない感情が気持ち悪い。
私の様子がおかしいと感じたのか、義弟が可愛らしく首を傾げ、心配そうにこちらを見てきた。
「朝が苦手という欠点は払拭できたみたいね」
義弟が一瞬きょとんとする。私が紡いだ言葉の真意を図りかねている様子だった。
「近頃、起こしに行かなくても、私より先にここにいるでしょう?」
どこか刺々しい口調になってしまったかもしれない。
でも、せっかく日常に戻ったのに、いつしかその日常自体が変わっていて、私の知っている日常ではなくなっているという現象に戸惑っているのだ。そして、おそらく私は、知っている日常がなくなったことに腹を立てている。
今度は得心が行ったとばかりに義弟の唇の端が僅かに上がった。
その表情にドキッとした。まるで心の内を読まれているような居心地の悪さを感じる。
「部屋に行った?」
「だって、お医者様から好きに動き回って良いと許可をいただきましたもの」
必要もない虚勢を張って、私は殊更そっけなく答えた。許可が出たから何だという話なのだけども。
「それでも、もうしばらくはあまり動きまわらないように」
父がカップをソーサーに戻してから口を挟んできた。
ホッとして、私もその言葉に乗っかる。
「お父様。お医者様は全快とおっしゃいましたのよ?」
首を傾げて父を見つめると、彼はムムっと小さく唸った。
「……まあ、無理はせず、基礎体力を戻すように」
「はい」
しおらしく返事する私を胡散臭そうな目で見る義弟がいる。
その疑惑、否定できません。
「ということで、今日から自由に動けるようになりました。ひと月近くありがとうございました」
深々と頭を下げる私に、伯爵令嬢が恐縮した様子で慌てている。
先生は今日はお仕事でこちらに来られないらしく、今日の訪問は美少女一人だ。
そういう時の訓練は、代わりの先生が来るか、自主練習となる。現在、義弟は代理の先生と訓練中のはずだ。
「こちらこそありがとうございました」
彼女はそう返して口を閉じてしまった。けれど、何か言いたそうな素振りでもじもじしている。
私はずっと思っていた事を口にしてみた。
「お話の仕方、無理されてますよね?」
ポカンと小さく唇を開いて私を見る顔がとても可愛らしかった。
「口調です。私は、義弟と話す時はとっても下品になってしまいますのよ」
義弟はもっと下品ですけれどね。と敢えて自分の暴露話をしてみる。
「おしゃべりするのに、堅苦しいのは嫌じゃありませんこと? 私たち、ほら、えっと……お、お、お友達なのですし!」
たった一つの単語を唇にのせることの何と難しいことか。照れが勝ってしまって、さらっとさり気なく紡げなかった。
「つまり、その、お、お友、だちなのですし、毎日じゃなくても、これからもおしゃべりしていただきたいですし、剣術の訓練も一緒にできれば楽しいですし……ほら、お父様とあなたのお兄様の幼少の頃のように仲良くできれば良いと……」
とりあえず「友達」の単語さえクリアできれば、後はいつもの調子で言葉が流れた。
私の話し方に慣れた少女は、しばらく耳を傾けていたが、にこりと笑った。
「はい。私も思います……あ、思うわ」
「ありがとう。私も頑張りますわ! 早速ですが、本日は何をいたしましょう?」
と、発言しておきながら、やっぱり義弟に話すようにはいかない私だった。
言い訳させてもらえるなら、私の言葉遣いは義弟と出会うまではマナーの先生が教えてくれる言葉と、侍女の話す言葉がすべてだった。つまり、私が義弟以外の人へ話す言葉が素の言葉だとも言えなくないのだ。
義弟がやって来てからは、一番長く一緒にいるので影響を受けてしまった。だって、彼の語彙はすごいのだもの。それを上流階級での正しい言い回しや、正しい発音が分からないことが多くて、結果、今のようになってしまった。
因みに、父と色々話すようになって気がついたのだが、彼も言葉がそれほど綺麗ではない。義弟ほどではないが、気を抜いた時に庶民の発音が混ざることがあるように思う。だから最近は、父が子供の時に義弟と同じ経緯で公爵家へ来たのではないだろうかと推測することがある。
実際、私にとって父は謎の人なのだ。未だに年齢すら分からない。でも、気軽なやり取りを傍で見て、やはり第二師団長と同じ年なのではないかとは思っているけど。
そんな私とは違って、伯爵令嬢の彼女は綺麗な上流階級の発音であることは間違いない。けれど、普段は言い回しがもっと直接的でざっくばらんなのではないかと、話をしていて想像したのだ。
「先生はいらっしゃらないけれど、やっぱり弟の応援かしら。怪我も治ったことですし、少しは参加させていただけそうですもの」
「では、私と軽く手合わせしてみます?」
話が決まった私達は、庭へと向かった。
女友達が集まってすることが剣の練習という所が、若干不適当なように思えるが、それを指摘してしまえば、私達の場合、色々不適切なことが多すぎる。大体、空から降ってきた女の子が伯爵令嬢だという出来事自体が、一般論的には間違ってるのだから。
「今度はマーレイ伯爵家のタウンハウスにも遊びに来て下さいね。狭いけれど、ちゃんとした修練場が庭にあるのよ。弓術の練習もできるの。本邸に行けば馬で駆けながら矢を射る練習もできるのよ。でも、一日で往復できるとは言っても、本邸へのご招待は私達がもう少し大きくなってからね。今はタウンハウスで我慢しなくては」
「あら、すてき。弓は本格的に学んだことがないのよ。楽しそうだわ」
「大兄様が弓がお得意なのよ。うちの家系では珍しいんですって。どちらかというと剣と槍に比重を置いて学ぶから、弓はあまり練習しない人も多いのだとか。私には大兄様が教えてくださるの。お願いすれば、一緒に教えてもらえるわ」
「第二師団の団長直々に? それは……光栄ですけれど、お忙しいのではなくて?」
「うふふふ。大兄様はサボるのがお上手なのよ。最近はあなたのお父様の仕事が回ってきてサボれないと愚痴を言いながらも、いつも私に付き合ってくださるもの。あの愚痴も、サボってないことをアピールするためのものに違いないわ」
うーん。そこは本当かも。
だって、父の仕事量は三、四年前に比べて格段に減っていると思うもの。
「お兄様達のことが大好きですのね」
嬉しそうに彼女が兄のことを話題にするので、思わず口から出てしまった。すると、彼女は薄く頬を染めて肯定する。
「私、上二人の兄達とは半分しか血が繋がっていないの。母は後妻だから。でもね、すごく可愛がってもらってるの。自慢の兄達だから、本当に、今度会ってね」
ああ、それで。と、合点がいった。
先生と美少女はとても良く似ている。でも、以前会った時に第二師団長はあまり似ていないと思ったのだ。
私達がおしゃべりしながら庭を横切っていると、奥から声が聞こえてきた。
近づくと見慣れた金茶色の髪が目に入る。
私に気づくと、義弟の琥珀の瞳が陽の光を受けて、一瞬金色に光った。
顔を出されるのが嫌だったかなっと脳裏をよぎったが、次の瞬間には彼がにこやかに笑っていたので深く考えないことにした。
先生の代理と義弟は私達に正しく挨拶すると、傍らにあるテーブルを勧めた。そして二人も一緒に腰を下ろす。丁度休憩に入る所だったらしい。
「さっきね、彼女にご招待いただいたのよ。あなたも一緒にどう? 弓が引ける訓練場が庭にあるんですって。興味がわかない?」
そう切り出すと、義弟は僅かに目を見張った。
「マーレイ伯爵家の訓練場なら、誰だって一度は見てみたいものですよ」
「タウンハウスの方ですけれど」
はにかみながら美少女が答える。
今まであまり話しかけなかった義弟が彼女に積極的に声をかけている。その二人の様子に、私は一人で悶えてしまった。
私より頭半分小さい義弟だが、美少女よりは背が高いのでバランスが良い。何より二人は美形だ。最近少し男の子っぽくなってきたけれど、まだまだ可愛い義弟と、楚々としていて可憐な黒髪の美少女。二人が並ぶと、とても絵になるのだ。
眼福の光景に、思わず呆けて見惚れてしまった。
「……義姉上。義姉上。話を聞いてらっしゃいますか?」
あ、聞いていませんでした。
そんな私に呆れながらも、彼はもう一度言葉を紡ぐ。
「いいですよ。訪問される時はお声をかけてください。一緒に参りましょう」
「では、私は大兄様がいらっしゃる日を確認して連絡いたしますわね。念のために、一週間後以降ということで」
彼女も過保護である。大丈夫なんだけどなあ。
と思っていたら私の心中を読んだらしい義弟が一瞥してきた。
「はい。よろしくお願いします。一週間で左足の筋肉を元に戻してみせますわ」
そして、もう、誰にも文句を言わせませんわ!
私は心に固く誓った。
そろそろ練習に戻りましょうと代理の先生が声をかけてきて、私は初めてその存在を思い出した。
代理の先生は眼中にありませんでした。ごめんなさい。
結局の所、私の目論見は外れ、剣の稽古は素振りしかさせてもらえず、二人が楽しそうに手合わせしているのを横目で見ているしかなかった。
でも、見ているだけで幸せな気分になれたので、問題なしです。
マーレイ伯爵家ネタが続きそうです。




