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世界で一番すきなひと(10)

 自分の身に起きている事態の重さに気づくまで、一ヶ月近くかかった。

 最初は、単に浮かれてるだけだと思ってた。『彼女』がいる毎日を過ごすのも久しぶりだから、そのブランクと、できたばかりの彼女の眩しいほどの可愛さとの相乗効果にやられたんだろうと自己分析していた。


 何かが違う、と気づき始めたのはホワイトデーを間近に控えた頃だ。

 それだけ日数が経過してればさすがに落ち着いてくるもんだ。現に、小坂は一ヶ月ほど前の諸々の記憶を、少なくとも面には出さなくなっていた。営業課員としての小坂は、勤務態度もいつだって真面目だし、俺に対してぎくしゃくしてるとか、必要以上にもじもじしてるふうはなかった。

 一方で、彼女としての藍子とは、そもそも一緒にいる時間をあまり取れていなかった。せいぜいメールや電話したり、仕事帰りに家まで送ってやったりするくらい。もちろんそういう時にはちゃんと恋人らしいやり取りをしてるし、会いたいなら泊まりに来いって催促しては藍子を赤面させたりしている。ただ実際にはまだ来てもらってない。

 三月の十三、十四日は本当なら空いてる予定だったんだが、霧島家での飲み会の約束が入ってしまった。最近まで忙しかったのは俺だけでもなく、各々がようやく一段落ついてくる時期だったから――あと霧島の結婚式以来、皆で集まる機会もなくて、せっかくのデジカム映像を披露できずにいたから、そろそろ集まっとかないと永久にお蔵入り映像になりそうだ。別にデータだけ霧島に渡してやって後はノータッチでも全っ然構わないんだが、どうせなら他の連中とツッコミ入れつつ見たいよなと思ったのもある。

 それと、霧島の奥さんが手料理を用意すると言ってくれたから、そういうことならと上映会を開催することにした。


 ――と、藍子に話したら、なぜかにやにやされた。

「やっぱりいいなあ。素敵ですね、男の友情って感じがして」

「何言ってんだお前、打算でつるんでんだよ俺たちは」

 男の友情なんてまやかしです。俺は友情なんかよりも愛を取っちゃう派だし、霧島はもっと上を行く前科一犯の裏切り野郎だ。だからって安井が一番善人だとは、世の中が引っ繰り返っても言えるはずがない。

 しかし俺がどんなに言い張ろうと彼女は聞く耳持たず、一人納得してしまう。

「主任はとっても優しい方ですもん。打算なんて、本当は思ってもないですよね」

 その言葉が事実かどうかはともかく、そりゃお前には優しくしちゃうよ大事な大事なかわいこちゃんだもの、という心の声もともかく、ふとした時の藍子のそういう物言いにはどきっとさせられる。

 絶賛ときめき続行中です。もう一ヶ月が経とうとしているのに。

 で、俺はそのらしくもないときめきっぷりを何か変だよなと思ってもいたりして、もしやこれが不整脈ってやつかと怪しんでもみたがそういうわけでもないらしく、どうしてこんなにどきどきするんだろうって考え続けている。

 藍子と話しているうちに顔がにやけてきて、動悸が激しくなって、その他にもいろいろ衝動的な感情が湧き起こったりして、いてもたってもいられなくなる。これが今みたいな帰り道の車内だったら、小坂家の近くに着いた辺りでいつもより余分にちゅーしたりとか、勢いに任せて抱き締めたりとかするんだが。

 それができない時にも、情け容赦なくときめきの波はやってくる。

「楽しみですね、土曜日。主任が撮ってくださったんですから、仕上がり期待してます!」

 何にも知らないであろう藍子は、無邪気にはしゃいでいる。可愛い。


 ホワイトデーの頃ともなれば、俺には考えなくちゃいけない事柄だって増えてくる。

 本命チョコのお返しはどうするか、当たりはつけてある。バレンタインに俺がいただいた数々のものに太刀打ちできるくらいの、それでいて現段階でも贈れるレベルの品。あの真面目な奴にいきなり貴金属とかやっても絶対困られるだけだし、かと言って食べ物に落ち着くのは食いしん坊が相手だけに癪だ。どうせなら形に残るものがいい。それでいて今後の関係を前向きに発展させられるようなものにしたい。

 ってことで用意したのは、俺の部屋の合鍵。

 恋人の証としてはこの上なくぴったりなプレゼントだ。

 貰った本人よりも俺の方が得するものじゃねーかとか、そういう的確かつ無粋なツッコミも心優しい藍子ならしないはずだ。いいじゃんもう、気楽に行き来してもらえるような関係にとっととなっちゃいたいんだよ。

 そしてもう一つ、ずっと考えてることがある。

 最近の俺、やっぱりちょっと変じゃないか。


「――主任!」

 彼女に呼ばれると、おかしいくらいどきどきする。

 三月十二日金曜日の朝、俺は営業用お返しを携えて出勤してきたところで、エレベーターを降りて営業課まで向かう最中にその声を聞いた。

 すぐに、ぱたぱたと階段を駆け上がる元気な足音がする。

「おはようございます!」

 さっきよりも近いところから挨拶が聞こえ、俺はようやく振り返った。

 まだ人も疎らな会社の廊下、背景に上ってきたばかりの階段を背負って、小坂の上気した笑顔が見える。尻尾みたいに揺れる結んだ髪と、くすんだ白のコートが可愛い。もうマフラーをしなくなっていたし、コートも先月よりは軽くなったようだし、まあ何着てたって可愛いのは可愛いんだが春っぽいのが似合うなとつくづく思う。春生まれさんだしな。

 でも近頃は、彼女の可愛さを堪能する余裕さえなくなってきた。

「元気だな、お前」

 思わず苦笑した俺に、小坂は一瞬きょとんとしてから答える。

「はい! 明日は飲み会ですから、仕事は今日中にしっかり片付けて明日に臨もうって思ってます」

「そっか、そうだよな」

 俺も明日の為に、余計な仕事を残さないようにしないと。

 なのにここのところ、業務に差し障りのありまくる考えが頭から離れなくてほとほと困っている。小坂相手に今までにないくらいむちゃくちゃどきどきして、顔もまじまじ見てられないほどで、つい胸を押さえたくなるくらいの痛みも覚えたりしてる。何だこれ恋か。いや恋なのはとっくの昔に知ってるが、これから仕事って時に何を考えてんだ。

 でも、思い出してしまう。一ヶ月前の出来事を。

 彼女が俺を呼び続けていた、あの夜の一部始終を。

「あ、そうだ。これ買ってきましたよ、主任」

 そんな記憶に配慮してくれることもなく、今も小坂は俺を呼ぶ。

 あの時とは違う声で。違って聞こえるけど同じ口から発せられる声で。

 そうしてうろたえそうになる俺をよそに、小さな紙袋を掲げてみせる。

「何だそれ」

「バレンタインにいただいた、営業チョコのお返しです」

「ああ……お前も返さなきゃいけないんだっけ」

「はい。ホワイトデーのお買い物したのは初めてで、うっかり散財しそうになっちゃいました。何でも美味しそうに見えちゃうんですよね、デパートの食品売り場って」

 楽しそうな口調から察するに、きっといい顔して菓子売り場をうろちょろ歩き回ったんだろう。

 きっと可愛かっただろうな、と俺が想像を巡らせる前に、

「主任のお蔭で気を引き締めて、適切なお買い物ができました。ありがとうございます!」

 また、彼女が俺を呼ぶ。

 俺の思考は一気に引き戻される、むしろ引き戻されたかと思いきや現実を通り越して実にいかがわしい色合いの回想シーンまで攫われていってしまう。

 新しい妄想も過去の、確かに体験した出来事には全面的に敵わない。瞼の裏には勤務中には思い浮かべちゃいけない類の映像が蘇っていて、しかし俺の隣に今いるのはマイハニー藍子ではなく、真面目で仕事熱心でちょっとうっかりな可愛い部下の小坂だ。浮かんだ記憶を即座にこの場で追体験することはできない。馬鹿みたいにどきどきする鼓動を、彼女を巻き添えにすることで誤魔化してしまうこともできない。

 じゃあ、どうしたらいいのか。

「主任も、たくさん買っていらしたんですね」

 小坂は無慈悲に俺を呼び、俺の手荷物に視線を落とす。

 一ヶ月前からずっと、同じ呼び方しかしてくれない。それは他人行儀ではあるが好意が窺えないわけでは決してなく、むしろわかりやすいくらいに嬉しそうに呼んでくれるのがかえってまずい。

 お蔭で俺も、一ヶ月経ってからやっと気づけた。

 なるほどそういうことですか、とこの瞬間に全部理解した。

「……たくさんってほどでも。去年よりかは少ない方だ」

「そうなんですか? やっぱり主任ともなると、あんまり営業に行かなくなるからですか」

「まあ、な。客単価は上がるから、こういう時の出費は相変わらず馬鹿にならないがな」

「わー……大変なんですね、主任って」

 そうだよすっげー大変なんだよ。

 全てはお前が、俺のことを名前じゃなくて『主任』って呼ぶからいけないんだ。


 気づいてしまったからと言ってどうなるわけでもない。

 あいつが俺を役職名で呼ぶのを勤務中に咎められるはずもなく、というか俺が出世か降格でも食らわない限りはずっとそう呼ばれてしまうことになる。もちろんプライベートでの使い分けを命ずることはできるだろうし、つかこっちはちゃんと小坂と藍子でばっちり使い分けてるんだから、彼女にだって最終的にそうなっていて欲しいものなんだが、差し当たってのもやもやしている思考状況を一気に晴らしてくれるような案ではなかった。

 それならあの時、無理を押してでも名前で呼ばせておけばよかったのかもしれない。あるいは名前呼びがどうしても不可能だって言うんなら、せめて勤務中っぽい呼び方はやめろとか、他の手立てもなくはなかった。

 でも、白状しよう。俺はああいうシチュエーション下であいつに『主任』と呼ばれてしまうことに正直、魅力と言うか、それはそれで燃えるみたいな気持ちも抱いていて、名前呼びなんてこの先いつでもしてもらえるようになるだろうが、主任って呼んでもらえるのはそう長くないかもしれないし、社内恋愛は初めてだったのもあって、これもいい経験とばかりに堪能する気満々だったわけだ。俺の側が乗り気だったと言うのに、どうしてあいつだけを責められよう。頭の中がいかがわしい記憶で溢れてしまうのも、言ってしまえば自業自得というやつである。

 そして解決策も浮かばぬうちから、もっとまずい事実が浮上してきた。

 俺を『主任』と呼ぶのは、小坂に限った話ではない。


「石田主任、ちょっといいですかー」

 例えばこんなふうに、野太い男の声でも呼ばれたりする。

 引き続き三月十二日の朝。朝礼の後で小坂は先陣を切って営業的ホワイトデーへと飛び出していき、営業課は必然的に男だらけになる。途端に待ち構えていたように呼ばれてしまったから、俺は萎え萎えの気分で、その男どもが雁首揃えている辺りへ歩み寄る。

「小坂さんと霧島くんの奥さんへのお返し代、一人五百円徴収します」

 皆、マスコットとアイドルの為なら張り込むのも厭わないらしい。現在の人員から計算するに結構な金額が集まりそうだが、異論出ないところが地味にすごい。俺も異議ないけど。

「何買ってくるか決めました?」

 俺が尋ねると、居合わせた連中は一様ににやにやし始める。なぜだ。

「それなんですけどね、結局決めかねちゃってるんですよねー」

「はあ」

「ほら、小坂さんみたいな若い子の好みって、我々じゃ掴みかねると言いますか」

「あー、まあ、そうかもしれないですね」

 あいつの好みなんて美味いものに甘いものでどうにでもなるだろ。俺はそう思ったが、白々しい相槌だけを打った。

 しかし俺と小坂の関係なんて、もはや課内どころか社内に知れ渡っている。だから今のそ知らぬふりも小芝居にすらならない。すぐに会計役から肩を叩かれた。

「そういうわけで、主任。営業課を代表してお返しを買ってきていただけますか」

 主任と呼ばれたことにも気が重くなったが――だから今は男には呼ばれたくないんだって!

 それはさておいても白羽の矢がぐっさり来たのには驚いた。

「……俺が?」

「ええ、是非! 小坂さんの好みもご存知ですよね、主任なら」

「そりゃ知っては、いますけど」

 含むような物言いをされて迂闊にも言葉に詰まってしまった。遠回しに冷やかされるのだってずっと日常茶飯事だったし、その程度でうろたえるような俺でもなかった。むしろ『石田主任は小坂の専任ブリーダー』みたいな暗黙の了解を役得だと思って、皆のにやつく視線を跳ね除けて、小坂の隣にひっついていた。

 この間までは。

 今は、面と向かってからかわれて、小坂のいないところですらどぎまぎしている俺がいる。

「じゃあ、俺が買ってくればいいんですね」

 一応確認したら、会計役にはわざとらしく頭を下げられた。

「お忙しいところすみません。お願いします!」

「あー、いや、いいですけど。外出たついでに行ってきます」

 俺も別に嫌じゃないくせに、煮え切らない返事しかできないのが困る。

 これだって役得じゃないのか。俺が選んできた品で、小坂をものすっごく喜ばせられるって役得。ただそれも皆の前でと思うと、微妙に照れる。

 いや照れるとかそれこそ今更だけどな。やっぱ俺おかしいわ。

「それと主任、霧島くんの奥さんの分も、何かいいのをお願いしますね」

 更に頼みは続き、皆の視線が輪に加わってる霧島へと注がれる。自分の奥さんあてのお返しだというのに、出資者に名を連ねてる辺りがちょっと笑える。

「本当はそっちは霧島くんにお願いしようと思ってたんですけど、今日は彼、相当忙しいみたいなんで」

「……俺、手が空かないんです。今日中に行かなきゃいけないとこがたくさんありまして」

 当の霧島は浮かない顔だった。バレンタインデーの収穫高に呼応して、霧島が用意してきたお返しの量は俺よりもぐっと多い。あれを今日中に配り歩くのは大変そうだ。

「霧島、お前の奥さんって何が好き?」

 俺が水を向けると、奴は生真面目に考え込んで、

「ゆきのさんは、好き嫌いとかないですから、何でもいいはずです」

 全く参考にならねえ意見を寄越した。

 しかし、ゆきのさん、ですか。小坂がそう呼ぶのにはすっかり慣れてしまったが、霧島が呼ぶのは違和感がまだある。それは俺のせいじゃなくて、霧島自身がいつまで経ってももごもごと、言いにくそうなそぶりだからだと思う。だから散々、結婚する前からちゃんと呼んどけって言ってたのに。

「霧島くん、奥さんの好物とか知らなくて大丈夫?」

 他の連中にからかわれて、霧島は慌てている。

「や、知らないわけじゃないですよ! ただお菓子類なら何でも食べるって話なだけで!」

「心配だなー。新婚さんなんだから、そういうとこ熟知しとかないと駄目でしょ」

「大丈夫ですってば! 心配されるような点もありません!」

 言い張る奴の姿に、俺は明日の我が身を予感する。


 今となっては、俺だって奴と変わらぬ裏切り者だ。

 営業課のマスコットに手を出した以上、どんなからかいも冷やかしもやっかみも投げつけられて当然だ。こっちもその程度で懲りたり挫けたりするつもりはないし、あいつを譲る気もさらさらないが、何でだろうな。面食らうようになってしまった。

 恋愛って、こんなもんだったっけ。

 仕事の片手間にできて、楽に両立できて、波風立たない歳相応に穏やかな恋愛が理想だった。

 女の子のことで仕事に影響があるなんて嫌だったし、そういうのはやりたくないって思ってた。

 なのに、一番やりたくない類の恋愛になりつつある。片手間にできるほど容易くなく、両立は楽でもなく、喧嘩したわけでもないのにいちいち心がざわついたり胸が痛くなったりする。でもってこっぱずかしい。小坂のことで振り回されてる自分を客観視したら、あまりの酷さ格好悪さから本当に倒れてしまいそうだ。

 三十にもなって、こんなふうに誰か好きになっちゃうとか、おかしいだろ俺。


「主任も、よろしくお願いしますね」

 呼ばれたことと、意味深に聞こえなくもない言葉にはっとする。

 顔を上げると皆の視線はいつの間にやら俺に集中していて、その輪から離脱した霧島が、こそこそとカバンや紙袋を抱えて営業課を出て行くのが目の端に見えた。

 ――あいつ、逃げやがった。

「小坂さんの喜ぶもの、ちゃんと買ってきてくださいよ」

「もうにっこにこしてる小坂さんが見たいんで、頼みましたよ!」

「あーでも主任の買ってきたものだったら、何だって喜んじゃいますよねあの子」

 口々に言われて俺はやっぱり異常なくらい面食らう。だからおっさんは呼ぶなって、男の声で小坂のこと思い出すとか食い合わせ悪いにもほどがあるから。

 で、冷やかしまくられて収拾もつかなくなった俺は、やむなく自棄になって開き直って言い返す。

「心配しなくたって小坂の喜ぶ顔、俺が独り占めしちゃいますよ」


 その後はもう、からかいの言葉がうるさいのなんのって。朝っぱらから口笛まで吹かれた。何だこれ。

 いくらホワイトデーだからって、職場でする会話じゃねーだろ。

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