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世界で一番すきなひと(7)

 藍子に名前を書いておきたい、って何度も思った。

 独り占めしたい。どこにもやりたくない。ずっと俺の手元に置いて、身体も心も繋がってたい。


 でも俺達はずっと繋がってはいられない。

 もちろん物理的に、そして一時的には一つになれる。それはもうめちゃくちゃ幸せで温かくて気持ちよくて、俺はそのひとときを心ゆくまで堪能した。だがあいにく、人間の身体はずっと一つでいられるようにはできてない。出ていきたくないと思ってもそうはいかないし、最高の時間はやがて終わってしまう。

 だから俺は名前を書きたい。俺が傍にいなくても、繋がっていなくても、藍子は俺のもので誰かが入ってくる隙なんて一切なくてお互いにめろめろなんだってことを、目に見えるように証明しておきたい。


 現実的にはそんなことできないし、俺の名前を書いたところでそんなに効力ないってのも事実だ。見えるところに書かないと誰にもわからないが、しかし見えるところに書いてあるとみっともない。

 俺が藍子に鬱血とか噛み跡とかいろいろつけたくなるのも、その代償行為なんだと思う。

 それだって服着てしまえば絶対見えない、柔らかくて美味しいところにだけつけるようにした。そうしないといくら藍子にだって嫌がられるかもしれないし。噛み跡に至っては、むしろ跡が残らないように極力気をつけて噛みつくようにした。本当はもっとがぶっとやってしまいたかったが、もうちょっと回数を重ねて、ちゃんと感じてくれるようになるまでは控えめにしようと思った。

 藍子はどちらも目をつむっただけで受け入れてくれたし、相変わらず甘い声で『くすぐったい』と言うばかりで、他にどうこう言ってくることもなかった。

 後になってからその痕跡に気づいたら、藍子はどんな反応するだろう。


 一気に波が引いた後、部屋の中はアイスを食べていた頃並みに静かになった。

 俺が後始末を終えていそいそとベッドに戻った時、藍子はまだ服を着ていなかった。壁際の方を向き、真っ白い背中を晒したまま、まるでもう寝ついたみたいに黙っていた。

 相変わらず無防備な背中にべたっと手を置いてみたら、未だにしっとり汗ばんでいる。呼吸は大分落ち着いてきたらしく、それほど大きな動きはない。

「こっち向けよ」

 ベッドの中でにじり寄りながら、俺は声をかける。

 もったいつけた長い長い沈黙の後、藍子の身体がのろのろ反転した。まだとろんとした目で、それでも気まずげに俺を見る。

「あんまり、見ないでください」

 酷くかすれた声が、乾いた唇から発せられる。湿らせてやろうと思って軽く舐めたら、気だるげな動作で逃げようとする。

「見ないでください、顔……」

 逃げながら、もう一度言われた。

 そんなことお願いされても、こうも至近距離にいてお互い向き合ってたら自然と目に入っちゃうもんだろ。一人暮らしの部屋にそこまででっかいベッドが置いてあるはずもなく、二人で寝そべったら肩がくっついちゃうくらいの狭さだ。

 横を向けばまさに目と鼻の先に藍子がいる。

 俺はその狭さが幸せなのに、彼女は居心地悪そうだった。

「顔以外なら見てもいいのか」

 覗き込んだら伏し目がちにされた。隠すように胸の前で両手を組んだ彼女は、しかし少し経ってからぎこちなく顎を引く。

「……いいです」

 キャミソール一枚で攻防戦を繰り広げた相手とは思えぬ寛容な回答だった。

「何で顔は駄目なんだよ」

 俺はそう尋ね、直後に彼女が息をつく。その吐息すら嗄れていた。

「だって、変な顔してますから、恥ずかしいんです」

「変じゃない、可愛いって」

 すかさず訂正してやったところで頑なに聞き入れない。喉を震わせて繰り返す。

「絶対変です。だから、恥ずかしくて」

 顔よりもそのかすれた声の方が、よっぽど恥ずかしがるべき変化じゃないかと俺は思う。


 もちろん、今の空気がそういう、いろいろ盛り上がっちゃった後にクールダウンした流れにあることもわかっている。ようやく呼吸も落ち着いてきて、ぐったりするほどくたびれていて、でも頭は妙に冴えていてついさっきまで目の当たりにしていた別人みたいな自分と相手の言動を反芻し始める頃なんだろう。

 気になるんなら鏡でも見てくりゃいいのに。藍子は本当に変な顔なんてしてないし、ちゃんと可愛い。薄暗くてもはっきりわかるほどに真っ赤になってる。終わった直後に顔も拭いてやったのにまだ額とか頬っぺたとかにほつれた髪が張りついてる。目は涙に濡れてるけど、それが怖さや悲しさから来る涙じゃないことも見ればわかる。そこだってさっき拭いたばかりなのに直に潤んできて、いたたまれないそぶりで枕カバーを見つめ続けている。可愛い。

 現在に至る小一時間を振り返ってみても、惚れた欲目を差し引いても間違いなく可愛かった。いつもと違う顔はしてたが、でもそれだって変じゃないし、可愛い。

 それに、我ながらおっさんくさい感想だけど、どの瞬間でもにやけたくなるくらい初々しかった。声をどう出していいのかがわからなかったみたいで、代わりにずっと俺を呼び続けていた。あの鼻にかかった、いつもと違う甘えたような声で――結局最後まで名前じゃなくて役職呼びだったが、あらかじめ宣言もされていたし、別に雰囲気が壊れるとも思わなかった。それどころか。


 結果、彼女は声を嗄らしてしまって、さっきから喉をひゅうひゅう言わせている。

「痛くないか、喉」

「……ちょっとだけ」

 短く答えたところからもダメージの深刻さが窺える。戻ってきたばかりで離れがたいが、放ってもおけない。

「何か飲むか」

「お、お構いなく」

「そんな声して遠慮すんなって。お茶系でいいよな?」

「じゃあ、あの、何でもいただきます」

「わかった、取ってくる」

 俺がベッドを抜け出した途端、藍子は勢いよくこちらに背を向けた。

 初々しいにもほどがある。そんな反応されたら俺まで恥ずかしくなってくる。


 冷蔵庫から買い置きのウーロン茶を一本取る。お茶と水とアルコールしかないラインナップが男くさくていかんな、と思う。次からは藍子好みなのも仕入れておかねば。

 それからペットボトルを指の先にぶら下げ、寝室へと取って返す。

 戻ってみれば薄暗い部屋の中、藍子はベッドの上に起き上がっていた。さっきまで結構ぐったりしていたからもう起きれるのかって点にも驚いたが、彼女が既にキャミソールを身に着けて、更にはフリースのルームウェアまで着込もうと頭に被っていたところだったからより驚いた。鬱血しているはずの部分も、もう見えなくなっていた。

「もう着るのかよ!」

 つれねえな、と俺は落胆したが、彼女は彼女で愕然と聞き返してきた。

「だ、駄目なんですか?」

 一生裸でいろと命令されたわけでもあるまいに、俺の反応がどうしてかショックだったらしい。そのまますとんとルームウェアを下ろし、一時間ほど前と同じ姿になってしまってから、ぼそぼそ言った。

「でも、寝る時は着なきゃいけないですよね」

「むしろ着るな。素っ裸でいちゃいちゃしながら寝つくのがいいんだろ」

 情緒のない奴め、と俺は霧島みたいなことを藍子に対して思う。

 考えてもみて欲しい、余韻を楽しむということの大切さを。ただやって、終わったら服着て、じゃあ寝ますおやすみなさいなんて義務的で寂しすぎる。お互い好きだって思ってんだし、俺なんてお前の為なら人生だって賭けられるぜってとこまで来てるし、お前だって半端な恋愛感情だけで泊まりに来たんじゃないんだろ。だったらもうちょっと、さっきまでの時間をあっさり済んだことにしないで欲しいって言うか。

「き、着ないで寝る……んですか」

 藍子は俺の方は頑として見ないまま、苦し紛れの口調で続けた。

「だけど、主任は……」

「何だよ」

「その、パンツをはいていらっしゃいますよね」

 藍子は、さっきからずっと俺のことを見ないように見ないようにしてる割には、俺がパンツははいてるって事実を知っているらしい。なぜだ。でもそこを追及すると、藍子は真剣にへそを曲げてがっちり着込んだまま布団の中に立てこもりそうだったから、触れないでおくことにする。

 と言うか、はくだろ。パンツは。

「そりゃお前、いくら俺の部屋だからってお前のいるとこで丸出しで歩くのは……」

 できないよな。間抜けだもんな。

 でも、とそこでふと考え直して、俺は彼女に持ちかける。

「考えてみりゃそれも今更か。じゃあ脱ぐかな、もう俺も全部見せたもんな」

 すると藍子は首が取れるんじゃないかって速度で面を上げ、

「見てないです!」

「嘘つけ、見ただろ?」

「見てないです!」

 あれ、そうだっけ。俺はにやにやしたが、藍子が頭から煙の出そうな勢いで震え始めたから、やはり追及はしないでおく。

 彼女の座ってる横に腰を下ろして、とりあえず持ってきたペットボトルを、蓋を開けてから差し出す。彼女はそれを会釈をして受け取り、こくこくと数口飲んだ。そして深く息をついてから、少しだけ回復した声で言った。

「本当ですから」

 何が、とうっかり聞きかけてすぐに気づき、俺はまたにやにやする。

「わかったわかった、そういうことにしといてやるよ」

「しとく、とかじゃなくってです! 本当に本当なんですよ、だって――」

「わかったって。お前は見てない、絶対見てない」

 俺は、見たけどな。それはもう網膜に焼きつけるぞってくらい。

 ただ心のメモリ容量にも限界はあるんだよな。こればっかりは買ってきて増設なんて真似もできやしない。だから他のどうでもいい記憶を押しのけて、何より一番印象的で鮮明な思い出として取って置く為に、五感全部でこの夜と、お前を覚えておきたい。

 お前とはこれからもずっと一緒にいられるだろうけど――つか俺がもう逃がしませんけど、でもこの夜はあと何時間かしたら確実に終わっちゃうんだ。どうしたって避けようもなく。

「明日も予定空けてるだろ? お前も夕方くらいまでは帰るなよ」

 ペットボトルを二人で回し飲みしつつ、話の続きをする。

「でも、このままずっと帰さないってわけにもいかないだろ。明日はなるべく家まで快く送り届けてやりたいし……だからほら、今くらいは俺に譲れ」

 わざとタイムリミットについて触れてやったら、藍子はまんまと神妙な顔つきになった。さっきまでの恥じらいすら忘れて、じっと強く俺を見て、それからゆっくり俯く。

 小声で、答えがあった。

「じゃあ、歯磨きしてきますから、その後でもいいですか」

「歯磨きと来たか」

 あまりに唐突な単語が来たから、俺は危うくウーロン茶でむせかけた。藍子は妙に慌て出して質問を重ねてくる。

「ね、寝る前にはしますよね、歯磨き! それも何か変でしたか? こういう時、普通しないものなんですか?」

「変じゃない。するよ、するけどな」

 そうだよな、虫歯になったら困るもんな。

 でもせっかくいい雰囲気になってるって思ったのに歯磨きの話とか、なあ。


 いや、さっきまでパンツの話とかしてたからムード云々は元から微妙な線か。ただ藍子の今の一言で、日常の空気が戻ってきたことは否定しきれまい。

 むしろそういうのも悪くないよな。日常も夢みたいな時間も一続きで、その全てに藍子が存在しえるっていうのは実に幸せな生活だと思う。歯磨きの話もパンツの話もいつか当たり前みたいにするようになるんだろうけど、だからっていいムードが作れないってわけでもないだろ。そうやって行ったり来たりしながら暮らしていくのが一番幸せに違いない。


 お互いに歯磨きやら何やらを済ませ、居間の電気も消して、さっきよりも暗い寝室にいる。

 約束通り藍子はルームウェアもキャミソールも脱いでくれた。どうせなら脱いでるところも見たかったが、頼んでも強硬に拒まれた。そして子犬みたいにすばしっこく布団に包まって完全防御の態勢を取る。

「もう全部見たって」

 俺は藍子の気持ちをわかってるくせに、やっぱりそういうことを言いたくなってしまう。

「自分でも言ってただろ、顔以外なら見ていいって」

「それは、あの、さっきまでです。今はもう駄目です」

「ころっと言うこと変えやがって」

「で、でも、何だか恥ずかしくなってきちゃって」

 言い張る気持ちはよくわかる。藍子もいろいろ思い出してじたばたし始める時間帯なんだろう。

 俺とは違って純粋な彼女が、さっきまでの出来事を一体どんなふうに振り返るのか、興味がある。家に帰ってからとか、仕事中とかでも、ふとした瞬間に今夜のことを思い出しちゃったりして一人で赤面したりするのか。うわ、想像したら俺がやばい。

 それでもこうしてもう一回脱いでくれたのは、藍子にとってもその時間の記憶が気持ちいいものだったからじゃないかと思う。

 いや、性的な意味じゃなくて。本当はそれも含めたいけど一旦は置いといて、何にも着ないで直に体温感じたり、直に触れ合ったり、こんな時じゃないとありえないほど近いところから他愛ない会話を交わしつつべたべたする時間が、彼女にとっても不快ではなかった、ってことじゃないか。


 現に、ぴったりくっついても彼女は逃げなかった。

 抱き締めて脚を絡めたらびくっとされたが、嫌だとは言われなかった。

 俺が差し出した腕枕に、おずおずと頭を預けてくれた。

「重くないですか」

「全然。……あ、お前の頭が軽いとかそういう意味じゃないからな」

 明日ちょっと腕がだるくなってるかもしれないが、この幸せなひとときと比べたらどうってことない代価だ。また至近距離から彼女の顔を眺められる。

 くりくりした目や柔らかいほっぺたや、よく食べる割に小さな口。長くてさらっさらの髪の毛とその隙間から見えるちょこんとした耳。パーツの一つ一つが可愛くて好きだ。仮にどこが一番好きかって聞かれたら真っ先ほっぺたを挙げるけど、でも他のところだって好きだ。

 形がどうこうじゃなくて、もちろん形も悪くはないが、何よりそれらが藍子のものとして意思を持って動かされたり、ままならない感じで言葉よりも正直になったりするから、だから好きなんだと思う。

「中身相応に軽かったらよかったんですけど」

 藍子は本気の調子で言う。

「中身も軽くないだろ。いろいろ詰まってんじゃん」

 たまに俺でも予想のつかないようなぶっとんだ考えが入ってるよな、この頭には。軽く撫でてやったらたちまち嬉しそうな顔になった。

「でも、主任には全然敵わないです」

「何がだよ」

「中身の詰まってる度合いって言うか……やっぱり知識量がすごいなって、いつも思ってます」

 余計な知識も満載だけどな。

「お前より七年多く生きてんだし、知識量で負けてたらまずいだろ」

「それは言わば年の功ってことですよね」

 事後の余韻とかいい雰囲気とかそういうのを全く酌まず、至って真面目に藍子は語を継ぐ。

「時々思うんです。私がもし三十歳になったとして……」

「もうそんな先のこと考えてんのか」

「考えてます。三十になったら、主任みたいな立派な大人になれてるかなって」


 買い被りすぎだと俺は思う。

 藍子はそうやって他人には過大なくらいの評価をするくせに、自己評価はものすごく低く置いてるきらいがある。と言うか、自分で設けるハードルが高いんだよな。あれができなきゃいけない、これができてないとおかしいって、そんなことばかり考えてる。

 営業課ではルーキーゆえにマスコットみたいな扱い受けてて、皆にこぞって可愛い可愛い言われてて、愛想がいいとか挨拶がはきはきしてるとか、その程度のことでも誉められるようなルーキーイヤーの真っ只中にいるのに。藍子は、そういう立場に甘んじているのが納得いかないみたいなそぶりをよく見せる。面と向かって誰かに反発できるような性格ではないからか、その納得のいかなさを全部自分の能力のせいにして、やたら重い荷物を背負い込んでる。俺と付き合ってからも相変わらず、肩の力を抜いてる気配は見受けられない。


 性分みたいなもののようだから、勤務中はもうしょうがないとしてもだ。

 だったらせめて、俺といる時くらいは気楽にしてればいいのに。ハードルなんて最初のうちは思いっきり低くていいんだ。もうスキップでも跳べちゃうくらいでさ。

 で、不満足だったとことか、上手くできなかったとことかは場数を踏んでいくことでカバーすればいいんだよ。

 俺もそうやって、お前に立派と言ってもらえるくらいには鍍金できてる三十歳になったんだから。

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