執行猶予はあげません
待望の嫡男が生まれたわずか半年後、クライン伯爵アドニスとニケ夫人は離縁した。
改心するからと執行猶予を願い出ていたアドニスを、ニケはピシャリとはねつけた。
彼女は義務を果たし、夫から解放される日を心待ちにしていたのだ。
ニケから三行半を突きつけられてなお往生際悪く渋っていたアドニスを説得したのは、意外にも彼の母親の公爵夫人だった。
彼女もまた、かつて夫に無関心を貫かれ、意思のない人形のように扱われていた妻だったのだ。
公爵夫人はアドニスをこんな風に育ててしまった責任は自分にもあると、全面的に義娘ニケの味方になった。
教会で、離縁許可書をもらって来て、息子にサインを迫ったのだ。
「私はずっと言い続けていたわ。ちゃんと、ニケと向き合いなさいと。でもあなたは私の言葉なんて聞かなかった。お父様もあなたも、ラントン家の男はみんな同じ。女には感情なんて無いと思ってる。でも女だって同じ人間なのよ。心無い言葉を言われれば傷つくし、自分を愛そうともしない相手を愛することはないわ」
母にそう言われ、アドニスは返す言葉もなかった。
同じ内容でも今までなら何も感じなかった母の説教が、初めて心に響いたのだ。
製本業が軌道に乗って儲けていたニケは、慰謝料はいらないと言って公爵家を出て行った。
話し合いの結果、二人の子どもも連れて出た。
ただ、子どもの籍はラントン家のままで、長男はいずれ公爵家の後継者としての教育を受けることになる。
ニケは実家のベルトラン家が所有している小さな家を改築して、そこに住むことにした。
王都の郊外にあった古い家だが、今ではすっかり立派なお屋敷になっている。
「家族みんなで一緒にご飯を食べるの。だってもう、家族の誰かがいない食卓なんてまっぴらだもの。ささやかでも、お互いを想い合って毎日笑って暮らす生活を、私はしたいの」
そう言ってニケは出て行った。
アドニスになど、全く未練を残さずに。
そして、姑である公爵夫人もニケについて行った。
ニケは、子どもたちの世話を買って出てくれた義母を歓迎した。
「これから私の青春が始まるの。楽しみだわ」
そう言って笑う夫人に公爵は縋ったが、彼女もまた、未練一つない笑顔で去って行ったのだ。
離縁届にサインしたあの日、ニケは晴れやかな笑顔を見せた。
ーー彼女は、こんなに綺麗に笑う人だったのかーー
アドニスはあれからずっと、彼女の笑顔に囚われている。
◇◇◇
数年後ーー。
ベルトラン製本社は高い技術力を誇り、国宝級の書物の復元まで依頼されるようになった。
現在王宮図書館の古文書の修理も任され、大勢の技術者を抱えている。
ニケの実家ベルトラン子爵家は、アカデミーを優秀な成績で卒業した弟が立派に立て直している。
もちろん姉ニケの力添えもあったが、ラントン公爵家の支援のおかげであるのも事実だ。
ニケと離縁した後のアドニスは、護衛騎士を辞め、公爵家の仕事に専念することにした。
妻に出て行かれた父が気力をなくしたこともあり、その後しばらくしてアドニスが公爵家を継いだのだ。
ニケとアドニスの長女は母の仕事に興味を持ち、幼いながらも手伝いを買って出ている。
おそらく将来、彼女がベルトラン製本社を継いでいくだろう。
また長男はアカデミーに入学するため猛勉強中で、卒業したらラントン公爵家の後継者となるべく修行に入るだろう。