可愛げない婚約者でごめんなさいね。手のかかる守ってあげたくなる令嬢(笑)とどうぞお幸せに!
「ごめんなさい……私、またやっちゃって……」
「気にするな。君のそういう不器用なところは、俺が守ってやるから」
王宮の私室。昼下がりの陽光が、レースのカーテン越しに柔らかく差し込んでいる。
そんな穏やかな光の中で、婚約者のシュタイン殿下は、男爵令嬢キャサリンの肩を抱き寄せ、甘ったるい声で囁いていた。
キャサリンは殿下の胸に顔を埋め、しゃくりあげている。震えた肩。涙で湿った睫毛。庇護欲をそそる、絵に描いたような可憐な令嬢。
私はその後ろで、扇を握りしめたまま、ただ静かに立っていた。
握りしめすぎて、扇の骨がきしむ音がした。それすら、二人の耳には届かないらしい。
「無知で不器用で、守ってあげたくなる可憐な令嬢」──それが私がキャサリンに下した評価。
貴族社会において「無知」は罪だ。
昨日のお茶会にて。
彼女は怒らせれば家が傾くと囁かれる、王弟妃──大公夫人のドレスの裾を、踏みつけた。
よろけたわけではない。話に夢中になって、平然と踏んだのだ。それも、夫人の侍女が裾をさばこうとしている、まさにその瞬間に。
夫人の表情が一瞬で凍りついたのを、私は離れた席から見ていた。
それだけならまだしも、彼女はその直後、隣国から国賓として訪れていたバルディウス特使に向かって、こう言ってのけた。
「あの、特使様のお国の建国神話って、私、聞いたとき笑っちゃって。だって龍が落とした卵から人間が生まれたなんて、子ども騙しの寓話みたいで……」
言いながら、無邪気に首を傾げていた。本人は、世間話のつもりだったのだろう。
特使の祖国にとって、その神話は信仰そのものだ。神殿で詠われ、王の即位式で語られ、戦死した兵士の墓に刻まれる。それを「子ども騙し」と評されたとき、彼の祖国が取る作法を、私は知っている。古い慣習法に、明確に定められている。
特使の目に、明確な殺意が宿った。
──絶句。会場全体が、氷点下の静寂に包まれる。
だが、その異様な空気を、私の隣にいた男は「キャサリンが寄ってたかって責められている」と、これ以上ないほど愚かに読み違えた。
殿下は、守るべき矜持を履き違えた騎士のように、その場でキャサリンを抱き寄せた。
「彼女は悪気があったわけじゃない! そんな目で見るな!」と、夫人と特使を睨みつけた。
──次期国王である殿下がキャサリンを肯定し、大公家と隣国を公衆の面前で『敵』として睨みつけた瞬間、それは個人の失態から「国家間の致命的な侮辱」へと変化した。
特使は静かに目を伏せ、大公夫人は扇を閉じた。そして、これ以上この愚か者たちと場を共有するのは耐えられないとばかりに、一切の挨拶もなく背を向けて去っていく。
二人が去ったことで、殿下は「俺の気迫で追い払ってやった」とでも勘違いしたのだろう。誇らしげにキャサリンを抱き寄せている。
違う。彼らは「宣戦布告」の準備をするために退席したのだ。時間が、ない。
殿下の側近たちは、意気揚々とした主の顔色を窺って動けずにいる。かといって、王宮の正規の文官たちが事態を把握し、王の許可を得て正式な使者を立てるのを待っていては完全に手遅れになる。
特使が自室に戻り、本国へ『宣戦』の鳥を飛ばすまで、おそらく数十分。
逃げるように散会していく貴族たちに紛れながら、私は静かにその場を離脱した。
ドレスの裾をたくし上げて走る。
公爵家の娘が、王宮の廊下を走るなど、本来あってはならないことだ。けれど、走らねば間に合わなかった。
まず大公夫人の控室に駆け込み、扉が閉まる前に滑り込んで、絨毯に膝をついた。両手をつき、額を床にこすりつけて謝罪した。公爵家の名にかけて詫び、相応の品と、それに見合うだけの金子を、その場で約束した。
夫人は、長いこと黙っていた。
扇で口元を隠し、私を見下ろしていた。
夫人の侍女が、控えめに咳払いをした。それでも夫人は黙ったままだった。
私の額の下、絨毯の毛足が、汗で湿っていくのを感じた。
時計の振り子の音だけが、室内に響いていた。
「……お顔をお上げなさい、ヴェルダンディの姫」
ようやく、夫人が言った。
私は顔を上げた。けれど、目線は合わせなかった。それが作法だ。
「あなた、いつまでこんなことを続けるおつもり?」
低い、鋭い声だった。
「あの娘の不始末を、あなたが拭って回るの。婚約者の務めだとでも?」
「……公爵家の名代として、然るべき謝罪を」
「言い訳はおよしなさい」
夫人は、扇で軽く、机を叩いた。
「あなたが頭を下げるたびに、あの娘は『守られた』と思い込み、殿下は『俺が守ってやった』と思い込む。あなたの手が血を流しても、二人は気づかない。気づかないのではなく、気づかぬふりをしているのよ。それを、あなたはいつまで続けるの?」
私は、答えられなかった。
答える言葉を持っていなかった。
夫人は、ふん、と鼻で笑った。けれど、その笑いには、不思議と棘がなかった。憐れみのようなものが、わずかに、混じっていた。
「──まあ、よろしいでしょう。あなたの謝罪は、受け取ります」
「……ありがとうございます」
「ただし、保留です。なくしたわけではありません。お忘れなきよう」
「……はい」
止めたわけではない。あくまで保留である。
私が公爵家の娘でなければ、保留すら、得られなかっただろう。
夫人の控室を辞したあと、私は別棟の特使の宿所まで、また走った。
廊下で何度か息を整えた。涙は出なかった。代わりに、こめかみの血管が脈打っていた。
特使には、夫人とは別の作法で詫びた。
彼の祖国の神官が用いる、最も丁重な礼の形。両膝をつき、両手の指を地に伸ばし、額を地につける。事前に、何かあったときのために調べておいた所作だった。動作のひとつひとつを間違えないよう、心の中で確かめながら、ゆっくりと姿勢を取った。
特使は、私が膝をついた瞬間、わずかに目を見開いた。
それから、長い沈黙があった。
「……公爵令嬢殿。あなたが、その礼を?」
彼の声には、警戒と、わずかな困惑が混じっていた。
「貴国の貴婦人にとって、その所作はどれほどの屈辱でありますか。私は知っております」
「不勉強な身ではございますが」
私は、額を地につけたまま、答えた。
「貴国の神々と、特使閣下の信仰に対し、心からの非礼の詫びを」
「……」
長い沈黙があった。
特使の靴音が、絨毯の上を歩く。私の前で止まる。
「……立たれよ、ご令嬢」
私は、立たなかった。
作法では、相手が三度「立て」と命じるまで、立たぬのが礼である。
特使は、わずかに息を吐いた。それは、笑いに近い音だった。
「……立たれよ。立たれよ。立たれよ」
三度、繰り返された。
私は、ようやく顔を上げた。
特使の右手が、剣の柄から離れていた。
それまで、握っていたのだ。指の節が、白くなるほどに。
「ご令嬢」
特使は、低く言った。
「貴殿のなさったことは、貴殿の婚約者殿の代わりにすべきことではない。それは、貴殿もご承知のはず」
「……はい」
「だが、貴殿の礼は、本物であった。我が国の神々は、礼の重さで、人の心を量る」
彼は、そう告げた。
そして、私から「報復は、当面、見合わせる」という言質を、辛うじて引き出した。
その代わりに、公爵家から正式な謝罪書状を出すこと、神殿への寄進をすること、そしていくつかの政治的譲歩をすることを、約束させられた。
私の一存でできる範囲を、超えていた。
それでも、約束した。書状はすでに、父の机の上にある。父はおそらく、署名するだろう。私が頭を下げて頼めば、父はいつだって、最後には署名してくれた。
父にも、これ以上の負担をかけている。それも、わかっていた。
王宮へ戻る馬車の中で、私はようやく、扇の骨が一本折れていることに気づいた。
§
そして、今だ。
「ねえ、キャサリン。もう泣かないで」
殿下は、キャサリンの頬の涙を、自分の指でぬぐっている。
「君は何も悪くない。あの夫人も、特使も、君の純粋さを理解できないだけだ。俺が君を守る」
「殿下……」
私は、息を吸った。
ゆっくり、深く。
「殿下。少しだけ、よろしいでしょうか」
「……なんだ、フィオレナ」
殿下の声から、明らかに温度が落ちる。
「キャサリン様を、これ以上、高位貴族の集まる場にお出しになるのは、危険です」
できる限り、平らかに申し上げた。咎める色は、声に出さないように。
「先日のお茶会の件、まだ収まっておりません。大公夫人様も、特使閣下も、表向きは穏やかにされていますが──」
「だから、お前はそうなんだ」
殿下が、私を遮った。
「いつもいつも、堅苦しい話ばかりだ。可愛げがない」
部屋の空気が、止まった。
「キャサリンは純粋なだけだ。お前のように、なんでも難しく考えて、人を疑って、計算ずくで動く女とは違う。お前も少しは彼女を見習え。俺の後ろに隠れて、頼ってくる女の方が、男としてはよほど守り甲斐がある」
キャサリンが、殿下の腕の中で、ちらりと私を見た。
潤んだ瞳の奥で、確かに、笑っていた。
勝ち誇った、というよりは──値踏みするような目だった。
(──殿下。私が誰のせいで、廊下を走り、見知らぬ国の神々に膝をついていると、お思いですか)
声には出さなかった。
出したところで、この方には、もう何ひとつ届かない。
「失礼いたしました」
私は、深く一礼した。
「出過ぎたことを申しました。殿下のご判断に、口を挟むつもりはございません」
「わかればいい」
殿下は満足げに頷き、すぐにキャサリンの方へ視線を戻した。
私はもう、視界の中にすら、いなかった。
私は、静かに私室を辞した。
扉が背後で閉まる音を、不思議なほど遠くに聞いた。
廊下の途中で、一度だけ、立ち止まった。
窓から、午後の庭が見えた。薔薇が、風に揺れていた。
庭の向こうで、誰かの笑い声がした。侍女たちだろうか。明るい、屈託のない声。
私は、その声を、しばらく聞いていた。
何も、感じなかった。
怒りも、悲しみも、惨めさも。
ただ、静かに、何かが落ちた。
これまで自分の中で必死に積み上げてきたもの──「婚約者としての務め」「公爵家の娘としての義務」「殿下への、幼い頃からのささやかな情」──それらが、音もなく、底の抜けた箱のように、落ちていった。
落ちていく感覚はあるのに、痛みはなかった。
痛みがないことが、いっそ、恐ろしいくらいだった。
幼い頃、殿下は今のような方ではなかった。
六歳の私が転んで膝を擦りむいたとき、駆け寄ってきて、自分のハンカチを差し出してくださった。「泣くな、男が嫁に泣かれては困る」と、ずいぶんませた口を利いて、私を笑わせてくださった。
あの頃の殿下は、確かに、優しかった。
あの優しさは、どこへ行ったのだろう。
それとも、初めから、あれは「俺は優しい」と自分で思いたいだけの、振る舞いだったのだろうか。
──どちらでも、もう、よかった。
胸が、軽くなった。
ぞっとするほど、軽かった。
私は、もう、この方を、愛していない。
愛していないと、自分に告げる必要すら、なかった。
私は自室に戻り、机に向かった。
便箋を二枚、用意した。
一通は、大公夫人へ。一通は、バルディウス特使へ。
文面は、短い。
「先日お預かりいただいた件、保留を、解かせていただきます。日時につきましては、追ってお知らせいたします。──失礼ながら、その場に、私はおりません」
封蝋を押すとき、指は震えていなかった。
私は、もう、誰かの尻拭いを走らない。
それとは別に、もう一通、手紙を書いた。
父宛てのものだった。
これまでのいきさつ、夫人と特使から取り付けた約束、そして──近く、婚約は破棄されるであろうこと。
すべて、私の側で誘導したこと。父に、お詫びと、ご相談を。
父からの返事は、翌朝、早馬で届いた。
同封されていた公爵家の当主印とともに、便箋に、たった一行、こう書かれていた。
「お前の好きにしなさい」
私は、その短い一行を、何度も読み返した。
読み返してから、初めて、少しだけ、泣いた。
§
数日後。
私はシュタイン殿下から、王宮の奥にある応接室へ呼び出された。
呼び出しの紙片には、わずかに浮き立ったような筆跡で、「重要な話がある」とだけ記されていた。
その紙を読んだ瞬間、私は思わず、笑ってしまった。
大公夫人と特使閣下へ『指定の時刻に、第三応接室の前へお越しください』と使いを走らせた後、私はいつも通りの装いで支度をした。地味すぎず、華美すぎず、公爵令嬢として恥ずかしくない程度の。
ただ、扇は新しいものに替えた。骨の折れていない、白珠の扇に。
そして、懐に、薄い書類を一枚、忍ばせた。
応接室の前まで来て、扉に手をかける前に、私は深く息を吸った。
廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。長い影が、絨毯の上に伸びていた。
扉の向こうから、キャサリンの、わずかに弾んだ笑い声が聞こえた。
私は、目を閉じた。
そして、ノブを回した。
応接室の扉を開けると、奥のソファに殿下が座り、その隣には案の定、キャサリンが寄り添っていた。
彼女は私の顔を見るなり、殿下の腕にしがみついて、わざとらしく身を竦めた。怯えるような仕草。けれど、口元はわずかに、上がっていた。
部屋の隅には、書記官が一人、控えていた。
婚約破棄の証人として呼ばれているのだろう。書記官は、私と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
彼は私の顔を、よく知っている。これまで、何度も書類のやり取りをした相手だ。
彼の目には、わずかな同情があった。
私は、彼に向かって、軽く微笑んでみせた。大丈夫ですよ、と。
書記官は、目を見開いた。
「来たか」
殿下が立ち上がった。
立ち姿に、妙な気負いがあった。台詞を、何度か練習してきたのだろう。鏡の前ででも。
「単刀直入に言う」
殿下は声を張った。
「フィオレナ・ヴェルダンディ公爵令嬢。お前との婚約を、本日をもって、破棄する」
私は、黙って、その言葉を受け止めた。
驚いた顔も、悲しんだ顔も、作らなかった。
ただ、聞いた。
「お前は……お前は確かに、優秀な女だ。家柄もある。父上も母上も、お前を気に入っている。だが」
殿下は、自分に酔うような声音になっていた。
「俺は気づいてしまったんだ。お前は、一人でも生きていける、冷たい女だと。俺がいなくても、何ひとつ困らない女だと。だがキャサリンは違う。彼女には、俺が必要なんだ。俺は彼女を選ぶ。そして、すべての敵から、彼女を守り抜くと決めた」
キャサリンが、潤んだ目で私を見上げた。
「フィオレナ様、ごめんなさい……私、こんなつもりじゃ……」
語尾が、わずかに笑っていた。
私は、ふっと息を吐いた。
そうして懐から、薄い書類を一枚、取り出した。
殿下の目の前のテーブルに、それを丁寧に広げる。
婚約破棄の合意書。
署名欄、押印欄、双方の家紋を入れる箇所まで、きちんと整えられている。
「……承知いたしました。では、こちらにご署名を」
殿下は、一瞬、きょとんとした顔をした。
おそらく、泣いてすがられるとでも思っていたのだろう。あるいは、せめて言い争いになることを。練習してきた台詞の、後半が空振りした顔だった。
「……用意がいいな」
「殿下のお気持ちは、以前から、なんとなく」
「……ふん。父上には後で俺から承認をもらう。余計なことはするなよ」
殿下は、少し気分を害したように眉を寄せ、それでもペンを取った。
書き殴るようなものだった。続けて、苛立たしげに自身の印章を押しつけ、ペンを放るように置いた。
インクが少し撥ねた。彼はそれを気にもとめず、ペンを放るように置いた。
私は、その合意書を両手で取り上げた。
署名を確認し、王家の印を押す欄を確かめ、自分の署名と公爵家の印も、その場で押した。
持参したインク壺と印章は、机の隅に静かに置いた。
合意書を、二つに折る。
そして──顔を上げた。
殿下に向かって、笑った。
心からの、晴れやかな笑みだった。
殿下が、ほんのわずかに、たじろぐのが見えた。
「ありがとうございます」
私は言った。
「これで正式に、私と殿下は『無関係の他人』ですね」
「……ああ、そうだ」
殿下は、すぐに気を取り直したように、胸を張った。
「これから苦労するだろうな。公爵家の名があっても、お前のような可愛げのない女を娶りたがる男など、そう多くはない」
「ええ。そうかもしれませんね」
私は、合意書を懐にしまった。
そして、扉のほうへ、ゆっくりと歩き出した。
ヒールが絨毯を踏む音だけが、室内に小さく響いていた。
扉のノブに、手をかける。
そこで、私は、足を止めた。
「ところで、シュタイン殿下」
「……なんだ」
「先日のお茶会で、殿下が『俺が睨みつけて、彼女を守ってやった』と仰っていた、大公夫人様と、バルディウス特使閣下の件ですが」
殿下の眉が、ぴくりと動いた。
キャサリンも、初めて、わずかに表情を曇らせた。
「あれは、私が」
私は、ノブを握ったまま、振り返らずに続けた。
「公爵家の名代として、お二方の控室を、一軒ずつお訪ねしました。絨毯に膝をつき、額を床にこすりつけ、相応の品と金子をお約束し、特使閣下には貴国の神官の礼の形で詫び、ようやく『報復を保留』にしていただいていたのです」
応接室の空気が、ゆっくりと変わっていくのを、背中で感じた。
「保留、でございます」
私は、振り返った。
「なくなったわけでは、ありません」
殿下の顔から、芝居がかった余裕が、表情ごと、剥がれ落ちていく。
キャサリンは、状況を理解しきれていないのか、まだ殿下の腕を掴んだまま、きょろきょろと私と殿下を見比べている。
「婚約が、たった今、正式に解消されました」
私は、合意書の入った懐を、軽く叩いた。
「私はもう、殿下の婚約者ではありません。公爵家の名代として、殿下のお相手のお詫びに走る義理も、私の家の権威で報復を抑える権限も、もう何ひとつ、ございません」
私は、扇をぱちりと閉じた。
「ですので──どうぞ、お入りくださいませ」
私はノブを引いた。
扉が、ゆっくりと開いた。
廊下に立っていたのは、二人だった。
一人は、深い藍のドレスをまとった大公夫人。
手にした扇を、自分の掌に、こん、こん、と軽く打ちつけている。その瞳は、笑っていなかった。少なくとも、優しい意味では。
もう一人は、バルディウス特使。
背後に屈強な護衛を二人従え、腰には正装の剣。通常、王宮内での帯剣は禁じられているが、特使特権として帯びるその剣は、彼の祖国で『神への侮辱に対する作法』のために用いられる種類のものだった。
「なッ」
殿下が、ソファから半ば腰を浮かせた。
「なんだ、これは……ッ」
「ひっ……」
キャサリンが、初めて、悲鳴とは呼べないほど小さな声を漏らした。
大公夫人が、扇を、ぱちん、と鳴らした。
「シュタイン殿下」
夫人は、低く、よく通る声で言った。
「先日のお茶会の件、保留にしていたものを、本日、お引き取りに参りました」
「夫人……っ、お、お待ちください、それは、あれは……」
「あれは、何でございますか?」
夫人は、ゆっくりと首を傾げた。
「殿下が『俺が睨みつけて守ってやった』と仰った、あの場面でございますか? それとも、ヴェルダンディの姫が、私の前で絨毯に額をつけて詫びてくださった、あの場面でございますか?」
殿下は、絶句した。
特使も、一歩、応接室の中へと足を踏み入れた。
絨毯を踏むその靴音が、先ほどまでの私のヒールよりも、ずっと重く響いた。
「殿下」
特使が、静かに言った。
「我が国の神々の名誉を守る作法は、貴国とは異なります。本来であれば、お茶会の場で、私自身が果たすべき作法でした。剣を抜き、神々の名のもとに、無礼者の血を地に返す。それが、我が祖国の作法でございます」
キャサリンが、ひっ、と息を呑んだ。
「公爵令嬢殿のご尽力により、ここまで延ばさせていただきました」
特使は、私に向かって、深く頭を下げた。
「ご令嬢には、改めて感謝申し上げる。貴殿の礼は、本物であった」
私は、深く礼を返した。
「もったいないお言葉でございます」
「──だが、ご令嬢はもう、貴殿の婚約者ではない。そう、伺いましたが」
特使の視線が、殿下に戻った。
「であれば、保留の理由は、消えました」
殿下が、震える声で叫んだ。
「ま、待ってくれ! 俺が、俺が悪かった、キャサリンにも、これからきちんと教育を……!」
「教育」
夫人が、静かに繰り返した。
「教育で、なんとかなる種類の問題ではございません、殿下。あの娘が私のドレスを踏んだ瞬間、教育の段階は、終わっておりますの」
「シュタイン殿下」
私は、震え上がる二人に向き直り、冷ややかに告げた。
「先ほど仰いましたよね。『俺が、すべての敵から、彼女を守り抜く』と」
殿下の唇が、わなわなと震える。
「どうぞ」
私は、頭を下げた。今度は、心の底から、丁寧に。
「殿下のご立派なお力で、その『守ってあげたくなるキャサリン様』を、本物の貴族の、本物の報復から、お守りくださいませ」
「ま、待て……ッ! フィオレナ、待ってくれ!」
応接室を出ようとした私の背に、殿下の声が刺さった。
先ほどまでの威厳は、欠片もなかった。
情けない、上ずった、ひび割れた声だった。
「俺が悪かった! さっきのは、全部、なしだ! 婚約は、まだ、まだ生きていることに……!」
「合意書は、たった今、双方の署名と印が揃いました」
私は、振り返らずに答えた。
「殿下のお手で書かれたものを、なかったことにはできません。殿下ご自身が、最もよくご存知のはずです」
「フィオレナ! 頼む! お前なら、お前の家の力なら、まだ間に合う……ッ!」
「お願い、助けてっ……! 私、私、何も知らなかったの! 殿下が、殿下が全部やってくれるって言ったから、私は、私はただ……!」
キャサリンが、ソファから転げ落ちる勢いで、私のドレスの裾に手を伸ばしてきた。
化粧の崩れた顔。涙でぐしゃぐしゃになった頬。先ほどまで「お姉様、ごめんなさい」と笑っていた口が、今は、ただ歪んでいた。
私は、その手を、ひらりと躱した。
振り払いもしなかった。ただ、半歩、横にずれただけだ。
それで充分だった。
廊下に出る。
扉の外には、大公夫人の侍女と、特使の護衛がもう一人、控えていた。
私が小さく目礼すると、侍女は深々と頭を下げ、護衛は無言で道を譲った。
彼らの目には、奇妙なほど、敬意に似たものがあった。
私は振り返らなかった。
振り返る必要が、もう、なかった。
廊下を、歩く。
窓の外では、午後の光が、芝生の上に長い影を落としていた。
庭師が、剪定鋏を手にして薔薇の手入れをしている。鳥が一羽、低く飛んでいった。
何もかもが、あまりにも穏やかで、現実離れしていた。
胸の中で、私は、ふっと笑った。
(──ええ、仰る通りですわ、殿下)
ヒールが、絨毯の上で、軽い音を立てる。
(私は、可愛げない婚約者ですので)
歩幅が、自然と広くなっていく。
(どうぞ、そのまま──お二人で、末永く、お幸せに)
そうだ。
彼が選んだ「守ってあげたくなる彼女」を、彼自身の力で、今度こそ守り抜けばいい。
私の頭の下げ方も、私の家の権威も、もう、彼の手の中にはない。
彼が手にしているのは、彼が自分で選んだ、彼自身の言葉だけだ。
それで、充分だろう。
彼は、そう望んだのだから。
「さようなら」
口に出したのは、その一言だけだった。
私は、扉を、自分の手で、ゆっくりと閉めた。
かちり、と、控えめな音がした。
閉まりきる、ほんの一瞬前。
室内から、絶望に満ちた悲鳴と、何かが砕けるような怒号が、確かに聞こえた。
扇が掌を打つ音と、剣が鞘から抜かれる、低く澄んだ音も。
扉が、閉じた。
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。
誰かの尻拭いに走り回る必要は、もう、ない。
誰かに「可愛げがない」と詫びながら笑う必要も、もう、ない。
私は扇を開き、口元を隠して、誰にも見えないように、少しだけ、笑った。
扇の骨は、もう、一本も折れていなかった。
そうして、私は、晴れやかな空の下へ向かって、軽い足取りで、歩き出した。




