第58話:鏡に映る姿
突然だが時雨悠人は猫が好きだ。
今まで飼ったことはないし、勇者として活動していた時に猫を飼う余裕もなかった。
軍に頼めば、本、漫画、ゲームといったインドア系の娯楽は許可してくれたことを考えると猫も許可されたかもしれない。
だが、当時の時雨悠人は、その選択はしなかった。
後悔があるかと言えば、過去を振り返っている今ならあると言えるが、当時の時雨悠人には思い浮かばなかった。
更に言えば、魔王や魔物との戦いが苛烈になる中で、そもそも娯楽に興味を持つこともなくなっていった。勇者としての戦いの辛さを娯楽で誤魔化せていたのは、時雨悠人の人生の中でも大きく占めていない。
……話は少し脱線したが、時雨悠人が猫が好きなことには理由がある。
勇者として日々活動し、魔物から人々を助ける日々の中で、助けているはずの人間達からも恐怖の目で見られるようになり始めていた頃に、偶々出会ったのだ。
魔物との戦いで疲れ切り、腰を下ろす自分に「ニャー」と言いながら、擦り寄ってくる小さい子猫に。
「……?」
疲れ切っていた当時の時雨悠人は、子猫のことを何も考えることなく、ゆっくりと持ち上げて、ジッと見つめたのを今でも覚えている。
白い長靴を履いているかのように、両手両足の先に白い毛が混じった愛らしい黒い子猫だった。
「ニャー」
ジッと見つめる時雨悠人から子猫は逃げ出すことはなく、それどころか見つめる時雨悠人の頬をペロリと舐める。
ザラザラした子猫の舌は決してくすぐったいものではなかったが、それでも他者から恐怖の視線しか受けなくなっていた時雨悠人にとって、とても嬉しい出来事であった。
その後は、ただひたすらに黒い子猫を撫で回したはずだ。
(確か、軍に預けたはずだけど…………どうなったっけ?)
戦いが終わったら、いつか黒い猫を飼うと決めた気はするが、結局ずっと今まで忘れていたのだから、案外自分の執着は大したことはないのだろうか。
だけど――視線がどうしてもフラフラと追ってしまうのだ。
今も左右にフラフラと揺れるシル先生の尻尾を――
「シグレ、反省しています?」
「し、しています! 本当にすみません!」
ラプラスに呆れたような視線で見つめられ、改めて時雨悠人はシル先生に頭を下げるのであった。
尻尾を握った後のシル先生は、猫のような叫び声を上げながら飛び起きてしまった。
下着姿の上に時雨悠人のワイシャツを被せただけのシル先生が、どういう状況になったのかは……そういうことだ。
「だ、大丈夫です……ふ、服もあ、ありがとう……ござい……ます」
時雨悠人に頭を下げられているシル先生はというと、顔を真っ赤にしながら、震えるような声で時雨悠人にお礼の言葉を言う。
震えている理由は、寒さではなく、羞恥心だろう。
なぜなら、時雨悠人のワイシャツはギリギリ彼女の下着を隠せる丈しかないからだ。
少しでも動けば見えてしまうだろう。
シル先生の身長は女性にしては高く、時雨悠人と余り変わらない。これで、彼女の身長がセブンスと同じくらいなら全く問題なかったのだろうが。
「……できる限り見ないようにします」
「お、お願いします」
女性関係の扱いには凄まじく疎い時雨悠人だが、今の状況が余りよろしくないことだけは理解できていた。
正直に言えば普通に怒って貰えた方が気が楽なのだが、時雨悠人の立場が恩人という状況になっているので、シル先生からしたら怒ることもできないだろう。
そのことが時雨悠人にとって、より辛かったりする。
「あ、あの……一ついいでしょうか?」
「あ、はい何でもいってください」
「そ、それは一体?」
シル先生が指さした先には、ラプラスがプカプカと浮かんでいた。
「え〜と、これはラプラスというセブンスの使い魔というか……こういう生物としか自分からは言えないかな。自分の仲間だから安心してもらって大丈夫」
「ラプラスです。魔術によって作られた魔導生物のようなものだと思っていただければ」
「ま、じゅつで?」
信じられない物でも見るようにシル先生はラプラスを見つめる。外の世界でも、ラプラスという存在は珍しいのだろうか。
「私のことは後でよいのでは? それよりも、セブンスのところに戻りませんか? あなたも一刻も早く子供たちに会いたいのでは?」
「魔道……いえ、その通りです! 早く子供たちに会いたいです! クロエ、ミア、ノルン、テオ、マコト……皆に……」
シャツの裾をギュッと握りしめながら、子供たちであろう名前を呟くシル先生。
どんな思いを抱いているのか時雨悠人には分からない。
そもそも、どうして子供たちを連れて、あんな場所で暮らしていたのかも、子供たちとどういう関係なのかもだ。
(シル先生の子供……う〜ん……)
人数的にシル先生の子供が居たとしても全員であることは絶対にない。「先生」というワードがあることからも、教え子のような関係なのだろうか。
どちらにしても、ボロボロになりながら、いつ崩れてもおかしくない建物で生活していた理由が分からない。
(気にはなるけど……)
それよりも、まずはセブンスや子供たちが居る場所に戻る必要があるだろう。
(ここから最大の問題というか……なんというか……)
まだ、ほんのりと顔を赤くしながらも、子供達のことを思い、真剣な表情で自分を見つめているシル先生に対する申し訳なさ……そして時雨悠人自身が感じる恥ずかしさを押し殺しながら、戻る上での問題と解決策を口にするのであった。
※
最大の問題は、異界病……シル先生は魔力中毒と言っていたが、要は今の地球に流れる魔力を何も対策せずに取り込むと肉体に毒のように蓄積していき、中毒症状を起こすといったものだ。
シル先生も中毒を起こしていたのは間違いない。
だが、死ぬことはなく、魔物のような異形な肉体へと変貌するといったイレギュラーな症状を起こすことになった。
死んだ人間――正確には魂が消失した人間を蘇生することは時雨悠人にも不可能であることを考えれば、死なずに肉体が変貌する結果となったシル先生は、不幸中の幸いだったのだろう。
助かったという結果がなければ、死んだ方がマシだったかもしれない運命だったが。
何はともあれ、時雨悠人はシル先生の正気を戻し、肉体に蓄積していた魔力毒も排除することができたのだが……問題としては、シル先生に再び魔力が蓄積していくことを止めることはできないことだ。
蓄積していく魔力毒の進行速度は、どれくらいなのか?
子供達のいる家までなら大丈夫なのか分からないのだ。加えて言えば、シル先生は本来の肉体にはない耳や尻尾などが残ったままとなっている。
シル先生の肉体がどうなっているのかも分からないまま、魔力毒を蓄積させるのは余りよろしくないだろう。
だからこそ、時雨悠人はシル先生が眠っている間は、膝枕をして起きるのを待っていたのだ。
慣れれば触らずとも治せるようになるかもしれないが、今の時雨悠人では、直接触れていないと毒を明確に排除することはできない。
そうなってくるとシル先生と一緒に戻る方法はおのずと限られてくるのだ。
つまり――
「何というか……すみません」
「あ、謝らないでください! 謝るのは私の方ですし、本当はお礼を言うべきなんですから………………恥ずかしい」
結論から言えば、時雨悠人がシル先生を背中に担ぐことになった。
(仕方がないとはいえ、これは大丈夫なのか! 嫌なのは我慢していたり……女性からしたら絶対に嫌だろうな)
好きでもない男に背負われて、しかもシル先生の服装はワイシャツ一枚で、太ももなどは素肌の状態だ。落とさないようにするためとはいえ、時雨悠人に触られることは、嫌で仕方がないだろう。
そして、背中から伝わる女性の体温や柔らかさに、ドキドキしている自分に自己嫌悪を感じてしまう。
「い、急いで戻るので!」
「あ、はい! でも、無理はしなくても大丈夫なので。わ、私は大丈夫なので! 子供達にもう一度会わせてくれるだけで……会える……会う? この状態で? こ、こんな耳や尻尾を生やした状態で子供達に……会う? そもそも、今の私ってどんな風に」
羞恥心を隠すように元気に返事をしてくれたシル先生だが、少しずつ声のトーンが下がり、最後の方はか細くなっていった。
「えっと、シル……先生?」
恐る恐ると、後ろを覗くと俯きながら、プルプルと震えているシル先生を伺うことができた。
「あ、あの!」
「は、はい!?」
ガバッと顔を上げたシル先生は、時雨悠人のことをじっと見つめながら、何かを決断するような視線を向けながらお願いを口にする。
「今の私の姿ってどんな感じでしょうか? 尻尾や耳が生えているのは分かるのですが、実際にどんな姿なのか自分の目で見れていないので……怖がられたりとかしないか心配で」
時雨悠人の肩に置いていたシル先生の手に力が入る。おそらく、いざ会うとなる段階で怖くなったのかもしれない。異形となったシル先生をシル先生と認めてくれるかを。
彼女の質問に答えるために、時雨悠人は一旦、シル先生を下ろして、改めてシル先生をつま先から猫耳までじっくりと見つめる。念の為、片方の手を繋ぎ、解毒の魔法を実行しつつになるが。
(いや……まあ……)
率直な意見を言い辛かった。そもそも、時雨悠人が何も言わずに合わせようとしている点から察して欲しかったりする。
(まあ、俺が彼女の立場で、セブンスに見られるとなると……)
勇気がいる気がした。
嫌悪されることはないだろうが――
「あの……どうなんでしょうか?」
不安そうな視線を真正面から答えるのが辛くなった時雨悠人はラプラスに視線を向ける。
「ラプラス……何か魔術で鏡っぽいのを作れたりしない?」
「素直に言えばいいと思いますが……まあ、気持ちは分かります」
どうやらラプラスも察してはいるらしい。暇な時に漫画とかを読んでいたらしいから察することができるのかもしれない。
パキパキという音と共に、丁度シル先生と同じ身長サイズの氷の鏡が作成される。
その様子に目をパチクリさせて驚いている様子のシル先生に、氷の鏡の前に立つように促す。
すぐに事情を察したシル先生は、驚いた表情から覚悟を決めた表情でゆっくりと鏡の前に立ち、今の自分の姿を初めて見るのであった――漫画やラノベとかに出てくるようなコスプレと突っ込まれても仕方がないような、可愛らしい黒い耳と尻尾をユラユラとさせている20代半ばの女性の姿を。
「……」
「……」
感情が抜け落ちたような表情でジッと見つめ続けるシル先生を横目で伺う時雨悠人だが、何と声をかければいいのか分からなかった。今だけでは、手を離して距離を取ってはダメだろうか?
そんな時雨悠人の気持ちを知ってか知らずか、握られる手の圧力は自分の姿を確認するよりも強くなっているので、自分から話すことはできなかったりする。しかも、どんどん強くなっている気がする。ぶっちゃけ、痛いくらいだ。
「シル先生?」
「……」
沈黙に耐えかねて、声をかけるが返事はない。虚な瞳で鏡の前の自分の姿を見ていた。
(もしかして、本気でショックを受けている?)
率直に言えば、猫耳や尻尾は可愛らしいと思っている。だが、シル先生からしたら人間ではなくなったかもしれないのだ。改めて恐怖とか絶望とかを感じている可能性もある。
(だとしたら――)
自分勝手な安易な感想を抱いていたことに後悔と怒りが湧いてきそうになる時雨悠人だが、一方でなんと声をかければいいのか全く分からない。
そんな静寂な空気の中で、そんな二人の様子を見かねたのか、それとも興味がないのか、全く空気を読まない発言をラプラスがする。
「私の感想としては、昔読んだ漫画や小説に出てくる男性向けの美少女ケモ耳といった感じですかね。気を落とすような姿ではないのでは? いわゆる、属性が増えたといった奴では?」
ラプラスの言葉に一瞬で茹だったタコのように顔が真っ赤となる。
「ッツ! う、ううう〜」
耐えきれなかったのか、握っていた時雨悠人の手を離して、頭を抱えながら崩れ落ちるのであった。
理解してしまったのか、本人もそう思っていたのか、そもそも自覚できる知識があることを少し意外に思う時雨悠人だが――ギュルンギュルンと回転でもしているかのように動く猫耳と、ブーメランのようにグルングルン動いている尻尾に目を奪われながらも、そんな身悶えているシル先生に内心ほっとするのであった。
(まあ、不憫そうな人ではありそうだけど)




