世界で一番すきなひと(9)
バレンタインが終わり、俺は月曜の朝を異様なハイテンションで迎えていた。
朝七時に家を出て、もちろん営業課に一番乗りした。
自分でも認める、ただの馬鹿だ。
別に彼女に会う為だけに会社来てるんじゃないだろうに、その分の給料が出るわけでもないのに、今週はまだ始まったばかりなのにここまで張り切っちゃって大丈夫か俺。
しかし誰もいない職場でとりあえず備品の補充とか、書類の整理なんかをしていると、じわじわと込み上げてくるものがあったりする。先週の金曜日もここにいて、普通に仕事したり何だりしてたわけだが、あの日とは気分がまるで違いすぎた。
あれから三日しか過ぎてないのに、その間いろんな出来事が、しかももれなく幸せな出来事ばかりが起きてしまった。
夢のような土日の記憶は、気が重くなって当然の月曜日さえ浮つかせてくれる。一人でいてもにやにやしてくる。やばい。笑わないでくださいね、なんて言われてたのに、この分だと彼女の顔見て笑ってる、みたいに誤解されちゃいそうだ。引き締めておかねば。
俺が出勤してから五分後くらいに、営業課のドアが再び開いた。
何だか予感でもしているみたいに、そろりそろりと開いた。ドアの蝶番が軋んだ音を立てる中、ドアの隙間から慎重に、見慣れた可愛い顔が覗いてきた。
室内にいるのが俺一人だと確かめたか、気まずげに口を開く。
「お、おはようございます……」
今のそれ、中にいるのが本当に俺一人だったからよかったものの、他に誰かいたらあからさまに怪しがられるじゃないか。今みたいな、いかにもびくびくしてますよっていうわかりやすい態度でいられたら、俺だって困る。
仕方なく、なるべく平然と応じてやる。
「おはよう、小坂」
「……はい」
消え入りそうな声の後、彼女は――小坂は、室内に入ってきた。
静かにドアを閉め、コートとマフラーまで固まってそうなぎくしゃくした動きで自分の席へと向かう。その不審さと言ったら、社内中の皆さんに気づいて欲しいと言わんばかりだ。
「普通にしてろよ」
思わず声をかけた。
途端、びくりとした小坂はカバンを落っことしそうになり、それを両腕で抱えてから俺の方を見て、必死に弁明してきた。
「だっ、大丈夫です! 全然大丈夫です!」
ほっぺたが真っ赤なのも、外が寒いからという理由だけではないはずだ。
しょうがない奴め。
「そうは見えないから言ったんだ」
「すみません……でもあの、普通にしてますから! もう少ししたらちゃんと!」
言い張る彼女はそのぎこちない動きのままで机の陰へと消えてしまい、程なくして椅子の軋むぎいっという音がした。しかしその後には何の音も続かない。コートを脱ぐ気配も、カバンを開ける気配もない。
壁掛け時計がこちこち言うのが聞こえるくらい、静かになる。
俺も話しかけるべきとは思いつつ、下手なこと言って余計に動揺させるのもなあ、と困惑してしまう。今の小坂ならどう声をかけてもうろたえてしまいそうだ。だからと言って放っておくのもかわいそうだし、どうしたものか。
ぼんやりと考えをめぐらせていれば、その間はまんまと重たい沈黙が続き、息苦しさに俺も焦ってくる。とにかく黙ってるのがきつい、何かないか、何か適当な話題を早く見つけないと――などと頭を捻っているうちに、はたと気づく。
どうして俺が、話題探さなきゃなんておろおろしてんだ。
いや、そもそもうろたえてるのは小坂だけだろ。俺は別にどうってことないし、女の子と一夜を共にしました、なんてのが初めてなわけでもなし。次の日に顔を合わせた時にどんな話をするかなんて大した悩みでもないはずだ。
そりゃ確かに、社内恋愛でそういう関係になったのは初めてですがね、だからって何話しかけていいか悩むとかないわ。
俺は上司であいつは部下なんだから、それっぽい仕事関係の話を振ればいいんじゃないのか。と言うか無理に話さなくたって沈黙が重いとか感じる必要ないだろ。こっちが息苦しくなるとかおかしい、つい昨日までは顔眺めてるだけでも幸せだって思ってたのに。
あ、そうか、顔か。顔見ないで考えてるから駄目なのか。
それだって昨日電話もしてるんだしおかしな理屈ではあるんだが、でもあの可愛い顔見れば話題も湧くだろうと思って、視線をそっち向けた時、
「小坂」
「ああああの、よろしいですかっ」
俺の声と彼女の声がまたいいタイミングで被った。
ついでに勢い余った様子で立ち上がっていた彼女と目が合い、彼女の方がいち早く、わかりやすく赤面した。
まずった、と声を失う俺をよそに、真っ赤になった小坂は目を逸らす。
「主任が……お、お先にどうぞ」
「は?」
何が、と思った次の瞬間には、
「話をする順番、です」
説明があって、俺はすぐに理解したものの。
あれ。
どんな話をしようとしてたか、とっさに忘れてしまった。
いや、忘れたんじゃなくて――そうだ、違った。何を話そうか考えてたんだよな。小坂の顔見ながら考えようと思って、それでとりあえず呼んでみただけで、特にまだ決めてはいなかったんだ。だから順番を譲られても困る。大層困る。
「お前、先でいいぞ」
逆に俺が譲ってみたら、小坂の方も戸惑った表情になった。
まさか何も考えてなかったのか。
「あの……では、仕事のことで、質問があるんですけど」
そして口にした話題も俺のアイディア候補と大差ない。職場で話すにはぴったりだけどな。お互い話題探しに苦心してるってことか。
「ああ。何でも聞け」
「ありがとうございます!」
胸を撫で下ろした小坂が、そのまま俺の席まで駆け寄ってくる。しかしまだコートを着たまま、マフラーを巻いたままだったから、このうっかりさんめと注意をしてやりたくなる。
「待て。まずそれ脱いでから来い」
俺がそう言った途端、小坂の歩みがぴたりと止まり、
「え? あっ、えっと」
その時の顔がいかにも何か思い出したような、溶け出しそうな恥じらいっぷりに見えたので、さしもの俺も慌てた。
「ば、馬鹿、違うって! 脱げって言ったのは変な意味じゃなくて!」
「わわ、わかってます! 大丈夫です!」
「わかってんだったら普通にしてろよ!」
「どっちかって言うと何が普通なのかわからない感じなんです!」
そりゃもう重症だ。俺も他人のこと言えてないけど。
ともあれ小坂は不器用そうな手つきでマフラーを解き、コートも脱いで、畳んでから、改めて俺の席までやってきた。項垂れた姿勢でおずおずと、質問を切り出してくる。
「ええと、質問があるんですけど」
「……ああ」
目の前に立たれると、視線の置きどころにも困る。男相手ならこういう場合はネクタイの結び目を見ろとか言うが、女の子の場合はな。
「ホワイトデーのことなんですけど」
小坂は俺の視線にも気づかず続ける。
「お返しって、大体いくらくらいにしたらいいんでしょうか」
「お前がお返しすんのか? 三月に?」
またすっとぼけたこと言ってるのかと俺は吹き出しかけた。
が、小坂は紛れもなく本気のようだ。更に続けた。
「実は、営業チョコをいただいちゃったんです」
「お前が? あげたんじゃなくてか」
「はい。営業先で、受付のお姉さんに」
「へえ……まあ、目的考えりゃおかしなもんでもないのかもな」
カレンダーとか手ぬぐい並みの品なんだから、小坂がチョコ貰ってきたって別段おかしくはない。まして甘いものなんか、おっさん相手に配るより女の子にあげた方が確実に喜ばれるだろうしな。小坂なんて格好の贈り先だろう、実に食べさせがいのある食いしん坊だ。
「それで来月、お返ししようと思うんですけど、どのくらいのがいいのかなって」
小坂は話しながら、胸の前辺りで両手を組み合わせた。女の子らしいその仕草につられて、俺の目もついそちらへ留まってしまう。
スーツとブラウスに包まれて隠れてはいるが、一昨日つけた跡はまだ残っているはずだ。
消えないようにって念入りにやったんだから間違いない。
もっともそれを、土日のうちに小坂が気づくことはなかったわけだが――それはもう、目に入っていないかのように完全スルーだった。明るいところでも見たはずなのに、着替えだってしたくせに。もしかしたら気づいてはいたが、やっぱり『ぶつけちゃったのかな?』程度で済まされたのかもしれない。小坂ならありうる。
別に気づいてくれなくてもいいんだけどな。次の機会には教えるから。今のところは俺が知ってるってだけでも満足だ。
でも正直、ちゃんとついてるかどうかを確かめたい気持ちはある。そのスーツのジャケットや白いブラウスに包み隠されている中身を、すべすべしてて瑞々しかった肌を是非とももう一回眺めて、ちゅーしまくって、今度はもうちょっと跡のつくように噛みつきたい。
彼女がまた、俺を呼び続けていないと正気を保ってられないくらいに、
「――主任?」
違う。もうちょっと色っぽく。
そんな勤務中みたいな呼び方じゃなくて。
「あの、主任……大丈夫ですか?」
ぼんやり眺めていた視界が切り替わる。スーツの隙間に見える白いブラウスの胸元ではなく、彼女の顔に。それも酷く心配そうな。
俺の思考も切り替わる。
――と言うか待て待て待て! 今何考えてた俺!
「うわ、えっと、悪い! ちょっとぼうっとしてた!」
急いで頭を振ると、屈んで俺の様子を窺おうとしていた小坂が気遣わしげになる。
「いえ、ぼうっとしてただけならいいんです」
「悪かった。本当ごめん」
「あ、謝っていただくようなことでは! 具合悪いのかなって思ってたから、よかったです」
話を聞いてなかった俺に、天使みたいな優しさを向けてくる。
すみません。具合悪いどころか超元気にいかがわしいことを考えてました。もう頭の中はピンク一色でえらいことになってました。この変態駄目人間って容赦なく罵ってくれても構わないのに、藍子ちゃんと来たらどうしてそんなに優しいのか。愛してる。結婚しよう。
「年度末ですから、お身体とか、大事にしてくださいね」
俺の内心の求婚を知ってか知らずでか、小坂は照れたように微笑む。可愛い。
それで俺はまたトリップしかけたものの、ここは職場だと思い直して話題を戻した。
「ホワイトデーの話、だったよな」
「そうです」
「お返しは……まあ、営業チョコの時と同じくらいでいいんじゃないか。あんまり張り込んでも気を遣わせるだけだしな」
本当は貰ったチョコの値段を調べられたらいいんだが。でもそういうのをピュアハートの持ち主にやらせるのも気が引けるというか、せっかくの夢がなくなっちゃうよな。
「そんなものでいいんですか」
小坂が驚いたように唸ったから、俺はすかさず突っ込んでおく。
「まさか三倍返しとか、律儀に考えてたんじゃないだろうな」
「えっ! どうしてわかっちゃったんですか?」
本当に考えてたのか。
そもそもお前は本来なら貰う側だろうに。ということはあれか、貰う側としても三倍返し希望ってことなのか。小坂の性格なら営業チョコにそこまでの期待は寄せてないだろうが、それ以外についてはどうか。本命だったら、あげた分の三倍くらいは貰っても当然と考えたりしてるんだろうか。
彼女がどう思ってようと、俺は元よりそのつもりだ。ただ貰った分の三倍となると、何で返せばいいのか皆目見当もつかない。猶予は一ヶ月しかないから、早めに決めとかないとまずいな。
「そっか、チョコと一緒くらいでいいんですね。忘れないように用意しておきます」
張り切る小坂の顔も可愛い。仕事に差し障りそうなレベルで可愛い。
そんなこんなで彼女と、ぎこちないながらも仕事の話を続けていると、三番乗りで霧島が現れた。
「おはようございまーす」
眼鏡を曇らせつつ営業課に乗り込んできた霧島は、それでも俺と小坂の影には気づいたようだ。こちらに向かって挨拶をし、すぐに小坂が応じた。
「あ、おはようございます霧島さん!」
「小坂さん、おはようございます」
口元だけははっきりと笑んだ奴は、そのまま自分の席に向かうと、コートを脱ぐよりも先に眼鏡を外してそれを拭いた。そして掛け直してから、あれ、と訝しげにする。
「先輩。いたんですか」
「いたよ。気づけよ」
「だって挨拶しても返事もないですし……それに何ですか、その顔」
顔がどうしたって。こっちも負けじと訝しがってやれば、霧島は呆れたように答える。
「何か引きつってません?」
「は? 何でだよ」
「いや、すっごい微妙な顔してますって。小坂さんとのひとときを邪魔されて、むかついてるんですか?」
霧島は無神経にもからかう調子で言い、
「そ、そんなまさか! ちっともそんなことないですよね、主任!」
俺に先んじて慌てふためく小坂を、当の俺は何とも言えない気持ちで見ていた。
おかしい。どうしてこんなやり取りに、ここまでどぎまぎしてるのか。
霧島にやり返せないほどとかどうなんだ。やばくないか。
まさか本当に、ときめきで倒れる瞬間が近づきつつあるのか。




