世界で一番すきなひと(8)
「なってみろよ、三十に」
前にも言った覚えのある言葉を、俺は彼女に囁く。
「案外大したことなくて、お前、きっと『なーんだ』って言うぞ」
「大したことないんですか? そうは見えないです」
「全然しょぼい。俺がしっかり見届けてやるから、せいぜい覚悟しとけ」
「ふうん……」
藍子は目を丸くしている。
そういう表情は二十三歳にしてもちょっとあどけなく見えて、それはそれでなかなか可愛い。
しかし、こいつが三十になったら俺は三十七か――直視したくない現実だ。そして俺は三十七になったって、大したことない、しょぼいって毎日のように思い知らされてそうだ。藍子と一緒なら間違いなく。
直視に堪えない現実は置いておこう。
「違う話していいか」
俺は真面目な路線から脱却すべく、そう水を向けてみた。
「どうぞ」
すぐさま藍子は頷いてくれたので、早速尋ねる。
「お前、寝る時ノーブラなのか」
「ええ!? な、な、何でですか!」
「いや、キャミの下に着けてなかったから。いつもそうなのかと思って」
どうせすぐ外すから、とか、下着の線がついちゃうと興ざめだから、なんて理由で着けてこない場合は考えられる。が、藍子がそんなところにまで頭回るとは思えない。だから多分、いっつも着けてないんだろう。
やっぱあの時、パジャマ画像送ってもらうべきだったか。
彼女は焦ったように答えた。
「そう、ですけど……だって、苦しくないですか? 寝る時も着けてたら」
「俺が知るか。着けたことないし」
「あ、確かに」
今初めて気づいた様子で、藍子が瞬きをする。そして、油断したみたいにくすっと笑った。
「すみません。馬鹿みたいなこと言いました」
「いいよ」
ほんの一時ではあったが、久々に笑顔も見れたし。
久々ってほどでもないんだろうけどな。ただ、小一時間くらいは見てなかったから、不意打ち食らってどきっとした。
「俺は馬鹿みたいな話だって、お前とならしたい」
「本当ですか? よかった……」
「いつでもいいからな。どーんとぶつけて来い」
「わかりました。考えておきます!」
それで彼女はいやに意気込んでたようだが、馬鹿みたいな話でも肩に力入っちゃうのかと、今度は俺が笑ってしまった。そんなに張り切って考えとくようなことでもないんじゃないか。楽しいから、いいけど。
「明日の朝飯、何がいい?」
また違う話題を投げかけてみる。
藍子は難しげな面持ちになる。
「ええと……何でもいいです」
「遠慮とかすんな、好きなの言え。さすがに朝から甘いのは無理だけどな」
朝からケーキ、なんて藍子ならやりそうだ。でもどうしてもって言うなら、起き抜けにコンビニまで行ってやらんこともない。俺はいつもご飯に味噌汁派だが、こういう時は合わせてやるから。
しかし彼女は考えあぐねているようで、やがて困ったように息をつく。
「あの、私、あんまり考えられなくて」
「何食べようか迷ってんのか。贅沢な悩みだな」
「そうじゃないんです。……何か、胸がいっぱいで」
もじもじと口元を覆った後で、微かな声が続いた。
「食べたいものが浮かばないんです。今はまだ」
「……そうか」
思わず、どう応じていいのかわからなくなった。
そして迂闊にも、感動してしまった。
俺が、この俺が、南蛮揚げだのパフェだのを遂に凌いで彼女の心を独占したという、これはつまり歴史的勝利の瞬間じゃないか。食いしん坊で名を馳せる藍子が、まさか食べ物のことすら考えられないまでになるとは。今夜のことはいろんな意味で、一生忘れられなくなりそうだ。
「私、何て言うか……」
電気を消しておいたお蔭だろうか、藍子は真っ直ぐに俺を見てくる。声はごく小さいが、拾えないこともなかった。
「すごく、びっくりしたんです」
「何が?」
俺が聞いても答えはなく、
「何だか本当に、びっくり、したんです」
ボリュームを一層絞って、同じ言葉が繰り返された。
ためらうような間を置いた彼女が、唇を震わせる。
「自分が、あんなふうに……なっちゃうなんて、自分でも信じられなくて」
あんなふうに、と言った彼女のその時の姿は、俺の記憶にしっかりと焼きついている。普段は真面目な彼女が、あんな顔をして、ああいう言葉を口にするなんて。それはもちろん俺しか知らない事実だ。
そしてそれを他でもない俺に――上司にして好きな人にして初めての彼氏に知られてしまった彼女は、今更のように不安げにしていた。
「だから、私、変な顔してなかったかなって……心配だったんです」
そんなものなんだろうな。女の子のこういう時の気持ちとか、全くもってわからないがな。やっぱすっごい不安で、ちょっとしたことにびっくりさせられて、身体にも結構な負担かかったりして、それで後になってからどうでもよさそうなポイントばかりに気を取られて、反省したりやきもきしたりするものなんだろうな。で、合間合間で緊張を誤魔化すみたいに口数多くなったりして。
そんな彼女に対して、俺はどこまで年上らしいフォローができただろうか。
「可愛かったよ、めちゃくちゃ」
俺は半分くらいの本音で応じる。
残りの半分は口にしちゃいけないと思ったから――ぶっちゃけ、もっかいしたいって思った。
もう本当、駄目な大人だって自覚もあるが、ほんの数秒前に女の子の不安とか負担とか緊張とかをあれこれ気遣うようなことを考えてみたくせに、その裏側では全く逆のことを思っちゃうんだから手に負えない。本能はどこまでも正直で、こうやって本音で打ち明けてくれた彼女にも欲情する。絡めた足がひんやり冷たくなってて、興奮してんのは俺だけなんだよなって思っても、そういう熱はなかなか引いてくれない。
そのくらい、めちゃくちゃ可愛かったんだって。
「全然変じゃなかった」
本音の半分を覆い隠したまま、俺は彼女に告げる。
「だから、また泊まりに来いよ。じゃないと寂しいからな」
そしたら藍子は無言のまま、ごく小さく頷いた。
改めて抱き寄せたら俺の胸に彼女の胸が当たって、柔らかく潰れて、その感触に俺はお年頃の少年みたいにどきどきしていた。
ほどなくして藍子は、いち早く目を閉じ、安らかな寝息を立て始めた。
もしかしたらかなり前から眠たかったのかもしれない。電池が切れたみたいにこてんと寝てしまった。
俺も眠気を感じてはいたが、もったいなくて頑張って起きていた。
布団を軽くまくったら、彼女の胸の上辺り、鎖骨の下に連なるように鬱血がいくつかあった。
さっきは何にも言わなかったが、藍子は気づくだろうか。気づいても何だかわからないって思うんじゃないだろうか。どっかにぶつけたかな、なんて考えそうな気もする。
それがいいってわけじゃないが、最初はこんなもんかもしれない。だんだんとわかっていけばいい。俺と寝る度にそういう痕がついて、それで何をされた場所に残ってるかって考えるようになって、そのうちに痕を見るだけで思い出すようになっちゃえばいい。書いておけない名前の代わりに、そういうのを事あるごとに、刻み込むみたいに残しておきたい。
最初のうちは、本人も気づかないくらいでいい。
明日の朝だってどうせ、ひたすらあたふたしてそこまで見る余裕もないだろうし――だから明日は、笑ってくれたらそれでいい。
さっきみたいに可愛く、でもいろいろと思い出しつつ笑ってくれたら、俺も次に向けての希望とか期待とか持ちつつ、百パーセント確実に惚れ直すから。
帰さなきゃいけないのはわかっていたから、残りの時間も心して過ごした。
日曜はずっと二人でいちゃいちゃしていた。結局どこにも出かけることなく、一歩も外には出ず、藍子のほっぺたが磨り減りそうな勢いでくっついていた。
もちろんあのぷくぷくした頬は俺がいくらくっつこうと頬擦りしようとちゅーしまくろうと一ミリたりとも減ることはなく、いつまでもいつまでもぷくぷくと柔らかかった。そして、こっちまで焦げつきそうなくらいに熱かった。まだまだ寒い二月に暖を取るならちょうどいい、だから俺は、彼女を片時も離す気になれなかった。
楽しい時間ほどあっという間に過ぎてしまうもので、夕方になると俺は、彼女を家まで送っていくという実に憂鬱かつ面白くもない理由で車を出さなければいけなくなった。
ここでぐだぐだしようものなら三十歳のしょぼさここに極まれりという感じだから、黙って潔く連れて行ってやった。
彼女は彼女で別れ際に自分から手を握ってくれたり、寂しそうにしながらも微笑みかけてくれたり、
「すぐ明日にはお会いできるんですよね」
なんて言い聞かせるみたいに言ってきたりして、本当に帰すのが辛かった。しかしノーベル忍耐賞受賞者としてここでとんぼ返りなんぞしたら大顰蹙だと、我慢に我慢と我慢を重ねて彼女が車を降り、家に入っていくまでを見送った。
明日、月曜には会える。
それは事実だから、男らしく胸張って一人で帰った。
――まあ、何だかんだでその晩に電話しちゃったんですがね。
『すぐに会えるのは嬉しいですけど、どきどきしますね』
と、数時間前に送ってったばかりの可愛い可愛い声が言う。
『どんな顔してたらいいのかなあって……あ、あの、変な顔してても笑わないでくださいね。私もなるべく、普通にしてますから』
お前に平然と普通の顔なんてできるのか、と俺はこっそり思う。
だが、どんな顔して会えばいいのかってのは案外他人事でもない悩みだ。俺だっていざとなったら思いっきりにやにやしてしまいそうな気がする。少なくとも普通にしてるには努力が必要となりそうだ。営業課の連中に気づかれたら冷やかされまくって面倒なことになるだろうし、用心せねば。
「俺も気をつける。顔はともかく、勤務中は名前じゃ呼べないからな」
そう言って溜息をつくと、藍子ははにかむように笑って、
『わかってます。いつも通り呼んでください』
いつも通り、か。そのうちに名前呼びの方がいつものことになったりするんだろうか。是非ともそうなりたい。
だがその前に、俺の方も名前で呼んで欲しい。いつまでも役職呼びだとちょっとな、まるで悪いことしてるみたいな気分になる。
『私は呼び方、変わらないですけど……それでもやっぱり、何だか恥ずかしいです』
折りしも藍子がそんなことを言ったので、ああこれは当分先の話になりそうだ、と苦笑いしたくなった。もうあれだ、しばらくは俺の顔見るだけでどぎまぎしちゃう感じになるんだろ。本当に、結婚するまでずっとこんな調子だったりしてな。
「恥ずかしがるなよ、いつも通り呼べばいいだけだろ」
『そうなんですけど』
「素直に名前で呼んどきゃ恥ずかしくなかったんじゃないか」
『それはそれで、絶対に恥ずかしかったような気がします』
「詰んでるなお前、明日大丈夫か?」
『……が、頑張ります。ご迷惑だけは絶対におかけしません』
藍子は、健気さだけはいつも通りだ。いたいけな子、と過去に霧島だったかが評していたが、そんな子を大変美味しくいただいちゃった俺はまさに大悪事を働いたのかもしれない。
悪いことしてるみたいな気分が、悪かった、とは言わない。藍子の俺に対する呼び方こそいつも通りではあったものの、その声音はまるで違った。初めて聞く舌足らずな口調で、助けを求めるように許しを請うようにずっと俺を呼び続けていたのが堪らなかった。
日本中に『主任』と呼ばれる人間なんて大勢いるだろうが、あの時の彼女は俺しか呼んでいなかったし、俺しか欲していなかった。そうして声が嗄れるまで繰り返し繰り返し呼ばれていたことを悪いなんて思えるはずもなく、今でも甘ったるい感覚ごと脳裏にはっきり再生できるくらいに覚えていて、いつまでも忘れられなくなりそうな――。
『――主任、あの』
いきなり、耳元でそう呼ばれた。
それで俺は一瞬、あれ、藍子まだ傍にいたっけ、なんて錯覚をしてしまい、
「えっ? あ、え、ええと、何だ?」
すぐに我に返ったものの、格好つかない返事をする羽目になった。
『あ、あの、何ってこともないんですけど』
藍子も俺の反応に驚いたのか、吐息混じりの上ずった声で続ける。
『何て言うか、バレンタインデーを一緒に過ごせて、う……嬉しかったです』
相も変わらず彼女の不意打ち戦法は効果的すぎた。
俺はその一撃で呆気なく陥落し、人にはもはや見せられないでれでれの態度で、そのくせたっぷり十秒間くらいの深呼吸の後に、俺も、と答えた。
そして彼女がくれたチョコレートリキュールの味を唐突に思い出し、今夜はあれ飲んでから寝ようか、などと柄にもなく浸っちゃってる心境になるのだった。
俺、いつかときめきすぎて倒れるんじゃなかろうか。




