辿り着いた場所 弐
こんなに弟が頼もしく見えたのは、初めてだった。
普段からそれが続き、いつでも弟の方が優れていて、それを兄が感じているのだとしたら――。
私だって、弟を憎んでしまっていたかもしれない。
強くて戦でも活躍していて、可愛くて人気があって優しくて、他人を認めることもできて。義経殿のようにできた弟がいたならば、恐ろしくなる気持ちもわからないでもない。
どうやら義経殿は、頼朝のことを悪くは思っていなかったようだし。
それどころか、死ぬるその瞬間までを、頼朝へ忠義を誓っていたようにも見えた。
義経殿から頼朝へと向けられる想いは、愛にも似たものだったのかもしれない。
彼は父上のことを愛し、求めていた。二人の愛がもう完全に完成したものだということは、私だってわかっている。
父上の子である私としては、複雑な思いもあるのだけれどね。
ただそれでも義経殿が、愛とすら呼べるほどの忠義を、頼朝に捧げていたことは確かだろう。
あの二人は、敵対するしか道を持っていなかったのだろうか。
父の亡骸を丁寧に腕から下ろし、隣で眠る義経殿のことを見つめる。
それはそれは穏やかで、悲しげな表情をなさっていた。
義経殿……。
これほどまでによくできた人が、どうして死ななければならなかったのだろうか。
平家の横暴については聞いていたし、頼朝だって苦しんできたのだろう。彼は、平和を手にしようとしているのだろう。
だとしても、罪なき義経殿を殺す必要があったのだろうか。
ましてこんな優しい人に、嘘の疑いをかけて。
彼が目指している平和には、争いの種となり得る人物は、存在しないのだろう。
だからそれを全て消し終えたとき、真に平和な世を作り始めるのだろう。
頼朝も悪いことをしているわけではないから、悪と言いきれないのがまた悔しかった。
相手は義経殿を殺した非道の兄だ。これから自分とその家族を殺そうとしている非道の主なのだ。
屈することを告げようとも、死ぬことでしか私たちを信じようとはしないだろう。
そんな人ならば、いっそ悪の中の悪であってくれればよかったのに。
「兄上、死は、恐ろしいですか?」
いつの間にか忠衡が戻ってきていた。
義経殿と父上。仲良く眠る姿を見ていた私に、何を思ったのだろうか。
ゆっくりと、不思議なほどの冷静さでそう問いかけてきた。
「ああ、恐ろしいよ。私はまだ死にたくない」
「一族を殺し、逃げ延びたなら、兄上だけでも救われるでしょうか……」
何を言っているのだろうか。本気な忠衡の目が、私は恐ろしかった。
全てを殺し、私だけ逃げ延びるだなんて、そんなこと……できるはずがない。
私一人が生き残ったところで、なんの意味があるというのだろうか。
「頼朝は奥州藤原氏の勢力を消そうとしているのでしょうから、義経殿を殺したところで、見逃してくれるとは思えません。それでも兄上一人ならば、話は違うのではないかと思いまして」
父の秀衡を、頼朝は消そうとしていた。
実の息子である私のことを、彼が許すとは思えない。
「だれも、逃げぬと言うのです。そして、我々を生かすならば、泰衡様を生かしてほしいと言いました」
この報告が本当であれば、知らず私はそこまでの信頼を得ていたということになる。
全くの自覚がなかったのだから、これもよくできた弟の嘘かと思ったが、もう弟を疑いたくなどなかった。
しかし本当に、これで私が逃げ出してしまってもよいのだろうか。
私に生きてほしいと願っているのならば、逃げたところでだれにも恨まれはしないだろう。
恨まれはしないだろうけれど……、臆病者やと、笑いものにされるのは嫌だ。
「お願いします。兄上、兄上だけでも生きて下さい。一族の滅亡だけは避けたいのです。ですから、兄上……、恥とは思いますが、家のため、父上のために、生きて下さい」
父のために生きる。
何もできなかった私が、父上の役に立てるのだろうか。それならば、その程度の恥は忍ぶほどのことでもない。
快く、むしろ喜んで、受け入れることができるだろう。
「忠衡や、他のみんなではなく、私でなくてはいけないのかい?」
「そうにございます。兄上でなければ、できぬ大役にございます」
乗せられているような気もした。
それでも私は、忠衡の言葉に従おうと思ったのだ。
何もせずに皆殺しにされてしまうくらいならば、悪足掻きとして、試しに私は頼朝に尽くすという道を選んでみよう。
これが失敗したならば、それも仕方のないことといえるだろう。
結局はみんな、殺される運命であったのだから。
「手始めに、この忠衡を斬って下され。くれぐれも、親族は残さないで下さい。頼朝のところででもいい、兄上がまた新たな子を儲け、藤原の血を繋ぐのです」
私は兄なのだ。醜い配役であろうと、私がやるしかない。
汚れ仕事ばかりを、弟に押し付けるわけにもいくまい。
「ここでの全てをなかったことにして、新しい時代を生きて下さい。武士の時代の下で、耐えるしかありません。そうすることでしか、古い時代から新しい時代へ、行くことなどできないのでしょうから」
古い時代から、新しい時代へ……?
私よりももっと、ずっと大きなものを見据えた弟を、私は迷いの中で手に掛けた。
それからはもう、私の意識などあってないようなものであった。
気付けば大切な人も、みんな、倒れていた。そして私の持つ刀から、血が滴り、私は血だらけになっていた。だれの血であるのかさえわからない。
ここまでして、頼朝に従うことを、望む必要があるのだろうか。
悔しかった。力のない自分が、悔しくて、悔しくて耐えられなかった。
こんな私に幸せを望む権利などない。
だけどみんなは、私が幸せになることを望んでくれるのだろう。
それなら私も、みんなが望むことを叶えるために、幸せになることを望もう。きっと、幸せになってみせる。
一言みんなに謝ると、鎌倉を目指して歩き出した。
最後まで歩くことはないだろう。どこかで捕まり、頼朝のところまで連れていかれるに違いない。
どれほど惨めであろうと、頼朝に許しを請おう。しかしそれさえ許されなかったらしい。
「藤原泰衡、討ち取ったり!」
既に頼朝軍に囲まれていたのだ。遠退く意識の中で、勝利の歓声が響いた。
――辿り着いた場所。




