第2章(4)
4
「……きてください!起きてください!起きてください―!」
うるさい声が聞こえる。その声はとにかくうるさい。脳を直接揺さぶっているのでは無いかと錯覚するほどにうるさい。
いや、それだけではない。身体はガタガタと揺すられて、身体を包み込んでいたはずの毛布はどこかへ投げ捨てられてしまっていて、使用者を温めると言う役割を果たせずにいる。
「ふざ、けんな……うるさい声出すな……」
なんとか重い瞼を開けてみると、部屋の中に朝日が入り込んでいて朝になっているのは分かったが、こんな風に無理やり起こされたのでは目覚めが悪すぎる。安眠を邪魔されないようにと必死に抵抗を試みるが、抵抗すればするほど目が覚めてしまうジレンマに襲われる。
何度も肩をゆする少女の腕をつかんだころには、もう完全に意識は覚醒していた。
「はあ……またいきなり人の家に入ってきて、今度は何のようだ?」
「えっと、えっと!アドバイスくれたから、感謝しなきゃと思って!友達、友達出来たから!」
話す内容が頭の中で固まっていないのか、日本語を習いたての外国人のようにカタコトの言葉を並べている。全く意味が通じないわけではないが、ここまで断片的だと意味を考えるのに疲れてしまう。
「俺はどこにもいかないから。とりあえず落ち着いて話してくれ」
冷静に、お穏やかに語り掛けると少女は次第に落ち着きを取り戻し始める。
「う、うん。今日は、あなたに感謝を伝えにきたんです。この間、友達を作るためのアドバイスをくれたでしょ?そのおかげで、友達出来たから……」
「お、おめでとう?」
あんなアドバイスでよく友達が出来たものだと、自分の言葉に対して無責任だとは分かりつつも驚きを隠せない。ひとまず部屋を出て光の当たる場所に行くと、少女の本当に嬉しそうな顔が目に飛び込んでくる。いつも底なしに明るい笑顔を振りまいていた少女だが、今日の笑顔は今までに見た中でとびきりの最高の笑顔だ。
「私、辛抱強く頑張れってアドバイスをもらった後、もう一回公民館に行ってみたんです!最初は全然どこにも入れなくて寂しかったんですけど、諦めちゃだめだ!と思って、いろんな場所に声をかけてみたらなんと!バレーチームの人たちが練習に混ぜてくれたんです!!」
徐々に少女の言葉のトーンは上がっていき、最後にオチを話し終えるころにはテンションが最高潮に達していた。
――本当に、嬉しかったんだな。
「それはよかったな。ちなみに、バレーチームってどんな感じのチームなんだ?」
「うーんと、私もまだ詳しいことは知れないんですけど。ママさんバレーって言うんですかね、いろんな年代の女の人がいる楽しいチームです」
「そっか。良いチームに入れてもらえてよかったな」
さっきから“よかったな”としか言えていないが、この笑顔を見ているとそんなことはどうだっていいと思えてくる。
記憶なんてなくたって、新しく人生を始めることができる。俺たちはそんな風なことを証明してしまったのかもしれない。
「じゃあ、今日はそれだけです!一度感謝を伝えないとと思ったので。本当に、本当に助かりました!今日もこれから練習なので、行ってきます!」
少女は思い切り頭を下げて感謝を告げると、背中を向けて歩き始める。早足で去っていく少女の背中に手を振ってみると、それに気づいたのか振り返って手を振り返してくれた。
――そう言えば、居場所がないってことはあいつにも自分を探してくれる両親や近しい人間がいなかったのだろうか。そうでなければ、今頃は両親のもとで記憶を取り戻すために悪戦苦闘をしているはずだ。
「じゃあ、なんでミソラは俺のこともあいつのことも知ってるんだよ」
協会で出会った不思議な空気を纏った少女。自らをミソラと名乗った少女のことを、俺はいまだに理解できないでいる。
「久しぶりに、会いに行ってみるか」
一人つぶやいたその言葉は、誰に届くこともなく朝の乾いた空気に溶けていく。いつの日か、記憶を失う以前の自分を捨てて、新しい自分として生きていくことを決めたあの場所へ。
こうして協会へ歩いて行くのも久しぶりだ。ほんの一か月前は自分の中の記憶を掘り起こすために眺めていた景色も、今では新しい記憶が沁みついてしまっている。
例えば、この道はいつの日か猫を追い掛け回したときに通った道で、向こうに見えるコンビニはいつか東野と二人で寄った店だ。しばらく歩いているとさすがに記憶のしみついた道もなくなってきたが、さらに歩いているとやがて、思い入れの深い建物が目に入った。
「あの病院……」
記憶喪失を相談するために駆け込んで、そして草薙さんと出会った場所。この町一番の、大きな総合病院だ。その大きさに比例するような巨大なエントランスでは、車いすの少年や杖を突いた老人、それに付き添う看護師など多くの人であふれている。
記憶を取り戻すという選択を捨てた俺にとって、もはや病院には何の用事もない。野球の練習中に怪我でもしない限り来る機会もないだろう。だが、俺の足は病院の入り口の方へ向かって歩きだした。
病院の入り口付近、花壇を眺める千草さんの姿が目に入ったからだ。草薙さんから最近では体調もよくなってきたと聞いていたが、今もまだ入院生活を続けているのだろうか。
「千草さん!」
偶然に出会えた喜びを込めて弾んだ声で名前を呼び掛けると、千草さんは少し慌てた様子で振り向くと、口に手を当てて驚いたそぶりを見せた。
「きみは……!どうしたの?こんなところまで来るなんて」
「前の通りを歩いてたら、たまたま千草さんの姿が見えたので」
「そうだったの。いきなり名前を呼ばれたからびっくりしちゃった」
千草さんはいつものように朗らかに笑う。草薙さんの話は本当だったのか、ずいぶんと体調はよさそうだ。
「その人、知り合いなの?」
明るい印象を受けるような聞き慣れない女性の声が、すぐ横から聞こえてきた。声の方へ視線を向けると一人の女性が立っているのが見えたが、ちょうど屋根の下の影に隠れて顔の細部までは見えなかった。
この女性のおなかもずいぶんと膨らんでいて、一目で千草さんと同じ妊婦なのだと分かった。
「ええ、旦那の入ってる野球チームのメンバーなの」
「ふうん、こんな若い人もいるんだ。それじゃあ、邪魔しちゃ悪いし私は先に行くね」
そう言うと女性は建物の中に消えていく。気が付かなかったが、千草さんはさっきまであの人と一緒にいたのだろうか。
「今の人は?」
「うんとね、ここで入院しているときにできた友達なの。たまたま話してみたら年齢も一緒で、予定日も同じくらいだったから仲良くなっちゃった」
「へえ、そんな偶然もあるんですね。同じ立場の友達が病院にいたら、きっとすごく心強いですね」
同い年の友達で、出産と言う共通の悩みを抱えているのならきっと心強い支えになる。そう思っての言葉だったが、どうしてか千草さんの笑顔は少しだけ寂しげだ。
何かおかしなことを言ってしまったのではないかと不安になっていると、千草さんは慌てたように口を開いた。
「実はね、あの子との共通点ってそれだけじゃないの。あの子も、お腹の子の調子がよくないから……」
千草さんが病院に通っている理由は、単純に出産が近いからと言うわけじゃない。おなかの中にいる子供の調子が芳しくなく、検査のために通っている。先ほどの彼女も、同じ理由でこの病院にいるのか。
「でもね、昨日からすごく調子がいいみたいで、さっきも一緒にお散歩をしてたの。今まではそんなことできなかったのよ?」
励ますように重ねられた言葉は耳を通り過ぎて、頭に入らない。一つの疑問が頭の中に浮かんできて、それ以外のことは考えられなかった。
「千草さんも、その女性も、どうして産むんですか?そんなに大変なことなら、無理に産むことなんてないはずなのに……」
本当は、そんなこと聞くべきではなかったのかもしれない。だが、久我の家庭のことを思い出して、どうしても知りたいと思ってしまった。
この問いの答えに、何か少しでもヒントが隠されているのではないかと期待していた。しばらく千草さんは呆気にとられたような顔をしていたが、やがて力強い笑顔を浮かべて答えた。
「よく、分からないかな。でも、産まないなんて選択肢はなかったから。だって、せっかく生まれてくる命だもの」
「そんな、理由ですか……?」
「え、ダメだったかな?やっぱり、そんな適当な理由じゃだめだよね」
「いやいや!全然ダメとかそう言うのじゃないです!ただ、俺には分からない感覚だったら」
千草さんにとってそれは考えるまでもない問題で、バカな質問をしてしまったのかもしれない。だが、千草さんが抱いているような感覚は、一生をかけても俺には理解できない感覚なのだと、そう直感した。
記憶があるとかないとか、そんなことは関係ない。きっとこれは、実際にお腹を痛めた人にしか分からない感覚。
「私だって本当はよく分からないの。何か使命感を持ってこの子を宿したわけでもないし……でもどうしたの?いきなりそんなことを聞くなんて」
突然の重い質問に疑問を持ったのか、怪訝そうに首を傾ける。適当にはぐらかそうとも考えたが、隠していてもしょうがない。弟の誕生によって両親に見放された少年のことを、打ち明けることを決めた。
「実は昨日、河川敷で一人の男の子に会ったんです」
そんな語り出しで昨日の少年のことを説明する。弟が生まれたせいで両親の関心は自分に向かなくなり、家庭の中で居場所を失ったこと。俺が聞いたその一部始終を語ると、千草さんの顔はみるみる悲しいものに変わっていく。
実際に久我に会ったわけでもないはずなのに、まるで自分が同じ目に会ったかのような顔をしている。
「そっか、そんなことがあったんだね。私にも妹がいるから、なんとなくその気持ちは分かるかな」
そうささやく千草さんの声は、どこまでも優しく温もりが込められている。それは、同情とかそんな不純なものじゃない。
「この子が無事に生まれて着た時、茜が拗ねないように私も気を付けなきゃね」
千草さんはそう言って、自分の膨らんだお腹をさする。その姿は、まるで絵画の聖女のようだ。
「千草さん、俺はそいつにどんな言葉をかけてあげればよかったんですかね。気の利いた励ましとか、全然できなくて……」
「うーん、そんなに悩まなくていいと思うよ?確かに、納得できるようなアドバイスをできれば一番だけど、きっとその子はきみに話を聞いてもらえて楽になったはずだから。だから、ただ話を聞いてあげただけで十分だよ」
そんな千草さんからの一言で、とたんに心が軽くなっていく。別に何か特別なことを言われたわけでもない。それでも、俺の心はおかしなほどに晴れ渡っていく。
「おかげで、ちょっとすっきりしました。ありがとうございます」
「今こうしてきみがすっきりできたように、その子も話を聞いてもらってすっきりしてるはずだよ」
最後にもう一度、千草さんはいつものように朗らかに微笑んだ。その笑顔を見ていると、どうしてか胸がじわりと熱くなる。
――それは、とても不思議な感覚。
「あ、ごめんね。そろそろ検診の時間だから行かないと」
「はい、お大事にしてください」
千草さんは少し申し訳なさそうに手を振りながら、病院の中へ消えていく。お昼時も近いと言うのに、エントランスは相変わらず病人や看護師で埋め尽くされている。
「さて、俺も行かないと」
何のためにわざわざこんなところまで歩いてきたのか、千草さんとの出会いによって忘れかけてしまっていた。本来の目的を思い出し、再び協会に向かって歩きだす。
病院を出れば協会までの距離はそう遠くない。道草を食ってしまった分、目的地へ向かって足早に歩く。やがて10分足らずで協会のもとまでたどり着き、迷わずにチャイムを鳴らす。――が、それに応える声はいつまでたっても聞こえない。
協会の周りを一周して人の気配を確かめても、人影はおろか小さな物音も聞こえてこない。結局、今は留守にしていると結論付けるしかないようだ。
わざわざ遠出したことが無駄になったことに、少しのやるせなさを感じながらも、おとなしく来た道を引き返すしかなかった。
だが、無駄足になったことに対する苛立ちはあっても、ミソラに会えなかったことへの落胆は、それほど大きくは感じなかった。




