5-1 暁に翔る
5-1 暁に翔る
雲の上、夜の闇に紛れて帝都へと向かう。
アズールは大きな翼を広げ、まるで空気そのものになったかのように静かに舞っていた。
その両手に、私と清空の体がしっかりと包み込まれている。
冷たい風が直接当たらないよう、翼の角度を巧みに変えてくれているのがわかった。
清空は念のため、私とアズールを一本の紐で結びつけていた。
この高さから落ちれば命はない。だが私の神経は、冷気よりも迫り来る帝都の気配に研ぎ澄まされていた。
三年前まで暮らした都。
しかし、今の帝都はもう、私の知る場所とは違うかもしれない。
小さく息を整え、清空へと向き直った。
「……三年前の話だ。権力の座を巡る蹴落とし合いの激しい場所だからな。
力関係が変わっていても不思議はない。参考程度に聞いてくれ」
「わかってる」
私は頷き、いくつかの名を告げた。
「皇帝、桂花、蒼識空、翡翠空……この四人は話したな。
それ以外の主だった貴族たちのことも伝えておく」
遠い日の帝都を思い出しながら続ける。
「蘇枋家、柘榴家、松柳家。
蘇枋家は翡翠空を支える古い家だが、私の擁立には慎重だった。
柘榴家は桂花派だから、接触は避けるべき。
松柳家は日和見で、誰にでも愛想よく振る舞うが味方はしない」
「翡翠空に頼るなら、蘇枋家の協力は必要になるわね」
清空は素早く理解し、端的に結論だけ告げる。
私はその頼もしさに少し安堵した。
「ああ。避けては通れない」
呼吸を置いて、話題を変える。
「神官についても触れておこう。
古くからの儀天家と、新興の昴烈家がある。
味方にしやすいのは儀天家だ。建国王を今も深く信奉している。
だが……ボレアルを救い、龍捕獲陣を壊すには昴烈家と接触せざるを得ないかもしれない」
「昴烈家か。いい噂は聞かないわね」
清空の言葉に、苦々しい気持ちが胸をよぎる。
彼女を異端と断ずるかもしれない人々の中に、私は飛び込めと告げているのだ。
「そうだ。
彼らは龍捕獲陣を開発した功績で地位を得たが、他の魔術体系を“異端”と断じる傾向がある。警戒は怠るな」
清空は静かに頷いた。
その静けさが、ありがたくも怖かった。
「最後に、女官について。
桂花直属の者に紗鶴という女官がいる。
華美を好み、商人との繋がりも深い。贈り物の噂も絶えない」
「その人、私が接触することになるの?」
「いや、多分馬甫が当たるだろう。だが、お前の存在が目立てば監視対象になる。気をつけろ」
華やかで知的――だが、その笑みの奥にある合理性は時に冷酷だった。
「了解」
迷いのない短い返事が返ってきた。
やがて空の端がわずかに白み始める。
闇がほどけ、帝都の輪郭が静かに現れていく。
胸の奥深くに沈む恐れがあった。
だが、その光景から目を逸らすことはなかった。
ふと、手に温もりを感じて顔を向けると、清空がこちらを見ていた。
「私がいるからね」
「ああ」
頷き、明けゆく帝都をまっすぐに見据えた。
「り、龍だ――ッ!!」
城門の見張りに就いていた若い騎士が驚愕の声をあげ、鐘を鳴らした。
この持ち場について以来、一度も経験したことのない龍の襲来だった。
白く染まる地平線の上空に、巨大な龍が真っすぐに飛んでくる。
「みんな……起きてくれ……!」
――ごうっ――!
空気を裂く風音が城門上を駆け抜ける。
騎士たちは顔を上げ、立ち尽くした。
朝日に照らされた美しい帝都を、大きな龍の影が覆う。
龍は城壁など気にせず、王宮へ一直線に向かっていた。
「……無理だ……」
その巨体を前に、彼らにできることは何もなかった。
鐘を打つ手が止まり、ひとりの兵が膝をつく。
高塔に掲げられた帝国旗が突風に煽られて大きくはためく。
白の城壁に囲まれた荘厳な王宮は今、警告の笛が鳴り響いていた。
城壁に並ぶ騎士たちは弓を構えて龍に射かけるが、その攻撃は朱の光に包まれた龍に届かず落ちてゆくだけだった。
アズールの巨大な翼が王宮全体を覆い、影が石畳に走る。
朱色の魔光が中庭へ迫り、空気そのものを押し下げるように降下する。
衝撃と共に、石畳の目地から細かい砂が舞い上がった。
その威容に、王宮全体が騒然となっていた。
「神官を呼べ! 陣を!」
「無理です! 陣は一ヶ月がかりで描くもの、間に合いません!」
「普段は威勢のいいことばかり言っているくせに……!」
騎士団長が神官を怒鳴りつけ、女官たちに指示を飛ばす。
その混乱の中、ひときわ静かな足音が廊下に響いた。
王宮の奥から現れたのは、女官長・練 梓珠。
「静まりなさい。陛下はおやすみ中です」
その声が場を貫くと、一瞬で空気が凍りついた。
騎士団長は慌てて膝をつき、状況を報告した。
「龍の襲来、ですか? 咆哮も悲鳴も聞こえませんが……その龍はどこに?」
練梓珠は顔色ひとつ変えず、騎士団長を従えてゆっくりと中庭へと向かった。
朱の光に包まれたアズールは、中庭に静かに降り立った。
その背の双翼がゆっくりと折りたたまれ、風の余韻が衣を揺らす。
大切に抱えていた“宝”をそっと地面へ下ろした。
雨のように降る矢はすべて魔壁に跳ね返されていた。
私は清空と共に、アズールの掌から飛び降りた。
周囲には剣と矢を構え、攻撃を続ける騎士たちがいた。
矢の雨が降る中、清空を一歩後ろに下がらせ、私は一歩前へ出た。
朝日を背に、私は周囲の怒声に負けぬよう声高に告げた。
「我が父、泰威空帝に伝えよ。
我が名は――朱映空。
龍を伴い、今ここに帰還した」
中庭にしばしの静寂が訪れた。
朝の光を受けて、深紅の絹紗が風に揺れ、まるで戦旗のように堂々と翻った。
その裾には色鮮やかな糸で龍と鳳凰が織り出されていた。
見る者すべての目を奪い、眩しさに目をそらす者もいた。
深紅の紗を纏う若き者と空色の龍。
それはまるで神々の降臨のような光景だった。
ある者は跪き、
ある者は恐怖に駆られ――武器を構え直す。
中庭に騎士達の再攻撃の掛け声が上がった。
その時だった。
「やめなさい。不敬ですよ」
凛とした声が場を貫いた。
廊下の奥から、練 梓珠が静かに姿を現す。
深紅の衣が揺れ、場の視線が一瞬だけ奪われる。
しかし、攻撃を構えた騎士たちの手は止まらない。
練梓珠は後ろに従う騎士団長に、その細い指先を真っ直ぐに向けた。
「すべての者を跪かせなさい」
団長は短く息を呑み、そして鋭く振り返って怒声を放った。
「全員、攻撃中止! 武器を下ろせ、跪け!」
その号令が響き渡る。
まだ気が立っていた兵も、団長の視線に押されるようにして弓を下ろし、剣を伏せ、やがて膝をついた。
金属のきしむ音と、鎧が地に触れる鈍い響きが重なり、中庭はようやく静寂を取り戻した。
女官長は私の前に進み出て深く頭を垂れる。
「龍を連れし主よ。
この帝都へ――お帰りなさいませ。
ご帰還、帝国すべての民に代わり、謹んでお祝い申し上げます」
皇子としての帰還を果たした瞬間だった。
ここまでは思惑通り。
しかしこの先は魑魅魍魎溢れる帝都の王宮。
私は練を見つめ、恐れに似た心境を隠して鷹揚に頷いた。




