世界と引き替えにしても守りたいひと(6)
メール越しに、小坂が訴えかけてくる。
『私はすごく主任のことを尊敬していますし、そしてそのお仕事ぶりを、こっそり励みにもしています。本当にありがとうございます』
そこに記された尊敬って言葉の意味も、今なら素直に受け止められる。
それも同じだ。
俺が小坂に対して可愛いって思う時、そこにものすごくたくさんの意味が含まれるのと同じように――可愛いから、その顔を見てるだけでもう本当に幸せで堪らんだとか。可愛いから、俺のものだって背中辺りに名前書いて傍に置いときたいとか。可愛いからもう手順とかすっ飛ばしてとにかくやりたいとか、場数踏んでもうちょいこなれて、色っぽくなった姿も見てみたいとか。
ごくまれにものすごく真面目な気分になって、何はともあれ可愛くて大事な部下だから、仕事上手くいくといいな、失敗しないといいよなって思ったりとか。
そういうふうに思うのと同じように、小坂は俺のことが、本物が欲しくなるくらいに好きで、同時にこんなふうになりたいって思うくらい尊敬もしてくれてるんだろう。
あるいはその二種類だけじゃなくて、まだ俺には言えないような感情だってあるかもしれない。素面じゃ到底口にできないようなこととか――そういう小坂も知りたい。むしろ、小坂の俺に対する感情の全てを知りたい。最終的にはお前の全部を熟知したい。
だって俺も、お前が好きだ。
『私も少しでも、主任の励みになれたならうれしいです』
メールの最後はそう締めくくられていて、やっぱりわかってないなと、にやにやしたくなる。
もう励みになるなんてそういう程度じゃない。すごいんだよお前の威力は。俺のテンションメーターの針がどっか吹っ飛んでったくらいにすさまじくて、それをみぞおちに食らった俺はシートからずるずるずり落ちながら、何度も何度もしつこくメールを読み返す。
その度に一喜一憂していてもたってもいられなくなる。画面に表示されてる『小坂藍子』って名前すらいとおしくなる。ちゅーしたい。でもすると画面が汚れるからそれはやめて、メールは閉じずに携帯だけしまう。
目をつむってにやにやする。
緩んだ口から気の抜けたような笑い声が出る。
でも身体はうずうずしていて、今すぐドアを開けて飛び出していきたい衝動にも駆られた。
何だったら教えてやろうか。お前がどれだけ俺の励みになってて、力にもなってて、俺を喜ばせたり笑わせたりで幸せな気分にしてくれてるかを。お前が見てるだけじゃわかんないって言うなら教えてやるよ。やられっ放しは悔しいから、三倍返しにしてやらないと気が済まない。
それに俺、何だかすっかり弄ばれてるようだ。
不意にこつこつと窓を叩く音がして、
「うわっ」
俺は慌てて跳ね起きた。
手にしていた携帯を庇うつもりで胸元に引き込めば、後ろのドアが開いて霧島が顔を覗かせる。
「び、びっくりさせんなよお前」
思わず噛みつくと、奴は怪訝そうに眉根を寄せた。
「ちゃんとノックしましたよ」
「それが驚いたっつってんだ……いきなり来るんだもんな」
「急げって言ったの先輩じゃないですか」
腑に落ちない様子の霧島が車に乗り込んでくる間、俺も運転席に座り直しておく。ドアが閉まった後で奴が、なぜかちょっと笑う。
「あ、小坂さんからメール、来たんですか?」
ひやっとするくらいいい読みをされて、びびった。
「何でわかった!?」
「え? いや、来るって自分で言ってたでしょう。それに先輩、携帯持ってるし」
確かに。
携帯を握り締めたままの手を見下ろせば、霧島は好奇心に声を弾ませながら突っ込んでくる。
「心なしかものすごく動揺しちゃってません? 何て書いてあったんですか。今回は脱ビジネスメールしてました? それとも痛烈な当たり食らってまたへこんでるとこですか?」
「……お前には言うなって書いてあったから秘密」
俺はそこだけ正直に答える。
当然、奴には変な顔をされた。
「何でですか? と言うか、どうして俺名指しでそんなことを」
いいだろ別に。どうせ誰にも見せる気ないよ。
俺だって今でこそ浮かれてるが、明日になったらこんなラブレター、読み返せるかどうかも怪しい。
その日は霧島をアパートまで運んでやって、それから帰宅したのが午前一時前だ。
さすがに小坂は寝てるだろうと、返事は夜が明けてからにしようと決めた。それならそれで貰ったメールを読み返しつつ、どうやって三倍返しにしてやるか楽しく考えつつ寝ついちゃえばいいと思いつく。早速いそいそと着替えを済ませ、ベッドに寝転んだまではよかった。
寝つけなかった。
自分でもおかしいくらいに興奮してるのがわかる。
そりゃあんなラブレター貰っちゃった後なら鼻息も荒くなろうと自分でも思うんだが、変な意味じゃなくて、やたら悶々とする羽目になった。
顎を枕に乗っけて、うつ伏せの姿勢でメールを読み返せば、直に顔を伏せたくなる。枕に埋まったまま、うおおお……と意味もなく唸り声を上げたくなる。てか実際、ちょっと唸った。
三十にもなって年甲斐のない浮かれっぷりだが、しょうがあるまい。
久々に、むちゃくちゃ幸せなんだから。
女の子からのメールを手前勝手に深読みするのは男の性だ。いつもは恋心が読み取りづらい礼儀正しい小坂から、あんなメールを貰ったりしたら当然のように深読みしてしまう。俺の励みになりたいとか、それってつまり逆プロポーズだろ。
一旦そんなふうに考えてしまったらもう駄目で、いくらなんでも早まりすぎだってツッコミを入れる理性を蹴っ飛ばし、脳内には幸せ一杯夢一杯の未来ビジョンが着々と築かれていく。
残業終わって帰ってきた俺を迎えるのが誰もいない部屋じゃなくて、小坂のいる家だったらいいなとか。
仕事が忙しくてくたびれた日でも、あいつがお帰りなさいって笑顔で出迎えてくれたら、いくらでも頑張れそうな気がするとか。
前にもちらっと思い描いたことがあったが、小坂はいい嫁になると思う。一人でぱたぱたしてるのを見てるだけで退屈しないってのもあるし、それ以上に俺を真っ直ぐ見ていてくれてるってところが、一緒にいるにあたって最も大切な条件だ。結婚なんて真面目に考えたことなかったけど、ここまで来ると悪くないんじゃないかって気分になってきた。石田藍子、なんて、いいじゃないですか。割と自然に馴染むじゃないですか。
あいつの未来が全部欲しい。
代わりに、あいつが欲しがる俺の全部をくれてやってもいい。
本物は写真よりも世話が面倒くさくて大変だろうが、でもできる限りの力をもって幸せにしてみせるから。俺は小坂がいてくれたら他には何にもなくたって、それだけでいくらでも走れてしまう。小坂の存在だけで、本当に、永久機関になれそうな気がするんだ。
――そんなことを考えていたら当然眠れなくなって、俺は午前四時くらいまで一人で盛り上がっては枕に埋まったり唸ったり寝返りを打ちまくったりしていた。
寝てない分、メールの返事を考えられたかと言うと、全くもってそんなことはなく。
むしろ本格的に明るくなってから俺は慌て出した。そろそろ返事を打たねばならん、さすがにあれだけ貰っといて普段みたいな会話的文章じゃ釣り合わない。しかしあんまりつらつら長文ってのも性に合わないっつうか、俺は仕事以外であんなに長いメール打った記憶がない。
小坂にとってはあれが普通なのか、それともラブレターだからなのか。
ラブレターの返事ならやっぱこっちも『俺も好きだー!』くらいは言っとくべきか。
でもそういうのはやっぱ顔見て言いたいよな。ちゃんと会ってからで――あ、そうか。今日明日って二日も会えないんだ。今日は後で出かけるし、明日は多分しばらく酒が残ってる。さすがに酔っ払いの顔で愛の告白なんてわけにはいかない。明日一日でベストコンディションに戻して、いい顔で小坂に会いたい。となると、月曜か。遠いな。そんなに待てっかな。
で、メールの返事はどうした俺。
何の考えも浮かんでこないのは本当にどうしたものやら。あんまり返信が遅いと今度は小坂がやきもきしちゃわないか。
いや、別に、ちょっとはすればいいって思うけどな。俺をこんなに弄んどいて、あいつが休日をのほほんと過ごしてたら癪じゃないか。ちょっとくらい気を揉んで頭の中が俺ばっかりになってればいい。昨日、あいつは俺をずるいとか言ったが、本当にずるいのはそっちだ。メールたった一通でこんなに浮つかせて悩ませて眠らせもしないで。
その上今日どころか明日も会えないなんて。
ああもう、いっそ結婚したくなってきた。あまりにも短絡的な理由だが、それで全部解決するんだから他に手はない。あいつに会えない日があるとかもう耐えられない。
結婚までの下準備が面倒ならとりあえずの半同棲でもいいか。
でもそれやったら霧島に、『ほら先輩、結婚するまでって時間かかるものなんですよ!』みたいなしたり顔されそうなのが嫌だ。俺は奴ほどマイペースじゃないしそんなに悠長にできる歳でもない。なのに実際にやってみたら、半同棲でも意外と楽しくてずるずると何年も、ってのがありえなくないから嫌だ。
お前と結婚したいって言ったら、小坂はどんな反応するだろう。
それもメールで告げるには微妙な言葉だ。顔が見えないしな。でもそんなこと言ってたら、書ける話なんてもうなくないか? 俺が今すごく言いたい、腹の底辺りにわだかまっていそうな本心の数々が全部メールには相応しくない内容ってことにならないか。それなら、何て送信すればいいかなんていくら頭ひねったところで閃くはずもない。
睡眠不足の頭で考えに考えて考えまくった末、夕方になってもメールの返事ができなかった。
これはやばいと、俺はもう半分自棄になって小坂に電話をかける。
時刻は既に午後四時過ぎ。
昨夜メールを貰ってから実に十六時間も経過している。
その間、小坂には一言の返信もしてなかったわけで、もしかしたら『変なメールを送っちゃったかも……』などと要らぬ心配をしてる可能性だってある。やきもきすればいい、とは思ったものの、本当にやきもきさせたらそれはそれでかわいそうな気がしてならない。甘いか?
ともかく、ぷつりと電話が繋がった瞬間、俺は即座に呼びかけた。
「小坂」
『は、はい』
彼女は彼女でとても素早く返事をしてから、息もつかずに続ける。
『あの主任、昨日は……』
少し緊張しているような声だった。そして何か言いかけていたから、こっちは焦った。
待て待て、いつもみたいに主導権は渡さないぞ。お前は毎回そうだ、不意打ちみたいなタイミングで意外な台詞を口走るから、俺はその奇襲攻撃に始終振り回されてる。思い返せばずっと前からそんな調子だ、あの五月の歓迎会の時からだ!
手短にしろって言っただろ馬鹿。お前は挨拶もラブレターも全部長すぎるんだよ。そんなんだからわかりやすい時はものすごくわかりやすくて、食らったこっちの調子が狂う。
そう思ったら、考えるより先に呻いていた。
「弄ばれてるのは、確実に俺の方だ」
間違いない。
どう見たって哀れな被害者はこっちだ。
『え?』
そして俺を弄ぶ悪い奴は、意味がわからないというように声を上げた。
『あ――の、ど、どういうことでしょう?』
自覚はないらしい。
ないもんかな、あんなメール送っといて。あれ読んで俺が一ミリも動じないなんて、誰もが自分並みに鈍感で疎いんだって小坂は思ってんだろうか。俺は一ミリどころか、一晩で地球三周くらいした。もう虚勢張る気力もない。
「昨日のメール」
だから短く答えたら、
『はい……。あの、やっぱり問題でしたか』
小坂は早とちりでもしたのか勝手にしょげた。
やっぱりって何だ。お前はあれが問題のある文章だと思って俺に送りつけたのか。俺が喜ぶだろうと自信持って送信してくれたんじゃないのか。ここまで来て俺をへこませないでくれ。普通に話してても振り回すとか、どこまでずるいんだ。
「問題はない。でも」
電話してるだけで胸がきりきりしてきた。何この痛み。恋ですか。
振り絞るように告げる。
「かなり、動揺させられた」
むしろ過去形じゃなく、現在進行形で動揺してる。
なのに電話の向こうはノーリアクションだ。理解が追いつかなくてぽかんとしてるのか、しばらく沈黙が流れたりするもんだから堪らない。何か言えよ。黙ってると俺が更に恥ずかしいことを言っちゃうぞ。
「夜にラブレターなんて読むもんじゃないな。昨日はちっとも眠れなかった」
『す、すみませんっ』
俺の恥ずかしい発言をかわすがごとく、小坂が詫び始めた。
『あの私、励みになるようなメールにしたいと思っていたんですけど、書き方が悪かったですね。何と言うか私も、気分が高揚しちゃってて』
あれで書き方が悪いなら、ベストの出来はどんなもんだったんだろう。きっと例によって折り目正しくて堅苦しくて、恋する乙女心を読み取るのが至難の業っていう文面に仕上がってたに違いない。
わかってないな。それならいつも、よくない書き方でいい。常に浮ついた気分でメールして来ればいい。
「別に悪くない」
伝わらないもどかしさに溜息も出る。
ラブレター、の部分はスルーしないで欲しかった。否定されなかっただけましか。
「ただ、ものすごく食らった」
みぞおち辺りに来た。今も痛い。
『食らった、んですか』
おうむ返しの小坂は可愛い。言うまでもなく全部可愛いけど。
「確かに霧島にも見せられないメールだったな。恥ずかしいを通り越してた」
『あ! あの、霧島さんには……!』
ここに来てようやく、彼女は期待通りの慌てふためきっぷりを見せた。気にすんのそこなのか、やっぱずれてる。霧島に見られたくない気持ちはわかるが、当の俺に対しては恥ずかしさとかないのか。
「だから見せてない。見せられないっての」
そして俺が正直に教えてやると、
『本当ですか? よかった……』
たちまちほっとした声に変わるから、このわかってなさとずれてる感じをもう本当にどうしてやろうか、って気分になる。お前ももっと動揺して浮かれて一人悶々とする夜を過ごせばいいのに。俺みたいに。
「ちっともよくない。お前のメール、ちょうど帰り際に受信したんだけどな。読み終わったところを霧島に見られて、もう少しで怪しまれるところだったんだぞ。あんなメール貰って平然としてられるか」
霧島は、自分が名指しで『見せるな』と言われたことを訝しがっていた。それを口実にしつこくしつこく内容を知りたがった。もちろん全力で死守したが、しばらくは言われそうだ。
ラブレターとか、他人に自慢できるもんじゃないよな。こっちが照れるわ。
『すみません、ご迷惑をお掛けして』
「迷惑じゃないよ馬鹿」
またしても謝る小坂に苦笑しつつ、俺は宣言する。
「でも、食らいっ放しは悔しいからな。――三倍にして返す」
『さ、三倍ですか?』
「覚えてろ。次の機会にはお前を、昨日の俺の三倍分は動揺させてやる」




