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番外編 アパートのバレンタイン

 六日遅れのバレンタインネタです。

 いつもの倍くらい長くなっています。


 ※最後でフェイトのドS言動がありますので、ご注意ください。

 なんの予定のない日曜の朝九時。

 部屋のチャイムが鳴り、良平はいつものように家の扉を開ける。

 すると珍しく四方山家の四つ子が揃って立っていた。

「颯太は?出かけてるの?」

 雲は挨拶もなしにそういった。

 人によっては礼儀がなってないだとかいうだろうが、これが彼女の親しみからくる態度だと知っている良平はさして気分を悪くすることもない。

 彼女はちゃんと時と場所を人を選んで行動することが出来るのだから。

 それに良平は彼女以上に礼儀知らずな人間を知っているからなおさらだ。

「颯太くんは奥にいるよ。呼んできた方がいいかな。それともちょっと上がっていく?」

「リョーヘイにい、大したもんじゃねえから呼んでくれねえか?」

 雲の代わりに答えたのは雨だった。

「わかった。颯太くん、雲ちゃん達が呼んでるんだけどちょっとこっちに来てくれる?」

 部屋の奥にいた颯太は不思議そうな顔をしながらも素直に玄関まで来た。

 扉の先にいる雲達に気づき、ぱちぱちと目を瞬かせる。

「はい、これあげるわ」

 颯太の目の前に立った雲はずいっと可愛く包装されたプレゼントを渡した。

「ありがとう。雲お姉ちゃん達」

 にっこりと心底嬉しそうな顔で受け取った颯太にその場にいた者の全てが穏やかな気持ちになる。

「よかったね、颯太くん」 

「クッキーが余ったからリョーヘイにもあげるわ」

「ありがとう。味わって食べるよ」

 まさか自分までもらえると思っていなかったために一瞬目を見開くが、すぐに表情を緩めて受け取った。

「私が作ったクッキーなんだから味わって食べるのは同然よ」

「少し焦げちゃったけど、美味しく出来ました」

「……皆で……頑張った」

「そうそう!アキにいと清水ねえと未来も一緒に作ったんだぜ」

 四つ子はそれぞれ自慢げに語ってくれた。

 それだけこのクッキーに気持ちが込められていると思えば、良平も颯太も嫌な気持ちにはなれない。

「へえ。そうだったんだ。アキも一緒だったのは意外だったな。去年までは新にも既製品をあげていたのにどういう心境の変化だろ?」

「おい、リョーヘイ。そのいい方はなんだよ!俺がバレンタインのお菓子を作ったらわりぃのか?」

 玄関を開け放していたからか、通りすがりの千秋が不機嫌な顔で話に入る。

「作るよりも食べる方が好きなんだと思ってたから驚いたんだよ。なんで今年は手作りにしたの?」

「新の反応を見たかったからだ」

 千秋は赤くなった頬を隠すように良平達から顔を逸らす。

「泣いて喜ぶと思うけど……違う?」

「ん?リョーヘイは知らかったか?最初のバレンタイン……あ、付き合う前になチョコをやったんだ」

「……え?アキから新と付き合う前にチョコを渡してたんだ。でもその日は僕も一緒にいたよね。いつ渡したの?」

 良平も知らない事実に少し驚く。

「正確には渡したっつーよりもおすそ分けみてえな?バレンタインの日に行ったコンビニでチロルチョコの詰め合わせを安売りしてたから一つあげたんだ」

「あー……なるほど。それで新はどうしたの?」

 千秋の言葉にその先の大体の話の流れは読めたが一応聞く。

「その場で膝から崩れ落ちて号泣した」

 千秋の一言に場の雰囲気が凍りついた。

 その気になれば他人から総額数百万円以上のチョコをもらえるのにも関わらず、たった一人からそれも十円前後のチョコ菓子一つで号泣する人間がどこにいるのだろうか。

 世界中を探しても新しかいない、と皆は思った。

「号泣って……。本当にチロルチョコ一個だけだよね?」

 良平は顔を引きつらせながら尋ねた。

「理由を聞いたら友達からもらったことがなかったんだと。新って意外と友達少ねえんだな」

 それは絶対に嘘だ、と皆が思った。

 アパートの住人達に千秋命の本性をさらけ出しているから忘れがちだが、あの男の容姿は神に愛されたように整っている。

 だから少し愛想をよくするだけで光に集まる虫のごとく女が集まるのだ。

 気づかないのは本人(千秋)だけである。

「だから今年はどんな反応をすんのかと思ってな」

 千秋は無邪気に笑う。

 ああ、後が怖い。

「あまりやり過ぎない方がいいよ。新が暴走するからね」

「号泣以上ってなんだよ?」

 恋愛に関してそこらの女子高生よりも知らない千秋はきょとんとした顔をする。

 それはあの男に対してあまりに無警戒すぎると思わざるを得ない。

「いや……そういう意味じゃなくて。新にホワイトデーの前にお返しを渡されると思うよ。最悪の場合はその場でね」

 そう遠くないうちに良平の予感は当たるだろう。

「はあ?さっきから意味わかんねえよ?はっきりいえっての!」 

 鈍いにもほどがあるこの家族のような親友の千秋はやはり良平のいいたいことには気づかない。 

「あ!アキ!やっと見つけた。急にどこかに行ったと思ったらここにいたんだ。もしかして僕と買い物に行く約束を忘れてた?」

 噂をすればなんとやら。

 呼んでもいないのに向こうから千秋を探してやって来た。

 忠犬といえば聞こえがいいが、実際はただのストーカーとさほど変わりない。

 今までのことを思えば無理もないことかもしれないが、やりすぎだろう。 

 ストーカー、もとい新はちょっと不機嫌な顔で千秋の隣に並んだ。

「おっ!ちょうどいいところに!新、これやるよ」

「え?これ……もしかしてバレンタインの?」

「そうだ。まだ渡してなかっだろ?」

「アキっ……!」

 千秋からチョコクッキーを受け取った新は感動のあまり泣き出した。

 二十歳を超えた大人が人目を気にせずに泣き出したことに全員がドン引きしたのはいうまでもない。

「ああっ……!どうしよう、リョーヘイ!せっかくアキが僕のために作ってくれたのに、もったいなさ過ぎて食べられない!それなのに永久に保存することもできないよ!でも腐らせるなんていうのは論外!僕はこれをどうしたらいいの?」

「スマホのカメラで写真を撮って、味わって食べたら?それなら写真を見る度に味を思い出せるし、腐らせることもないよ」

「その手があったか!」

 新は嬉々としてスマホを取り出すと、写真を撮り始める。

 一枚や二枚では飽き足らず、スマホのメモリーを埋め尽くす勢いで、シャッターを切っていく姿は血気迫るものがあり、恐ろしくもあった。

「予想の斜め上を行く反応だったわね……」

 雲が皆の心を代弁するように呟いた。

「あ、アキ。今日は出かけるのはやめよう」

「はあ?お前が服がほしいっていったんだろ?」

「今はアキ」

「新、それ以上を未成年の前でいうつもり?」

 良平の絶対零度の視線が新に突き刺さる。

「いや、その……そう!クッキーのお礼をしたいからやっぱり出かけよう、アキ!予定よりちょっと遅くなったから少し急ごう!」

「ちょっ!急に服を引っ張るなよ、新!」 

 新は千秋の腕を掴み、引きずるようにして連れて行った。

 雲達はそれをぽかんとした顔で見送る。

 良平だけが遠い目でそれを見ていた。

「リョーヘイ、新は何をいうつもりだったんだ?」

「……雨ちゃん達がもう少し大人になったらわかるよ。それよりも清美ちゃんと未来ちゃんはどうしたの?一緒に作ったんだよね?」

 雲達の健全な教育のために良平は話を逸らした。

「……清美は……灯火と……ヴェルへ……渡しに行った」

「未来は日向と自由に渡しに行ってました」

「ならトマさんとフェイトさんは猫さんのところかな」

「そうね。トマは毎年この時期は猫からチョコをもらいたくて仕方ないのよね」

「……いつもより……そわそわしてて……おもしろい」

「トマは猫が好きだもんな」

「そうなんだ。でもフェイトさんはいつも通りだったよ?」

「本当はもらえて嬉しいくせに興味がないようなふりをしているだけよ」

「フェイトは素直じゃねえからな」

「あらあら!リョーヘイくんも中々やるじゃない。こんなに可愛い娘達をは」

 割り込んできた声に場の雰囲気が一変した。

「近所の娘達です。バレンタインなのでチョコクッキーをもらいました。綾香さんはどうしてここへ?」

 新と入れ替わるようにやってきたのは彼の姉の彩香だった。

 来て早々に良平に言葉を途中で遮られるが、気にした様子はない。

「弟がご執心のアキくんへあたしからバレンタインチョコをあげようと思ったの。でもいないみたいね。新ばかりがアキくんを独り占めしてずるいわ」

「あれでも一応アキの彼氏で独占欲が強いやつですから、こういう行事(イベント)で会えないのは仕方ないと思いますよ」

「それもそうね。はい、リョーヘイと将来が楽しみな可愛い女の子達と男の子。あたしからのハッピーバレンタインよ」

「うわあ!これすごく可愛いっ!本当にもらっていいんですか?」

 ポップな袋とカラフルなリボンで包装されたチョコは本当に可愛い。

 彩香がくれた物とはとても信じられない。

「ええ。もちろんよ。むしろそんなに喜んでもらえて嬉しいわ。手作りだから店の物より形が悪いけど遠慮なく食べてね」

「ありがとう、あやねえ!」

「何この子達可愛いすぎるわ!部屋が空いていたらあたしもここに住みたいくらいね」

「失礼なことを聞きますけどチョコの中に何も入れてませんよね?」

「いやねえ、リョーヘイくんたらっ!入れたに決まってるでしょう」

 彩香はとんでもないことをさらりという。

「……ちなみに何を入れたんですか?」

「可愛い子達には苺ジャム、リョーヘイくんには栄養剤、アキくんには媚薬、新には精力増強剤くらいよ」

 良平は彩香が千秋と新に会わなくてよかったと本気で思った。

 主に千秋の負担が大きすぎるという意味で。

「リョーヘイにい、びやくってなんだ?」

 子どもとは答えに困るようなことを聞く。

「媚薬っていうのは」

「彩香さん、教えないでください。いくらなんでも早すぎます。大人びて見えるのかもしれませんがこの子達まだ小学生ですよ」

「そうやって大人が必要な性知識を抑えつけるのはどうかと思うわ。何も知らずに騙されて襲われでもしたらどうするのよ?」

 彩香のいうことは正論でもある。

「そうならないように大人がいるんです。それにそういう知識は年齢と共に自然と身につくものですよ」

「リョーヘイくんはアキくんにも同じことがいえる?」

「アキは例外です」

「あら、ずるい人。でもリョーヘイくんらしいわね」

 彩香はくすくすと上品に笑う。

「からかわないでくださいよ」

「ふふ。すねたところは可愛いわね。お姉さん、普段とのギャップできゅんとしちゃったわ。今夜辺りどうかしら?」

 大人の色香を漂わせた誘いだけど、それが本気でないことくらいわかる。

「せっかくのお誘いですが、新とは友達でいたいのでお断りします」

「相変わらずつれないわね。新はそんなこと気にしないわよ?」

「僕が気にするんです。それに颯太くんを出来るだけ一人にしたくありませんしね」

「リョーヘイくんはきっといいお父さんになれるわ」

「そうですか?優しくて料理上手な彩香さんこそいいお母さんになれそうですよ」

「そんな風に思ってもらえて嬉しいわ。せっかくだからこのまま子」

「彩香さんには僕よりももっと相応しい人がいますよ」

「本当に残念だわ。あ、もうこんな時間。そろそろ次の場所に行かないと。リョーヘイくん達ともっと話したかったけどまた今度ね」

「いつでもお待ちしてますよ。出来れば事前に連絡してください。せっかく来てくださるならちゃんともてなしたいですから」

「ふふ。あたしにそんなことをいってくれるのはリョーヘイくんだけよ。ありがとう」

「お礼をいわれるようなことじゃないですよ」

「そういうのもリョーヘイくんらしいわね。じゃあね、リョーヘイくん、可愛い子達。新とアキくんによろしくいっといてくれる?」

「わかりました」

「それじゃあまたね」

 風のようにやってきた彩香は風のように去っていった。

「色んな意味で一度会ったら忘れられない人ね」

 雲の一言は的を得ている。




 時間を少し遡って、良平の部屋のチャイムを雲達が鳴らした頃、日向と自由は喧嘩をしていた。

 喧嘩といっても口喧嘩ではたから見たら一方的に日向が怒っているようにも見える。

「だからさっきからいっちょるやろ!今日は日曜で学校がないっちゃかい、もうちっと寝とってもいいやろ!」

「ダメデス、日向様。継続ハ力ナリトイウ言葉ガアルヨウニ、健康ナ心体ハ規則正シイ毎日ノ生活ノ積ミ重ネカラ出来ルノデス」

「一日くらいだらだらしちょったくらいで病気になるわけじゃないっちゃろ!」

 まるで思春期の親子のような喧嘩を中断させたのは、やはり来客を知らせるチャイムだった。

 パジャマ姿の日向に代わり、自由が対応する。

 日向はそのまま寝ようかと思ったが、不安を感じてパジャマの上にパーカーを着て後を追う。

 ドアを開けた先にいたのは未来であった。

 いつも側にいる四つ子の姿はない。

「おはようっ!朝にごめんねっ!どうしても渡したい物があったのっ!」

 開口一番に元気よく謝罪した。

 年下の少女から頭を下げられて二人は動揺する。

「い、今起きるところやったから気にせんでいいっちゃが!」

「今日ハ休日ナノデモウ少シ寝」

「ちょっと黙っちょって!」

 日向は自由の口を物理的に塞いだ。

 自由はやや不満げな顔をするが何もいわなかった。

「それで渡したいもんって何やと?」

 未来に話を戻すと思い出したように後ろ手に持っていたそれを日向と自由の前に差し出した。

「今日はバレンタインでしょ!だから二人にも作ったのっ!受け取ってくれる?」

 実の妹のような存在の未来からの可愛らしいお願いに無意識に日向の頬は緩んだ。

「ありがとう。もらえるとはおもっちょらんかったかい嬉しいっちゃわ」

 日向の言葉に未来の顔が輝くが続いた自由の言葉に固まった。

「私ハ食ベルコトガ出来マセン」

 いくら外装が人間と変わらないとはいっても内側は違う。

 現在の技術でも様々な問題で自由が飲食をすることは難しかった。

 見る見るうちに未来の目に後悔の涙が溜まる。

「なんいっちょっと」

「ソンナ私ニモ日向様ト同ジ物ヲ準備シテクダサッタ心遣イ大変嬉シイデス。アリガトウゴザイマス」

 自由はにっこりと嬉しそうに笑った。

 未来の目から涙がすっと引っ込んでいく。

「ううんっ!二人とも受け取ってくれてよかったっ!そのクッキーには『未来と仲良くしてくれていつもありがとうっ!未来は二人のこと大好きだよっ!』って気持ちをたくさんこめたんだよ!」

 まっすぐで純粋な告白に日向は顔だけではなく首まで赤らめ、自由は微笑ましそうに笑った。

「アパートの人はいいけど他の男にそんないい方しちょっと誤解されるかい気をつけんと!」

「他の人にはいわないよっ!だって私はこの二葉荘の人達が一番好きだもんっ!」

 輝くような笑顔で未来はそういった。

 あまりの眩しさに日向は顔が見れない。

「それにいいたいことはすぐにいわなきゃダメなんだよ……だってずっと側にいてくれるわけじゃないんだから」

 未来は少し俯いていつもの明るい笑顔に影を落とす。

 寂しそうな笑顔の裏で何を考えているのは二人は想像もつかない。

 二人は未来が“遠い未来から来た”ということしか知らないからだ。

 ただ未来は大切な人を失ったのだろうなということだけは想像できた。

 日向はちらりと自由を見上げて、未来に視線を戻す。

「確かにお前のいう通りやっちゃが。いいたい時にいわんと後悔すっかいね」

 未来は日向を顔を見上げて首を傾げた。

 彼女もまた日向のことを知らないからだろう。

 でもそれでいいと日向は思う。

 わざわざ暗かった頃の自分をこの少女に聞かせて同情されたり、怯えさせたりしたくない。

 辛く苦しいことはお互いに慰め合い、嬉しく楽しいことは分かち合う。

 このアパートの住人達でそんな家族のような関係を一日でも長く続けられればいい。

 だから今日くらいは自分の気持ちを素直にいおう。

「俺も未来も自由も皆もてげ好き」 

 自由と未来は目を丸くして驚いたが、すぐに嬉しそうに笑う。

 日向はそれが少しだけくすぐったかったが、悪くないと思えた。




「なんか今日はすごかったね……」

 バイトからの帰り道、灯火は隣にいるヴェルへぽつりといった。

「本当にな。まさかあの人が客に対してあんなに怒るなんて思わなかった」

 ヴェルは真っ青な顔で昼間にあったことを思い出す。

「そうだね。いつもは平日だけど今年は休日で女性のお客様が多かったせいかな……」

 今日はバレンタイン。

 喫茶店『黒猫』もチョコレートを使ったお菓子を多めに準備していた。

 そして何がそんなにあの人ことフェイトを怒らせたかといえば、客が仕事中にも関わらず、それも他店チョコレートを渡しそうとしたからだ。

「確かにあの人は綺麗だ。人当たりのいい(接客中のみ)ところも魅力的だと思う。だが実際は悪魔よりも恐ろしい人だぞ!」

「ちょっとだけその気持ちわかる……」

 フェイトも最初は客のプライドを傷つけないようにやんわりと断っていたのだ。

 だが相手はしつこく食い下がり、『チョコを受け取って恋人になってくれないと帰らない』とまでいい出した。

 明らかな営業妨害と自分勝手な言動にフェイトは相手を客としてではなく敵とみなした。

 その後のことは思い出すのもはばかれるくらい、苛辣(からつ)なものだった。

「あれはただの氷山の一角に過ぎない!本当はもっと恐ろしいんだ!」

 力説するヴェルだが、聞かれたらどうするつもりなのだろう?

 彼は仕事はできるのに、時々相手のことを考えずに思ったことを正直にいってしまうことがある。

 親しい人ほど顕著で、特にフェイトに多く失言してその度に顔を青くしている。

 だがフェイトはそんなヴェルの反応を楽しんでいるようで、さらに怯えさせることをいって、泣く寸前まで追い詰めることがしばしばある。

 あの人は好意の表現がちょっと歪んでいると、灯火は思う。

「そういえばヴェルはいくつチョコをもらった?」

 声をかけられていたのはフェイトだけではなく、ヴェルもだった。

「一つも受け取っていない」

 ヴェルは真顔で答えた。

「えーっ!?一つも!?あんなに声をかけられていたのに!?」

 軽く十人くらいは声をかけられていた。

「仕事中にチョコを受け取ったことがバレてみろ。怒られるだけで済むと思うか?」

 灯火は考えるまでもなく頷いた。

 確かに昼間以上に怒られそうである。

「お前は受け取ってないか?」

 ヴェルは心底心配そうな顔を見せる。

「ヴェルが助けてくれたから大丈夫だよ」

 灯火も一度だけ声をかけられ、断りきれずに困っているとヴェルが間に入り助けてくれた。

「ならいい。だがお前には本命がいるのだからああいうのははっきり断われ」

 ヴェルは視線を前に戻し、何の前触れもなく爆弾を落とした。

「き、清水がくれるとは限らないよ!」

 灯火は耳まで顔を赤くする。

 分かりやすい反応にヴェルは呆れたように溜め息を吐く。

「期待しているくせに何をいっているんだ」

「なっ!?だっ!?す、好きな人からもらいたいと思って何が悪い!?」

「何も悪くない。お前が照れ隠しに俺に八つ当たりしても何も悪くない」

「ヴェルが僕をからかうのが悪いんだよ!?」

「……俺はお前をからかってなんていないが?」

 ヴェルは数学の難問を目の前にしたように眉間に皺を作る。

「十分からかってるよ!」

「それより前を見てみろ」

 灯火は露骨に話を逸らしたヴェルを一睨みしてから前を見た。

 気づかない内にアパートのすぐ側にまで来ていたようで、灯火の部屋の前に清水が待っていた。

「え?なんで……?」

「待っていたんだろ。さっさと行くぞ」

 呆然としている灯火を引きずるようにヴェルは先に進む。

「遅くなって悪かった」

 そして清水の近くに来ると灯火の背中を突き飛ばした。

「うわっ!?」

 灯火はその場で二、三歩ほどたたらを踏んで立ち止まって清水とぶつかるのを避けた。

「二人とも遅くまでお疲れ様です。特に今日は大変だったんじゃないですか?」

「ああ。いつもよりはな。明日は元に戻ると思う」

「やっぱりそうだったんですね。じゃあ今日は早く休んだ方がいいですね」

「そうだな。じゃあ俺は帰るから灯火も早く休め」

 階段に向かうヴェルに清水が声をかけて、何かを投げた。

「ヴェルさん、ハッピーバレンタインです!」

 ヴェルはそれを危なげなく片手で受け取る。

「猫さんにお願いして雲ちゃん達と一緒にチョコクッキーを作ったんです。よかったら食べてください」

「わざわざ悪かったな。ありがとう」

「いえいえ。じゃあおやすみなさい」

 灯火は再び呆然として、すぐに落ち込んだ。

 自分だけが清水からチョコをもらえると思っていたのに、ヴェルがそれも先にもらったから。

「灯火くん、なんで落ち込んでいるんですか?」

「……なんでもないよ」

 灯火は己のプライドのために精一杯の虚勢を張った。

「そうですか?まあとりあえずここにいたら風邪ひいちゃいますから帰りませんか?」

「……そうするよ」

 清水の後に灯火も家の中に入った。

 だが肉体的疲労と精神的ショックで食欲も湧かない。

「ご飯にします?お風呂にします?それとももう寝ますか?」

 今の灯火はいつも通り清水の冗談につっこむ余裕すらない。

「……今日は疲れたからお風呂に入って寝るよ」

 灯火は清水と目を合わせることなく、着替えを取りに部屋の奥に行く。

「そんなに大変だったんですか!ならお風呂の前にこれ食べちゃってください!」

 清水から差し出されたのはさっきヴェルに渡した物と同じ物。

 いやこっちの方がやや大きい。

 信じられない気持ちで灯火は清水の顔を見つめる。

「本命チョコですから味わって食べてくださいね!」

 清水は顔を赤くしながら見上げた。

 それ以上に灯火が顔を赤くしたのはいうまでもないだろう。




 時刻は八時を過ぎた頃。

 最後の客が店を見送って、フェイトは店の看板を裏返して『準備中』に変える。

「もう少ししたら終わりだから今日は先に帰っていいよ」

 店内に戻るとすぐに猫からやんわりと帰宅を促される。

「ご老体に鞭打つ趣味はありませんから給料分の仕事はしますよ」

 フェイトは毒を吐きながら、各テーブルとその周囲を拭き掃除していく。

 それを横目に見ながら猫もカウンターの掃除をする。

「今日は疲れたと思っていたんだけど大丈夫そうだね」

 猫が何をいいたいのか、長い付き合いのフェイトはそれだけで分かった。

「疲れましたよ。それに常識も礼儀も知らない、その上言葉すら通じない女なんて害にしかならないことが改めてよくわかりました」

 フェイトは一瞬だけ手を止めたが、すぐに動かす。 

 その顔に浮かぶ感情は嫌悪だ。

「今日来た人はちょっとひどかったそういいたくなる気持ちも分からなくはない」

「ちょっとなどと主は随分と心が広いんですね。私には到底理解できませんねえ」

「フェイトは恋をしたことがないから余計にそう思うんだよ」

 猫の言葉にフェイトは嘲笑うように口の端を吊り上げた。

「恋とは相手や周囲の都合を無視して自分の意思を押しつけて相手の時間と体を拘束し、心のない愛の言葉をいわせて愛されてると錯覚し、自己満足することですか?」

 猫はいつもよりも機嫌の悪いフェイトに苦笑した。

 人の好き嫌いの激しいフェイトだが普段ならばここまでいうことはない。

 よほど昼間にフェイトに絡んだ客が気に食わなかったようだ。

「何をそう怒ることがあったんだい?フェイトが街で買い物する時にも同じようなことがあるじゃないか」

 猫は回りくどいことは止めて、核心を問う。

「最初にいいましたよ。私は常識も礼儀も知らない人間が何よりも嫌いと。飲食店に食品を持ち込むことでさえマナー違反であるのに、あの女どもは何度断っても私達にチョコレートを渡そうとしました。店の商品よりも他店の方が美味いと正面から侮辱されて平常心でいられるほど、私は冷徹ではありません」

 今日はバレンタインデーで、日本では女性が男性にチョコレートを渡す日だ。

 だがフェイトにいわせると場所と時間が悪かった。

 ただまあ、仕事終わりでもフェイトは決して受け取りはしないと猫は思う。

「君が怒るほどこの店に愛着を持ってくれて嬉しく思うよ。ただ少しやりすぎだったとは思うけれど」

「料金を払わずに追い出したのは失敗ですねえ。営業妨害込みでもっと支払わせるべきでした」

 フェイトは全く反省もせずにそう嘯くものだから、猫は呆れてしまった。

「フェイトはいつになったら落ち着くんだい?」

「何をいいますか。私は普段から落ち着いているではありませんか」

 フェイトは顔をあげてわざとらしい笑みを浮かべる。

「ならいい方を変えよう。君はいつになったらむやみやたら敵意を向けないようになるんだい?」

「むやみやたらなんてとんでもありません。こう見えて相手を選んでいますよ。では終わりましたのは着替えてきます」

 話しているうちに残っていた仕事が終わり、フェイトは更衣室へ行く。

 猫は後姿を見送って深く溜息を吐く。

「どうしてああなったんだろうか。不思議でしょうがない」

 ふいに入口の扉が開き、誰かが店内に入ってくる。

「お疲れ様。今日は遅かったようだね」

 猫は微笑んでやって来たトマを迎えた。

「いろいろあってな。お前も何かあったみたいだな。疲れた顔してるぞ」

 トマは脱いだコートをカウンターの椅子の背もたれにかけ、自身は隣に座った。

「こっちもいろいろあってね。この日には困ったものだよ」

 フェイト以上に付き合いの長い二人は少し顔を見ただけで相手の状態がわかる。

 お互いに苦笑する。

「新と千秋が休みでよかったな」

「本当にそう思うよ」

 猫は手早く一杯のコーヒーを作り、トマの前に置く。 

 ただ、今日はいつもと違ってその隣には可愛らしい包装のお菓子を添えてある。

「本命か?」

 すぐに気づいたトマが悪戯っぽく笑う。

「まさか」

 猫は緩やかに首を左右に振った。

 更衣室の扉が開き、フェイトが中から出てきた。

 トマの姿を見つけるとにやにやと嫌な笑みを見せる。

「おやおやお邪魔でしたか。後はお二人でゆっくりとしていってくださいませ」

 二人がいい返す前にフェイトは出て行った。

「全くフェイトには困ったものだ」

「まあな。でも手のかかるやつほど可愛いっていうだろ?」

 トマの言葉に猫は思わず笑った。




 フェイトは人気のない道を歩いていた。

 だがふいに立ち止り、後ろを振り返る。

「いつまでついてくるつもりですか?」

 背筋の凍るような声だった。

「今ここで警察に通報しましょうか?私の後をつける不審者がいると」

 フェイトはコートのポケットから取り出した携帯電話を耳に当てながら、相手の出方を伺う。

 すると恐る恐るといったように電柱の陰から姿を現した。

 後をつけていたのは日本人の平均的な体格の黒髪の女だった。

 年齢は二十代後半くらいだろうか。

 真面目そうに見えるがやけにおしゃれな服装に化粧と甘ったるい香水がフェイトの鼻につく。

「あ、怪しい者じゃないんです!ただフェ、フェイトさんに渡したい物があって」

「不審者はたいていそういうんですよ。私は名も知らない人間から物をもらうほど不用心でも飢えていません」

 フェイトは女の言葉を途中で遮った。

 女は唖然としている間にさらに言葉を重ねる。

「私がこんな寒い日にわざわざ足を止めてまでいいたかったのは、あなたに付き合うためではなく無駄なので着いてくるのを止めてくださいといいたかったらです」

「あたしはただフェイトさんにチョコを渡したくて……」

「渡す時に告白でもするつもりだったのではですか?そもそも他人から何が入っているのかもわからない物を受け取るとでも?そんな風に考えていたのなら」

「一目惚れだったんです!一年くらい前に街で見かけてそれからずっと好きで、だから今日は頑張って告白しようと思ったんです!」

 酷いことをいわれたにも関わらず、女は顔を赤くして叫んだ。

 瞳にはフェイトへの恋心が浮かんでいた。

「そうですか。私にとってあなたの好意は迷惑以外の何物でもありません」

 フェイトは冷たく微笑んで、何も持っていない手をコートのポケットに入れて中の物を掴んで、よく見えるように掲げた。

「私のはもう本命がいますから」

 女の顔から表情が消えて、その場に崩れ落ちる。

 そしてすぐに声を詰まらせて泣きだした。

 フェイトはそれを心底嫌悪した目で一瞥して、その場を去った。

 しばらく歩いてぽつりとつぶやく。

「主からもらったチョコレートがまさかあんな形で役に立つとは思いませんでしたねえ」

久遠「手作りクッキー俺も食べたかった!なんで俺だけ除け者なわけ!?ちゃっかり咲楽ももらってるし!羨ましい!いや恨めしい!あいつの枕元に立ってやろうか!いや……返り討ちにされそうだからそれは止めておこう。でもさ!でもよ!父親である俺だけ既製品のチョコってどうよ!そこはさ、手作りだよな!なんで俺だけなんだよ!悲しいじゃねえか!寂しいじゃねえかよ!」


リアン「手作りだったらここに届くまでに痛んでいます。社長の体調を気遣ってあえて手作りではなく賞味期限の長い既製品にしたんでしょう」


久遠「そうか!俺の体調を気遣ってくれていたのか!そりゃしかたねえな。うん、うん。雲達の愛情はちゃんと俺に届いたからな!一粒一粒大切に大切に味わって食べるからな!ああ!その前に写真を撮っておかねえと。包装紙も綺麗に剥がして保存しよう!」


クロエ「社長、クロエからもプレゼントです」


久遠「ん?クロエもくれるのか!サンキュー!ふふっ!娘達と娘のように思っているクロエからチョコをもらえるなんて俺は世界一幸せな男だな!幸せすぎてにやにやするぜ!この幸せを他人と共感できないところがまた辛いな!幸せすぎて辛いわ!」


リアン「はいはい。よかったですね。ではこの書類を片付けてください」


久遠「えっ……」

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