殺したいほどに 弐
本当に優しい人だ。
どうしても思ってしまう。弁慶がほしい、私の手に入れたい、私だけのものになってほしい、私だけを愛してほしい。
溢れてくる欲はあまりに醜く、弁慶に相応しくないことを告げていた。
「無礼だなんて、とんでもないよ。私の方こそ、自分がやられたら嫌なことを、大好きな人にしてしまうなんて、反省している」
弁慶の頭を上げさせてそう言うと、私はもう弁慶に帰ってもらおうと思った。
それなのに、さようならを言うことができなかった。優しく微笑んであげることができなかった。
弁慶が傍にいてくれているのに、私から追い出すことなんてできなかった。
「大好きな、人。頼朝様の大好きな人が、某……」
何かを呟いていた弁慶だけれど、突然何を思ったか、立ち上がって私のことを抱き締めた。
「えっ? どうしたの、さ。ねえ、弁慶? 何をしているの?」
大きな体に包まれると、今までにないくらいに安心することができた。
臆病な私でも、恐怖心が消えていってしまうようだった。
どうして断ったくせに、こんなことをするんだよ。これも優しさのつもりなの?
煽るだけなんて、優しさじゃないよ。全くする気がないのなら、こんなことをして誘うなんて、酷なだけでしょ。
でも欲情しているのは私だけじゃないらしいね。
「謝って済む事では無いと、理解はして居ります。然し、某は頼朝様を欲してしまうのです。今だけ、抱き締めさせて下さい」
「……うん」
弁慶自身の膨らみを、服越しに下腹部の辺りに感じていられた。
それは私を求めている証拠に思えて、喜びから肯定の意を込めて頷いてしまっていた。
「失礼致しました。義経に心配を掛けられませんし、頼朝様に御迷惑をお掛け致す事も、もう出来ませぬ。某は帰らせて頂きます」
抱き締められていたその時間は、とても幸せな時間だった。
憧れの父上が私を褒めてくれた、あの日をも超える喜びだったかもしれない。
それでも幸せとは刹那的なもので、弁慶は愛しい声でそう言うと、その腕から私を解放し部屋から去っていってしまった。
部屋を出るその背中は堂々としていて、呼び止めることなど許さなかった。
やはり弁慶が本当に求めているのは義経なのだと、痛いくらいに思い知らされたよ。
私とは違って、義経は弁慶と躰を重ねることなど望まないだろう。私に告げた好意だって、あくまでも兄として信頼しているというだけに決まっている。
純粋なままに生きる義経に、弁慶は性欲を抱けなかったんだ。
だから愛しい義経の代わりに私を抱き締めたんだろう?
清らかな存在に見えるだって? そんなの、絶対に嘘だ。私の過去を知っているのならば、軽蔑しているに違いない。
散々に汚された私ならば、抱き締めるくらいで何も変わりはしないと、私を抱き締めたんだろう。
それ以上は気が引けたのか? それとも、それ以上は、私に義経の代わりが務まらないと言いたいのだろうか。
弁慶も感じてくれていたはずなのに、どうしてなのさ。
置いて行かないでよ。私を一人にしないでよ。
仕事をすることで弁慶のことを紛らわそうとしていたのに、これじゃあもう無理だよ。弁慶のことしか考えられない。
疼く躰は弁慶を求め、苦しさに蹲る私に淫夢を見せた。
どんなに求めても手に入らないものだって、夢の中なら私が手にできるから。
努力をすることもせず、卑怯だよね。
翌日からは、源頼朝としての姿を取り戻し、身嗜みも整えたしちゃんと常に微笑んでいた。
たった一日の、たった数分、弁慶と抱き合ったこと。その幸せと、捨てられたという悲しさは、相変わらず私を狂わせようとする。
気を抜けば、いつも私を苦しめる。
だけど私は源頼朝として、源氏の棟梁として、兵を率いて平家を追い詰めた。
「この戦いで、きっと平家を滅亡させられると思う。そこで義仲にお願いがあるんだ」
最後の戦いを前にして、私はいるはずのない人――義仲に声を掛ける。
もう義仲は私が殺したのだと、そう伝わっていることだろう。それはもちろん、私が流した嘘の情報だ。
宴会の後、弁慶を追ったときに、義仲と会ってしまった。あれは、予想外であり計算外の出会いだった。それでもその後の努力により、なんとか義仲を騙すことができたんだ。
案外、簡単な男だったよ。
景時のところの兵に、平家の兵のふりをしてもらう。そして彼らに義仲を何度か半殺しにしてもらった。
そこを私が助けるんだ。彼が信じてくれるまで。彼が私に感謝をしてくれるまで。
かなり古い単純な手だから、さすがに無理かと心配したんだけど、ここまでとは思わなかったよね。
「なんでも俺に頼ってくれ!」
元気に答えてくれる義仲に、私は最後の願いを告げることにする。
今までも何度か義仲にお願いをしたことがあったが、それも全て今回へと繋げるためのこと。
「義仲の手で、平家を滅ぼしてくれない? このままだと義経が全ての手柄を得、彼は権力をも手にする。その後、義経が何をするかは考えなくてもわかるよね」
消してやる。
平家も、義経も、義仲も、忌々しい奴らはみんな消し去ってやる。
目障りだ! この戦いで消し去って、私の天下を掴み取ってみせる!
「場合によっては、矛先を義経に向けてくれても構わない。私は義仲を信じているから、お願いねっ」
愛を振りまく私らしい笑顔でそう言えば、義仲はそれがなんでもないことかのように、迷わず首を縦に振ってくれた。
でも一度、義仲は義経に負けている。
今回は義仲に勝ってもらわなくては困るから、確実に義経を倒せるだけの兵力を与えなければ。
まずは義仲が生きていることを知る、景時のところの兵には協力してもらおう。
他はどうしようか。
できるだけ、これが私の思惑と知る人は少ない方が良いに決まっている。絶対的な信頼を寄せることができる、そんな人でなければならない。
義仲が義経と平家を倒し、私が義仲を処刑する。
全てを私の計算の通りに進められたなら、そうなるはずなのだ。
情けを掛けて密かに逃がしたのだが、兵を集めて義仲が義経への恨みを果たした。
京に入ったときに処刑せず、逃がしてしまった私の判断が間違っていた。私のせいで義経は死ぬこととなってしまった。そう泣けば良いだろう。
しかしそのためには、まず義経を殺せなければ意味がない。
どうすれば……。
圧倒的に兵力の差があれば、さすがの義経とはいえ敗れてくれるだろう。
とはいえ、ろくな兵も与えずに義経を戦場へ送ることなどできようか。
不自然に思われてしまったら、作戦を実行するのが一気に難しくなる。
これが最後だと思えば思うほど、慎重に進めなければいけないと思う。今までの努力のその結果が、決まってしまうのである。
失敗なんてできない!
父上、私は父上の夢を、必ずここで叶えてみせます。
そうしたらまた、私を褒めて下さい。父上に言われた通り、私は必死に源氏を守って参りました。
だから兄ではなく、弟でもなく、私だけを見て頂けますか。
枕元に父上が立って下さることはあれ以来ないが、水晶玉を眺めていると、父上が私に微笑みかけているように思えた。私を応援しているようだった。
小さいけれど美しく輝く、父上から私へ下さったもの。大切なお守り。
どんな災厄からも、私を守ってくれていたもの。
「頼朝様! 義経様の活躍により、平家のものは次々に入水、我々の勝利です」
水晶玉を握り父上への想いを馳せていると、そんな報告があった。
やがて笑顔の義経が帰ってくる。その笑顔が憎く、恐ろしかった。
――殺したいほどに。




