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世界と引き替えにしても守りたいひと(5)

 小坂をエレベーターホールまで送り届けてから、俺は営業課に戻った。

 課内は既に、霧島一人きりになっていた。

「先輩、どこで油売ってたんですか。帰り遅くなりますよ」

「社食で小坂とコーヒー飲んでた」

 俺が答えると、白い目を向けてくる。

「暢気ですね」

「大人の男にはこのくらいの余裕がないとな」

「悪い大人ですよ。嫁入り前のお嬢さんを遅い時間まで連れ回して」

「誘ってきたのは向こうだ。俺はお誘いにあずかっただけ」

 遅い時間なのは事実だから、小坂がちゃんと帰れるか不安も多少ある。彼女曰く『そういう運はいい方』らしいが、まあ無事に帰れたら約束通りにメールが来るだろう。俺も不必要にやきもきせず、まずは残業を片してしまうことにする。

「大丈夫だって。ちゃんと今日中には帰れるようにやるから」

 そう言いつつ机に帰り、ラップトップを起動する。

 霧島はまだ何か言いたそうなそぶりながらも、とりあえず仕事に戻ったようだ。キーを叩く忙しない音が聞こえてきた。


 とは言え営業課に二人きり、しかも相手が付き合いだけは長い霧島ともなれば、だらだらとくだらない話を仕事のついでにしたくなる。

 黙って手を動かす作業は元々向いてない方だ。まして今は、目の前に吊るされたにんじんの美味そうなことったらない。画面とにらめっこしながらも上機嫌で切り出した。

「小坂がさ」

「はい?」

 霧島が怪訝そうな声を上げる。

「帰ったら俺にメールくれるって言ったんだよ」

「……はあ」

「もう楽しみでしょうがなくてな。だから今の俺は無敵、残業なんて目じゃない」

 それはもう、スターを取った後みたいなもんだ。

 割と真剣に打ち明けたつもりだったが、反応はやや遅く、その上キーボードの音に混じって聞こえたのは吹き出したような笑い声だった。

「メールって、相変わらずああいう感じのなんですか?」

「ああいうのって? ……いつぞやの、ビジネスメールのことか」

「そうです。何でしたっけ、『初秋の候、いかがお過ごしでしょうか』みたいな」

「いくら小坂でも多少の融通は利くよ。今はそれなりに会話っぽいメールしてる」 

 普段と同じような、そのままの会話で返事が来る。

「ただ何つーか、まだ上司あての文面っぽいのは抜け出せてないんだよな」

 ラップトップ越しに愚痴れば、霧島は楽しげに応じてくる。

「小坂さんらしくていいじゃないですか」

「らしいっちゃらしいけどな……。もっとこう、フランクでもいいのに」

「でも先輩にフランクな態度取る小坂さんって、想像つかないですよ」 

「そりゃ今はそうだろ。だからこそ今後、俺がじっくり育ててこうって気になるんだよ。『隆宏さん頑張って!』なーんつって胸の谷間画像送ってきてくれるような気安さにだな」

 キーを打つ音がそこで止まる。

 次に、ぼそっと呻くような声。

「先輩、社食で飲んでたの本当にコーヒーですか」

「当ったり前だろ。素面だよ俺は」

「素面でこのレベルなんですか……先輩こそ小坂さんに啓蒙されちゃえばいいのに」

 無理だな。こんな調子で三十年生きてきたんだ、そう簡単に真人間になれるはずもない。

 それに、変わるべきなのはどうしてもあいつの方だと思う。

「だってあいつ、自分からは絶対にメール寄越さないんだぞ」

 俺のその言葉はやや唐突に聞こえたらしい。霧島が手を止めて少しの間黙ったから、言ってなかったっけと説明を付け加えておく。

「こっちから出せば返事はくれんだ。でも小坂の方から貰ったのは、最初の一回だけ」

「ああー……それはあれですよ、小坂さんだっていろいろ忙しいんですって」

「やめろよそういう言い方。無闇に人の不安煽るもんじゃないぞお前」

「いるんじゃないですか、学生時代の友達とか、他にメール優先させたい相手が」

「だからやめろって。マジで気になっちゃうだろ!」

 優先順位があるから、とかは思いたくないです。前向きに考えたい。

 根拠だってある。俺からメールして小坂から返事があるまでの所要時間は約二十分。小坂があのヒューズのよく飛ぶ思考回路でうんうん言いながら俺の無茶振りを処理して、いかにも小坂らしく礼儀に適った返信内容を考えて打ち込んで、それで掛かるのが二十分なら妥当ってとこじゃないか。別に他に相手がいるとかじゃないって。絶対ない。

「まあ小坂さんのことですからね」

 霧島はひとしきりげらっげら笑っておきながら、そんな風に続けやがった。

「大方、上司相手に、特別な用もなくメールをすることに抵抗あるとか、そういうのじゃないですか」

 ご明察です霧島くん。主な理由はまさにそういうことだろう。

「上司相手、とかもなあ……」

 俺はまたもぼやく。

「勤務時間外くらい、そういうの抜きでもいいのにな。そりゃあいつはフランクにとかできない性格なんだろうけど、だとしても好きな男に送ってんじゃないのかって」

 あいつにとっての、好きな人って、どういう存在なんだろう。

 写真を持ってりゃ満足するのか。上司として尊敬してるだけで気が済むのか。ルーキーイヤーを恋愛そっちのけにしてでも無事に終えて、立派な一人前にならなきゃ隣に立てないほど貴い存在だとでも思ってるのか。

 好きな人のいる恋愛って、そんなに重く考えちゃうものなんだろうか。さすがにそこまでではなかったな、俺は。

「結構、手こずってるんですね」

 霧島にはむちゃくちゃ嬉しそうに言われた。むかつく。

「いや手こずるっておかしいだろ。あいつは俺のこと好きなんだぞ、俺が苦労するような話じゃない」

「先輩だってべた惚れじゃないですか。今となっては両成敗ですよ」

「でも先に惚れてきたのは小坂だろ。それがなかったら、こっちだって……」

 反論しながらも考える。


 最初は俺が小坂に追っ駆けられてたはずだ。

 その追っ駆け方があまりにも勢い任せで危なっかしかったのと、それはそれですごく初々しくて可愛かったのと、あと手近な、労力を割かずに済む存在に見えたのもあって、じゃあペースを合わせてやるかなって思った。

 なのに気がつけば、俺が追い駆け回す側になってる。小坂はまるで見当違いの方角に全力で駆け出しているから、ついていく方も必死にならなきゃ置いてかれてしまう。それで俺は小坂をデートに誘ったり、メールを送ったり、いろいろとちょっかいをかけたりしながら、明後日のベクトルへ突っ走るあいつの軌道修正を図ってる。こんな状況だ。


 そういうのも、楽しくないわけじゃないんだけどな。

 むしろ楽しいのがまずい。この状況に焦ったりもどかしさを覚えたりしてるくせに、小坂がちょっと笑ったり照れたり幸せそうにしてるだけで、つられていい気分になっちゃう俺がまずい。男たるもの志は高くあるべし、なのに俺のささやかな幸せっぷりと言ったら何だ。小坂の笑顔だけで一日の消費エネルギーを賄えちゃう燃費のよさだ。

 だから今日のメールも、結局どんな内容でも目にした途端に喜んじゃうんだろうなって予感がして、自分の浅さ単純さにほとほと呆れる。仮に小坂が『じゅげむじゅげむごこうのすりきれ』って寄越してきても、何こいつ超可愛いって思っちゃいそうだ。いいのか俺。


「うちの課でも話題になってるんですよ」

 と、そこで霧島が聞き捨てならんことを言った。

「話題ってどんな」

「主任が新人さんにすっかりめろめろだとか。最近じゃ浮かれて仕事に身が入ってないとか」

「入ってなくねーよ! 今日の残業はたまたまで、小坂のせいでもないし!」

「俺に言わないでくださいよ。皆も迷惑だとか言ってるんじゃなくて、祝福ムードって感じでしたから、気にしなきゃいいんじゃないですか」

 そうは言われても仕事にまで小坂の影響が、なんて噂されてたら複雑だ。

 それに噂としては逆だろ、逆の話になるべきだろ。小坂さんが石田主任にめろめろで、ってなるのが正しいんじゃないのか!

 動揺した俺をよそに、霧島は疲れたような声で呟いた。

「こっちだって、先輩たちのことやたら聞かれるようになって困ってるんですから。先輩だけならともかく、小坂さんは今はそっとしといてあげたいのに」

「で、お前は何て答えてんだ」

 素早く突っ込んでみた。

 すると奴はしばらく手を止め、長々と黙り込んだ挙句、

「小坂さんについては、何聞かれても知らないって言ってます」

「俺については?」

「それはまあ、適当に」

 適当ってどういう意味だ。

 こいつの『適当』ほど想像しにくいものはない。ということは。

「……まさか、噂の発生源ってお前じゃないだろうな」

「まさか! それよりほら、仕事片づけないと帰れないですよ! 急ぎましょう!」

 果てしなく不自然に話を逸らされた。怪しい。

 しかしその後の霧島は脱兎の如きスピードでキーを叩き出したので、こっちも負けてなるものかと速度を上げる。

 絶対こいつより先に上がってやる。俺には小坂がついてる、負けるはずがない。


 熾烈な戦いだったが、結果として俺は勝った。

 張り切って帰り支度を始めたのは午後十一時四十分。その頃、霧島はまだてかてかと点るラップトップと見つめ合っていた。

 勝利の余韻に浸りながら声をかける。

「お前、あとどんくらいで終わる?」

「もう終わりますよ、十分くらいです。鍵そこに置いてってください」

「じゃあ十五分以内に駐車場まで来れたら乗せてってやってもいい」

 持ちかけると、奴はぱっと意外そうな顔を上げた。

「え、いいんですか」

「よくなきゃ言わない。つか、さっきの話も詳しく聞きたいしな」

「さっきのって何でしたっけ」

「お前それマジボケだったら殴るぞ。お前の撒き散らかした噂についてだよ」

 女の子の天然は可愛いから許せる。男は却下。法が許しても俺は許さん。

 しかし霧島はボケたわけではなくすっとぼけてただけのようで、ぶつぶつ言い訳を述べ始める。

「俺は撒いてないですし変なことも言ってないです。先輩みたいに素面でも品のない話題できる人間じゃないですし。そもそも俺が言わなくたってだだ漏れなんだから一緒じゃないですか。皆も『やっぱりねー』って口揃えてましたよ」

 やっぱりって、こっちがやっぱりだよ! 本当に言ってんじゃねーかこの野郎。

「とにかく早く下に来い。十五分過ぎてから来たらお前の目の前で車出してやる」

「うわ、性格悪いなあ……」

「人のこと言えんのか」

 挨拶代わりに言い返して、俺はカバン片手に営業課を出る。

 無人の廊下を歩きつつ、まずは携帯電話のチェック。開けたフリップには『新着メール一件』の表示があった。これはと思いつつ、メルマガだったりするとものすごくへこむので一応送信先だけ確認しておく。ちゃんと『小坂藍子』と名前があった。よかった。

 予想通り俺のテンションはここでメーターを吹っ切ってしまって、エレベーターのパネルを小学生みたいに連打した。やってきたエレベーターに飛び乗って、箱が地下に落っこちていく感覚に余計わくわくする。


 地下駐車場に着くと、足が自然と走り出した。愛車めがけてがらがらの空間を駆け抜けるのは実にいい気分だった。残業の後とは思えぬこのはしゃぎよう、我ながらいかれてる。

 それから運転席のドアを開け、さっさと乗り込み、助手席にカバンを放る。携帯だけはちゃんと握り締めてある。

 シートに寄りかかってまず、息をつく。

 ドアを閉めてから数秒で室内灯は消えてしまって、駐車場内のオレンジの明かりだけがボンネットに降りかかっていた。そこで携帯を開くとバックライトがやけに眩しく感じる。疲れた目を自然と細めつつ、届いたメールをゆっくり、馬鹿みたいにどきどきしながら開く。

 タイトルは短く、『小坂です』だった。いやそこは名乗んなくてもわかるって、登録しといたら出るもんだろと突っ込みつつ、本文まで画面をスクロールさせる。

『お仕事お疲れ様です、主任』

 最初の一行にはそうあった。

 次に、

『今日は社員食堂までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。あの時は上手く言えませんでしたけど、私もすごく楽しかったです。と言うよりいつも、何もかも上手く言えてない気がしますけど、私はいつも石田主任のことを尊敬していますし、ルーキーを卒業した後は是非主任のような人になれたらなあと思っています』

 でらでらと数行、そんな風に続いていた。

 尊敬か。

 いやいいけど。全く嬉しくないわけでもないんだけど、勤務時間外くらいはなあ……。ここからはどうしてもまだ抜け出せないのか。それに小坂が俺みたいな大人になっちゃったら親御さんが悲しまないだろうか。少なくとも霧島は嘆きそうな気がする。小坂だってあいつに始終変態呼ばわりされるのは不本意だろうに。

 これで終わりなら予想通りの礼儀正しさにちょっとがっかりしてるところだが、小坂からのメールにはまだ続きがあった。

 スクロールしてみる。

『以前、私は主任から、ジンクスのお話をうかがいました。その件については、もしかするとこのメールを霧島さんがご覧になるかもしれないので詳しくは書きません。でもなるべくなら見せないでいてください。恥ずかしいからです』

 何であの話で小坂が恥ずかしがるのか、ぴんと来ない。

 それに見せるなって言われてもな……今んとこ見せがいのあるメールでもない。霧島が見たところでちょっと哀れむような目をされて、本当に手こずってるんですね先輩、とか言われるだけに決まってる。しかも嬉しそうにな。

 でも読み進めたら、そのくだりは前置きだった。

 次は、こう続いていた。

『あのお話をうかがった時、私もジンクスが欲しいなと思いました。でも私の場合、ちょっとしたことで一喜一憂してしまう性格なので、そのうちに何かの失敗をジンクスのせいにしてしまうんじゃないかなとも思ったんです。ご利益がなかったら、馬鹿みたいにへこんでしまうかもしれないな、とも』

 それはわかるな、と思った。

 俺もあの時――小坂の初営業の日、小坂が笑ってくれなかったから上手くいかなかったのかってちょっと、考えてた。今となっては馬鹿げた考えだが、その時は縋りたくなってた。自分で叱った後ですら、小坂が笑ってくれたらいいのにって、勝手なことを思ってた。

 縁起を担ぐのもほどほどに。そういうのは都合よく利用するのに限る。でも弱ってる時ほど深刻に考えちゃうのも、また真理なんだよな。そのくらい俺も小坂を励みにしてた、って話でもある。

 それで、小坂はメールにて語る。

『だから私の場合、ジンクスの対象は生身の人ではありません。動きもしないし喋りもしない、だけどすごく格好良くて素敵なものです。主任ならきっと、それが何かご存知かと思います』

 理解するまで少しだけ時間がかかった。

 何のことかわかってからは――あれか、でもあの写真はちっちゃいし、写りだってベストじゃない。そもそも実物の方が格好いいし素敵だろ。違うのか。あんなちっちゃい写真をジンクスにして、いつも同じ顔をしてる俺を励みにして毎日頑張れるっていうなら、お前は本当に燃費のいい女だ。

 そこは他人のこと言えた義理じゃないか。俺も小坂の笑顔だけで頑張れちゃうし、メール貰っただけで浮かれて駆け足しちゃうくらいには低燃費だ。違うのは、俺は写真なんかじゃなくて実物の小坂がいいって思ってる点だけ。小坂はまだそうじゃなくて――。

 そう、じゃなかった。

 メールは更に続いていた。

『主任があまりよく思っていらっしゃらないのもわかります。私も、本当に大切にすべきなのは何か、もうわかっているつもりです。これは私の方からお送りした二度目のメールになりますが、最後のメールにはしません。だからしばらくの間、あのパスケースのことを許していただけたらうれしいです。主任ならきっと許してくださるだろうなと思っています』

 そこまで読んで、ようやく、気づいた。

 俺はこの期に及んで、小坂の気持ちを読み誤っていた。だってあいつ上手く言えてない。本人の言うとおりちっともわかりやすく言えてなかったから、今まで気づかなかった。

 でも今日のメールはいい、少なくともこの部分だけはよくわかった。何が言いたいのか読み取れる、熱烈な文章だった。


 もしかしたら小坂は、もう知ってるのかもしれない。

 写真なんていう代用物が時々容赦なく与えてくる虚しさを。結局あれは画でしかなくて、触れないし黙ったまんまで反応もくれない。真実を映しているようでいて、あの一枚の中に人間一人分の魅力さえ詰め込みきれない。そういう虚しさを知ってて、あるいは知りつつあって、だからジンクスにもわざわざ期限を設けたんだろうか。

 ともあれ、いつかは本物が欲しいって、思ってくれてるってことだよな。

 恋人いない歴二十三年で、恋愛の楽しさとかあんまりわかってなさそうで、他人事ですらどきどきそわそわしちゃうような小坂が、でもやっぱり他人事じゃない方がいいって思ってくれてるってことだよな。その相手は俺がいいんだって、そう言いたいんだよな?

 ああもう本当にこいつは! 俺まで一喜一憂させやがって!

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