第2章(3)
3
翌朝、今日もあの少女が侵入してきているんじゃないかと心配しながら目を開けるが、どうやらそんな心配は杞憂だったようだ。朝日が顔を出しだいぶ気温も温まってきている頃、いつもと同じ時間の、文句のない目覚めだった。
寝起きで硬くなった身体をゆっくりとほぐしながら立ち上がり、朝日のまぶしい外へと足を踏み出した。
芝生の上に座って買いだめしておいたパンを食べた後は、グラウンド脇に設置された水道を使って歯を磨く。
そうして身支度を済ませると、日課になっている朝のトレーニングに移行する。バットを手にして再びグラウンドの方へ向かって土手を下っていくと、川沿いに小さな人影が目に入った。
――まさか、またあいつか……家に入ると怒られるから、今度はこっちに来たわけか?
このまま無視して今日は別のところで練習しようかとも考えたが、一応俺を頼りに来てくれているわけだから、あまりひどい扱いもできない。
仕方なくその人影に向かって歩いていくが、いよいよ声が届く距離にまで近づいた時、明らかにあの少女とは別人であることに気づく。
後ろ姿であるために詳しい顔は分からないが、髪は短く切りそろえられた柔らかい黒髪で、体格は若干やせ型だが必要最低限の筋肉はついている印象だ。なにより、その後ろ姿は明らかに男性のもので、まだ成長途中の中学生くらいの身長に思えた。
若干だけ昨日の少女の服装と似ていたせいだと言い訳しても始まらない。その少年に気づかれる前に立ち去ろうとした瞬間、その少年は俺の存在に気づき振り返った。
「やば……」
いくら距離が離れているとはいえ、このまま立ち去るのも後味が悪い。それになにより、平日のこの時間帯に中学生がこんな場所にいることが気になった。
振り返った少年の顔は、眉を隠すほどに伸びた前髪と下がった目尻が特徴的で、少しだけ気弱そうな印象を受けた。
目が合うと少年は身体を震わせて逃げ出そうとする動きを見せたが、すぐに諦めたのかその場に立ち止まる。少年は決まりが悪そうに目を伏せて、俺が来るのをただ待っていた。
「よう。こんな時間に学生がいるなんて珍しいな」
「こんにちは……すいません、もう帰りますから学校には連絡しないでください。お願いします……」
もともとそういう顔なのか、少年は怯えるような表情で俺に向かってそう頼み込む。学校と言うものに通った記憶のない俺でも、この少年が何かを抱えて学校をさぼっているのだと言うことくらいは容易に想像がつく。この少年が何に悩んでこうしてここにいるのか、少しだけ興味がわいていた。
「別に学校に連絡したりしないし、ここから出ていけなんて言わないさ。ただ、暇だったから少し話し相手になってもらおうかと思っただけだよ」
警戒心を解こうと思って極力軽い口調で話しかけてみても、少年はなかなか固い顔を崩さない。こういう時に気の利いたことの言えない自分に嫌気がさす。
これ以上の言葉は思いつかずに二人の間に沈黙が走る。決まりが悪くなって視線を泳がせても、状況は好転しない。何か言わなければと、口を開こうとしたその瞬間、少年は俺の手の方を指さして小さくつぶやいた。
「それ、バット……」
ふと自分の手元を見てみると、素振りをしようと思って持ってきたバットが握られていた。
「ああ、実は俺野球やってるんだよ。いつもこのグラウンドで練習してるチームなんだけど……野球、やったことあるか?」
そう問いかけると、少年は初めて見せるような寂しい顔で笑って、小さく首を振った。
「小さいころに父さんとキャッチボールしたくらいで、ほとんどないですよ。部活も特に入ってないし」
少年はまたうつむいて、小さい身体をさらに小さくする。なんとなく、父親との話をした瞬間だけ言葉に力がなくなったように聞こえて、それが少し気がかりだった。
すると突然、少年は顔を上げてハリのある声を出した。
「あ、あの!俺、久我宗助って言うんですけど、あなたの名前を聞いていいですか?」
――ああ、またこの面倒くさい流れか。
チームメイト以外とほとんど会わない俺にとって、初対面の人とあいさつをする機会はあまりないが、こうしてたまに名乗らなければいけない状況になると非常に気を使う。
素直に記憶喪失だと打ち明けるしかないが、どうせみんな怪訝そうな顔をした後、笑われるか冷たい目を向けられるかが大半だ。それを覚悟しつつも仕方なく本当のことを説明する。
「せっかく名乗ってくれたのに悪いけど、俺は自分の名前を覚えてないんだ。信じてもらえないとは思うけど、つい最近記憶を全部なくしちゃったせいで、自分のことがなにも分からないんだ」
はたから見れば今の俺は、平日の朝から中学生に話かける怪しい男に他ならない。そんな男が記憶喪失を語っていたら、いよいよ通報されてもおかしくない程の不審者に進化を遂げる。
だが、久我と名乗った少年は不審者扱いすることもなければ、それどころか期待に満ちた瞳で見つめてきた。
「記憶がないって本当ですか?」
「あ、ああ。一か月くらい前に、それ以前の記憶を全部失ったんだ。だから俺は自分のことも、この世界のことも本当は何も知らないんだ」
その言葉を聞いた久我は、ようやく砕けた表情で笑ってみせた。記憶喪失だと告げた相手からこんな反応を受けたのはこれが初めてだ。今までも笑ってみせる相手は何人かいたが、みんな苦笑いか失笑に近い笑いだった。
「すいません。なんとなく、僕と似てるなって思ったんです」
「似てるって?きみは別に記憶をなくしてないだろう?」
「記憶があるとかないとか、そんなことじゃないんです。僕は一人ぼっちだから……記憶をなくしてしまった時のあなたも、きっとものすごく孤独だったのかなって」
あの日の俺は孤独とか寂しさを感じる間もなく慌ただしい人々の輪に巻き込まれ、その後もずっとその輪の中で生きてきた。
――孤独なんて、あるわけがない。
「俺は別に孤独だなんて思ったことはないよ。それよりさ、どうしてきみは自分が一人ぼっちだなんて思うんだ?そりゃあ、話したくなければいいけどさ」
きっとそれは久我にとって触れられたくない敏感な部分であることは分かっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。なんとなく話しかけた相手だったはずなのに、気が付けば興味を引かれている。
久我は小さく首を振った後、意外なことに少しの躊躇もなく自分のことを語りだした。
「いえ、聞いてほしいんです。話す相手もいないし、こんなところに一人でいるよりきっと、そっちの方が有意義だから」
「久我さえよければ、俺は聞くことくらいしかできないけど」
立ち話もなんだから、と近くにあるベンチの方を指さして、そちらの方へ二人で移動する。ベンチに腰を掛けて一呼吸を置くと、それが合図だった。
「半年くらい前に、弟が生まれたんです。歳は離れてますけど、俺にとって初めての兄弟が出来たんです」
「それはおめでとう。けど、良い話ってわけじゃなさそうだな」
「はい、最初は俺も喜んだんです。けど、喜んでいられたのも最初の数カ月だけで、かわいかったはずの弟の顔がすぐに悪魔みたいに歪んで見えて……お父さんもお母さんも、俺のことなんてどうでもよくなったみたいに弟のことしか見ていない。俺だってもうそこまで子供でもないし、親に見てもらえなきゃ嫌だなんて言わないけど、やっぱり寂しいんだ。学校の友達だってそんなに多くはないし、なんだか急に自分の居場所がなくなったみたいだ」
――自分の両親にさえ注目してもらえないって、どんな気分なんだろう。すべてを失った俺にとっては、自分にはどんな家族がいるのかさえ分からないのだ。
だから普通の人間が親に抱くような感情を、俺は知らない。息子が記憶喪失になっているというのに捜索願の一つも出さないのだから、どうせろくでもない両親なのは間違いない。
だからと言ってそのことに寂しさや憎しみを覚えたことはなく、自分は両親に恵まれなかったという事実を受け止めるだけだった。ただそれでも、もし両親がもう少し自分の子供に関心のある親だったのなら、その時は今の俺を見つけてくれたのだろうかと、そんなことを考えてしまうこともあった。
「確かに、居場所がなくなるのは辛いよな。たぶん俺も、今の居場所を失うことになったとしたらきっと耐えられない」
もし突然、チームを抜けなければいけなくなるような出来事が訪れた時、たぶん俺は生きる意味を失うだろう。だから、久我にとってこれは文字通りの死活問題だ。
「俺、どんな風に両親と接したらいいかわからなくなっちゃったんです。普通の会話なんてほとんどしなくなったし、たまに話しても来年に迫った受験の話ばっかりで……成績は下がる一方だし、もうどうしていいかわからないんです」
「やっぱり、怒られたりするのか?成績が悪いと」
受験の記憶なんて持ち合わせていないし、それがどれだけ苦しいことかわからない。分かることは、久我が今辛い思いをしているということだけだ。
「そりゃあ、当然怒られますよ。でも、前はここまでひどく怒られることもなかったのに……全部、あいつが生まれてきてからだ」
心なしか、最後の言葉は若干だけ震えているように聞こえた。きっとその言葉を口にすることに相当の勇気を使ったのだろう。固く握りしめられたその手もわずかに震えている。
「それじゃあ、弟を恨んでるのか?あんなやつ、生まれてこなければよかったって」
少しだけ、意地悪い質問を投げかける。
「そんなことを思うほど俺はもう子供じゃないですよ。もしあいつが生まれていなかったら、なんてことを考えることはありますけどね」
そう語る久我はどこか悲しそうに笑う。きっと、両親の関心が自分に向かないことをしょうがないと割り切りながらも、突然の変化に心が追い付かないのだろう。
久我は足元に転がる石を蹴飛ばすと、転がっていくそれを見つめていた。
「俺はよく分からないけど、それくらい思うのは普通なんじゃないか?誰にだって、受け入れられない相手の一人くらいいるだろ」
――東野と佐々木が相容れなかったように。たぶんそれは仕方のないことなんだ。
だが、そんな慰めの言葉をかけても久我の表情は曇ったまま変わらない。
「そうかもしれないですけど……それでもやっぱり、あいつはたった一人の兄弟だから。本当は、嫌いになんてなりたくない」
自分に兄弟がいるのかさえ分からない俺には、何をしてあげるのが正解かも分からない。これ以上かける言葉も見当たらず、励ますことも慰めることもできはしない。
だが、分からないことだらけの俺にだって、久我が本当は家族のみんなと仲良くしたいと願っていることくらいは分かっている。
「なんて。すいません、初対面なのにいきなり変な話をしちゃって」
久我は突然、無理に笑顔を作ってそんなことを言う。
「気にするなよ。こっちから質問したわけだし。むしろ話してくれて嬉しかったよ」
話しかけたきっかけは人違いで、声をかけてみたのも気まぐれだった。そんな気まぐれで言葉を交わした相手とこれだけ深い話をできるのだから、人生とは想像以上に不思議なものだ。
「そうだ。せっかくだしキャッチボールでもしていくか?」
ベンチから立ち上がって、いたずらっぽく微笑みかける。たまには、チームメイト以外と野球をしてみるのも悪くない。
「いいのかな。本当は授業に行かなきゃなのに……」
「いいんだよ、そんな細かいこと気にしなくて。身体を動かせば少しは気も晴れるって」
始め久我は戸惑ったような顔をしていたが、やがて覚悟を決めたようにグラウンドへ向かって歩き始めた。朝一番のグラウンドはまっさらで、きれいに整えられた土の上を踏み荒していく。このグラウンドにチームメイト以外がいる光景はやけに新鮮に映る。
お互いにグローブをはめて距離をとる。久我はぎこちない動作でボールを放り、そして俺が投げた球をおっかなびっくりと言った様子で何とか受け止める。そんなことを何度も繰り返しているうちに、少しずつボールを投げる動作も捕球の動きも慣れたものに変わっていく。
「誰かとキャッチボールをしたのなんて、本当に久しぶりです。こんな単純作業なのに、すごく楽しいですね」
「楽しいだろ?それに、キャッチボールをしているときは必ず相手のことを考えるから、少しだけ心の距離が近づけるような気がするんだ」
出会ってから1時間と経っていない俺たちでも、まるで分かりあえたような気持ちにさせてくれる。飛んできたボールを受け取った久我は、投げ返すことをせずにグローブの中を見つめている。受け取った時に指でもけがをしたのだろうかと駆け寄ってみると、なんてことのない様子で顔を上げた。
「あ、あの……またここにキャッチボールをしに来てもいいですか?迷惑じゃなければ」
「ああ、もちろんいいに決まってるだろ」
はっきりとそう告げると、安心したように久我は笑う。
「なら、よかった。今日はもう帰ります。きっと、そろそろ学校から連絡がある頃だろうから……お母さん、怒らせたくないし」
そう言うとこちらへ近づいて来て、グローブを差し出した。それを受け取ると、一度小さくお辞儀をする。
「俺は誰かの生き方に口を出せるほど偉くはないけどさ。両親と、うまくやっていけるって信じてるよ」
久我は返事をする代わりに小さく笑うと、背中を向けて去っていった。確かな足取りで去っていくその背中を見届けると、グラウンドに残されたのは俺一人。踏み荒されたグラウンドの土と二人分のグローブを、わずかな寂しさを覚えながら見つめていた。




