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1 善良なる伯爵家の終焉


 母は美しい人だった。頭も良くて、教養もあって、公爵に信頼されて嫡男の教育係を任されるような、そんな人だった。


 どうして父のような人と結婚したのだろう。権力争いに興味がなく、どんな悪い噂を立てられても気にもしない、温厚という言葉さえも鋭く聞こえるような、おもしろみもない人なのに。

 領民を愛し、我が子たちに無限の愛を注いでくれる、優しいだけが取り柄の人なのに。


 父が母と結婚しなければ、結末は変わっていたのだろうか。それとも、母が死んだ時に、父と兄の言うことを聞かなければよかったのか。


*


 視界が赤く染まる。


 豪奢なシャンデリアは粉々に砕かれ、かつて母が大切にしていた花瓶は、粗末な靴に踏みにじられる。

 パチパチ、と木材が爆ぜる音が、怒号さえも聞こえなくなった静かな室内に小気味良く響いていた。


「おとう、さま……」


 大きな背中に手を伸ばす。刃が突き刺さったその身体は、もう動かない。


「……おにいさま」

 光を失った瞳に映る自分は、床に這いつくばる惨めな姿だった。


 動かなくなった家族の姿に伸ばした手は、汚い靴に踏まれる。


「……っ」

 痛みに顔を歪めると、

「命乞いをする気になったか?」

 頭上から嘲笑が降ってきた。


『待ってくれ! 皆、落ち着いてほしい。話し合いをしよう。不満があるなら、私が聞くから』

 由緒正しいアルセイン伯爵家の当主エドモンの最後の言葉は、そんなものだった。


『暴力はいけない。剣を下ろすんだ。私たちは家族じゃないか……』

 その嫡男シリルもまた、父の教えを忠実に守り、武器を手に取らなかった。


 2人の死に様はあまりにも無惨で、あまりにも彼ららしかった。


 没落のきっかけは、小さなものだった。

 家の社交の柱だった母が亡くなり、外交下手な父と兄ではその代わりは務まらなかった。出世に興味がなく、書庫を愛し、領民たちを慈しむことしか知らなかった父は、社交界という名の伏魔殿の格好の餌食になった。


 『社交界は汚いところだから』と頑なに妹の社交を認めなかった兄もまた、父の教えを忠実に守った。


 社交界に出てこない娘の噂は悪意を持って広められ、やがてそれは大きくなって、皇帝の耳に届く。様々な貴族が「不正の証拠」を提出し、家門の「不徳」として処理されていく。


 爵位剥奪こそ免れたものの、アルセイン伯爵家は実質的に社交界から追放された。


 そして今、後ろ盾も信頼も失った屋敷に、「領民」たちが押しかけてきた。


 父の胸を貫いたのは、鍬ではなく剣だった。兄の首をはねたのは、飢えた領民の怒りではなく、熟練の暗殺者の手際だった。


「ひひっ、笑わせるぜ」

 乱暴に髪を掴まれ、強引に顔を上げられる。

「話し合いだとよ。最後までおめでたい貴族サマだな」


「……あなたたちは、誰?」

 リディアの声は震えていた。

「見たことのない顔だわ。そんな冷たい目をした領民なんて、知らない」


 父に連れられて領地を回った時、彼らは笑っていた。領主の来訪を快く歓迎し、採れたての果実を差し出してくれたあの温もりを忘れたことはない。


「気づいたか」

 ハハッと笑い声が落ちてくる。


「残念だったな。俺たちは金で雇われたギャングだ。あんたらがかわいがった領民たちは、今頃隣町の配給に並んでるだろうさ」

 下卑た笑い声が連鎖する。


「依頼主サマには感謝しないとな。たったこれだけのことで、酒場で豪遊できる金をもらえるんだ」


 たったそれだけ。安い酒場で一晩遊べるような金が、自分たちの命の価値だというのか。


「おい、さっさと済ませろ。火が回るぞ」


 依頼主。その言葉が、リディアの胸を打った。

 父と兄が信じ、最後まで傷つけまいとした「領民」たちはここにはいない。これは暴動ではなく、周到に仕組まれた「抹殺」だったのだ。


「お前らが悪いんだ。中立を貫こうなんて生意気なことをするから」

「力のある方にさっさとついてしまった方が楽なのにな」


 善良であることは罪なのか。誠実であることは、死に値する愚かさなのか。領民を愛せと伝えた父の思いは、間違っていたのか。


「命乞いでもするか? 今更遅いが」

「……いいえ」


 これからどうなるかなんてわかりきっている。耐え難い屈辱を受ける気なんて、さらさらなかった。


 父と兄の骸に目をやる。彼らの無念を晴らせないことを、リディアは心の中で詫びた。


 力なく垂れた右手を持ち上げ、胸元のペンダントに寄せる。非力な彼女が、「いざという時」に使うもの。


 男の目が驚愕に染まる。見開かれたその目に、リディアは笑ってみせた。


「また会いましょう。その時は、あなたたちが望む以上の地獄を、わたしが用意してあげるわ」

 そう告げて、ペンダントをあおった。


「……っガハッ!」

 喉が焼けるような痛み。心臓が握りつぶされるような苦しみ。それさえ、救いだった。


 自分たちから全てを奪い取った彼らを引きずり出し、二度と這い上がれないどん底までたたき落とす。


 話し合いではなく、暴力で。慈悲ではなく、絶望で。


 その全てを奪い尽くし、笑ってやる。


 そんな荒々しい復讐心の中に芽生えるのは、小さな願い。


 家族に会いたい。


 ささやかな願いとともに、リディアは痛みを手放した。


*


 暗い水底に落ちていくようだった。苦痛も恐怖もない。ただ流れに身を任せるように。


「もし一度だけ願いが叶うとしたら」

 何者かの声がした。

「あなたは何を願うの?」


 そんなの、決まってる。


 家族を救いたい。幸せに暮らしたい。


 リディアが願うのは、家族の幸せだけだ。


 その瞬間、暗闇の先に小さな光が見えた。


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