殺したいほどに 源義経
勝った。おれは、兄さまは、勝ったんだ。
自分でもそれなりに活躍をしたと思うし、危く死にかけたこともあったから、この勝利により得た達成感は大きかった。
兄さまも褒めてくれるかもしれない。
そう思ったのだけれど、……どうして。
おれに向けられた視線は、称賛ではなくなにか別のものを帯びていた。
そのとき、おれは気づいた。
想いを伝えて、兄さまをひどく傷つけてしまった。あの日から、きっと兄さまの中におれへの信頼はなくなってしまったのだろう。
だっておれは、兄さまを傷つけた男なのだから。
哀しくなって、右頬に小さく残る、火傷の痕に手を当てた。
「……いやっ!」
兄さまは、はっきりとそういった。
触れようとしたおれの手を、強い力で払いのけた。
いつもの笑顔さえ崩し、涙を溢れさせていた。その雫がおれに触れれば、痛みとともに哀しみやさみしさが走る。
右頬が、燃えるように熱い。
そう思って触れると、ほんとうに燃えていたのだと気がつく。兄さまの魔術だろうか。
あんなにも美しく輝いていた兄さまの炎を、こんなことに使わせてしまうなんて、おれはなんてやつなんだ。
氷で冷やすけれど、そうしていても体中が熱くなって、熱くて熱くて――。
体を冷やそうとしていただけなのだが、いつの間にかおれのまわりが、壁も床も天井も、凍ってしまっていた。
気づいたらもう、兄さまはいなくなってしまっていた。
氷に包まれているのではないか。不安が過ぎったけれど、そんなことはなさそうだ。
まずは一安心するけれど、このままだとおれの氷が、大切なものを切り裂いてしまいそうだった。
氷の中でおれは立ち尽くしていたのだが、そこでふと思ってしまう。
あの悲しげな瞳の中に、映ることはできないのだと。兄さまはおれを視界に映すことを、望まないだろうと。
だからおれは、まちを抜けて走りだした。
だれもいないところに隠れて、ひたすらに笛を吹き、おれはおれを癒やそうとした。
大事な人も守れなくて、それどころか傷つけてしまって。そのくせに、他人を癒やすための笛を、自分のために奏でたのだ。
そうしていると、なにもかもがどうでもよくなっていった。
もう二度と、兄さまに会えなくなってしまっても、それでも構わないって思った。
目を瞑っていたからだれかはわからないけれど、乱暴に運ばれたような感覚があった。どこかに連れていかれているようだった。
しかしこわくもないし、痛くもなかった。
兄さまの痛みを思えば、なにも痛くなかった。
「大丈夫かっ?! 義経、大丈夫か?」
なにも考えずに笛を奏でていたのだが、べんけーの声が聞こえてきてしまう。
どうしてここがわかったのだろうか。
息も切れているようだし、優しいべんけーのことだから、おれなんかのために懸命になってくれたんだろう。
べんけーだって、兄さまのことが好きなはずなのに。
ああ、そうだ。
おれのせいで、おれなんかがいるせいで、べんけーは兄さまを愛せずにいるんだ。
おれがべんけーの自由を縛ってしまっているのか。
優しいふりをして、ほんとうにおれはひどいやつだな。
「頼朝っ! 俺のことは逃がしたはずだろ? 追ってきやがったのか」
最後だけでもべんけーを癒やしたいから、温もりを思い出さないように目は閉じて、優しい音で笛を奏でないと。
自分のためじゃなくて、べんけーのためだ。
そう思うと少し、笛を奏でるのも楽だった。
べんけーはどんな顔をして、おれの笛の音を聞いているのだろう。
あの優しい顔を、力強い手を思いながらそうしてると、”頼朝”という単語が俺の耳に入ってきた。
兄さまが、兄さまがそこにいるの?
この愛は封印すると決めたはずなのに、兄さまがいると思うと、おれは目を開いてしまっていた。
笛を奏でることは止めないけれど、一歩ずつ歩み寄り、美しい兄さまの姿を捉えてしまっていたんだ。
「えっ? うそ……」
声を漏らしてしまったけれど、幸いだれも気づいていないようだ。
笛を奏でることすら忘れて、べんけーを押し倒した兄さまの、見たことのないその笑みに、おれは魅入ってしまう。
美しい。
さっきは会えなくてもいいと思ったのに、そんな姿を魅せつけられたら、……恋心を忘れられないじゃん。
どこまでも意思の弱いおれが、強くも優しくもなれないおれが、悔しかった。
「義経」
おれが見ていることに気がついたらしく、さりげなくふたりきりになってくれると、べんけーは優しくおれの名を呼んだ。
「帰ろうか。頼朝様の所か、秀衡殿の所か。義経が帰りたい所へ、帰ろう」
「まだだよ。まだ兄さまのところに帰らないと、平和な世へと兄さまと行くんだって、決めたから。秀衡さまのところに逃げても、おれは強くなれないでしょ? 大切な人をさらに傷つけちゃうのは、いやだもん」
即答したのは、迷ってしまうからだと思う。
帰りたいところといわれては、甘く温かい秀衡さまのところを、選んでしまうかもしれない。
そうしたらまたおれは弱くなってしまうから、自分に迷う隙を与えないように、べんけーの問いにすぐに答えたんだ。
こうでもしないと逃げてしまうなんて、そんなんだからおれはっ!
「反省は良いが、自責は良く無い。無理するな」
べんけーもちょっと、おれのことを甘やかしすぎだよ。
こんなに優しい人に囲まれていたら、反対につらくなってくるね。
「ありがと。べんけーのおかげで、元気になったよ。帰ろうか、兄さまのところへ」
鮮明に蘇ってくる。
兄さまのことば、べんけーのことば、おれのことば、それらがすべて鮮明に、おれの中に刻まれていた。
頬にこの傷痕が残ったのは、兄さまからの拒絶を表しているからなのだろう。
「大丈夫か? 義経、疲れただろう。部屋で休むと良い」
変わらずに優しいべんけーの声。
「でもおれ、早く……帰りたい。秀衡さまのところに、帰りたいよ」
他の人へ賞賛を述べているのに、おれだけは見えていないかのようだった。
大好きな兄さまにそこまで嫌われているのに、いつまでもこんなところにいたくない。
だからおれは、困らせてしまうとわかっているのに、べんけーにそうわがままを言った。
「そうか。ならば、直ぐに出発しよう」
こんなわがままにも、文句さえ言わないんだ。
優秀なべんけーの努力のおかげで、戦が終わったその翌日には、もうおれたちは出発していた。
たったふたりで、おれがいるべき場所に、戻るために。
もう自由に暮らしていいんだと言っているのに、べんけーはおれと一緒に出発した。
どうやら彼は、奥州まで着いてくるつもりらしい。
もしかしたら、おれと、べんけーと、秀衡さまと、兄さまが作る平和のもとで、暮らしていけるんだろうか。
そう思うと、自然と足取りは軽くなった。
世界はそんなに都合よく作られていないと、おれは知っていたはずなのに。
「義経よ、頼朝様からの追っ手が在るらしい。反乱を企てているとして、御主を殺す心算との事」
かなりの距離があったため、なにに遮られるでもなく歩いていたのだが、奥州に行くには時間がかかる。
出発してから数日したころ、べんけーからそんな報告が。驚くべきことである。
どうして兄さまが? おれが反乱なんて、ありえないことなのに。
そこまで信頼を失ってしまっていたのかと、一気に悲しみに襲われた。
「話を聞いてくれる?」
「否。話等聞かぬだろう。目的は御主を殺す事、だろうから」
戦うしかないと、そういうことなのだろうか。
平和を手に入れたと思ったのに、なんで戦わなくちゃならないんだろう。兄さま……。




