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愛の理由  作者: 桜井雛乃
大好きだから
23/46

遠ざかる花

 二日酔いではあっても、義経の実力は変わらなかった。

 此の様子なら、心配する必要は無いだろう。

 其れよりも今は、頼朝様の事である。あの御方は、義経の事を疑って居られる。

 素直で無邪気な義経の事を、疑うなんて許せなかった。義経に迷惑を掛けたくは無いのに、頼朝様に言い返してしまった。

 某の行動により、頼朝様は更に義経を疑うかも知れ無い。


 然し、人を信じぬ頼朝様の事を、責める事等出来まい。

 風呂に入れた時、確認した傷痕。彼がどんな時を生きて来たのか、苦しい位に伝えてくれた。

「べんけー、そろそろ休もうか」

 俯く某に気を遣ってか、義経は手を差し伸べてくれる。

 こうも無邪気で優しい彼を、どうして疑えようか。

 普通の人間ならば、普通に生きて来た人間ならば、そんな事は出来ないだろう。某の様な鬼さえ、包み込んでくれる此の優しい彼を。

 其れでも、其れにしても、頼朝様を責める事等出来ない。

 平家の人は頼朝様を苦しめたのだと、義経は言う。彼はきっと、頼朝様がどうされて来たのか、知らないのだろう。

 あんな躰にされていようとは、思っても居ないのだろう。

「どうしたの? 哀しいの? それだったら、泣いたらいいよ。おれが付き合ってあげるから」

 無邪気な瞳を某に向けた義経は、背中を擦って微笑んだ。小さな此の手の大きさは、某に甘えを生じさせた。

 優しさに溶かされて、一筋二筋と、頬を雫が伝っていた。

 氷を放つ義経の手は、何時も何時でも温かい。温かくて、甘くて優しくて。

 頼朝様の冷たい心を、義経の温もりで溶かせたなら――。


 某は義経に仕える者。義経にのみ、仕える者。

 其れでも、頼朝様の瞳を、忘れる事も出来ぬのか。

「そんなに哀しいんだったら、むりして戦わなくてもいいんだよ? 強いべんけーが泣くなんて、なにがあったの?」

 優しい義経の言葉に、某は更に涙を溢れさせてしまった。

 義経の瞳に映る輝き。頼朝様の瞳が映す絶望。

 揺れる瞳の色が、兄弟でも全く異なる時を過ごして来た事を、痛い程に物語っていた。

 二人共苦しみを生きて来たと言う事も……。

「違う。戦を恐れるでは、無い。某は、某は……義経が……頼朝様が」

 上手く喋れぬ某に、義経は優しい眼差しを向けてくれる。

「おれと、兄さまのことを想ってくれているのは、知っているよ。でもそのせいで、べんけーが哀しむのは変だもん。だから、むりはしなくていいの」

「違う。某は、義経の力になりたい」

 泣き姿を義経以外の誰かに見られても困るので、義経の部屋に移動した。

 すると先程以上に義経を感じ、涙が溢れた。

 完全に情緒不安定だな。義経は優しいが、対応に困っている事だろう。

 感情を捨てた筈の鬼が、何故泣くか。何故怒るか。何故、哀しむか。何故、何故なのか。

 某は人間になれた、そう考えて良い物か。

「そっか。おれの力になってくれようと、しているんだね。だけどだからこそ、べんけーはむりをしすぎなの。おれだってべんけーが大切なの、わかってよ」

 義経の言葉を此処迄喜べるのは、某が人間になれた、其の証なのだろうか。

 彼の優しさ故に、混乱しそうだった。

 本当に無意識なのかと疑いそうになる程、彼の虜になるが、彼の無垢な瞳は揺るぐ事も無い。

「あ、そうだ。べんけーのほうがおれより賢いから、相談に乗ってほしいんだよね。すてきなべんけーだから、みんなに好かれるべんけーだから、教わりたいんだ」

 突然の言葉に、驚いて義経の方へ顔を向ける。

 此れは、某の気を紛らわせ、涙を止めようとしての言葉だろう。

 そうして義経の意図を読もうとする、自分が何より憎かった。

 優しさは優しさとして、言葉は言葉の意味で、素直に受け取れば良い物を。

「この調子なら、たぶん、兄さまは勝てると思うの。はじめに負けたことさえ、兄さまの計算のうちだったんじゃないかって、思っちゃうくらい。だから兄さまに任せておけば、負けることなどないと思う」

 何の話を始めたのだろう。

 敗北さえも計算と、頼朝様が騙す様な真似をしたと?

 彼ならしそうな所だが、義経がそんな事を言うとは。

 疑って居られると? 其れ共、義経の事も頼朝様の事も、疑って居るのは某の方なのだろうか。

「どれくらいかかるかわからないけど、そうしたら秀衡さまのところに帰ろうと思うんだ。秀衡さまなら、いつだっておれのことを待っていてくれるって、ことばだけじゃなくてほんとうに待っていてくれるんだって、わかるんだ。だけどそのときに、おれはどんな顔すればいいのかなって。ねえべんけー、再会のときはなにをしてなにを言ったほうがいいのかな」

 幾ら義経でも、本気で戦中に戦後の事を考えては居ないだろう。

 勝てる保証等無い。生きて帰れる保証等無い。

 なのに、帰ってからの事を考えるなんて、戦を甘く見ている。

 過去を見る者は、間違えなく死すだろう。未来を見る者は、現在を見つめる者には勝てないだろう。未来を見るべきなのは、守られる立場に有る者のみだ。

 一番上に立つ者や、参謀ならば、未来を見え無くてはならない。

 でも、義経はそうじゃない。

 将に過ぎない。頼朝様にとっては、弟でもあるが、駒としか思っていない可能性も彼なら考えられる。

 勝利の為ならば、捨て駒にされる事だってあるかも知れ無い。

 嗚呼!

 疑う様な事しか、思い付かなかった。

 義経の無邪気さを、素直さを、疑うのは頼朝様では無く某なのか。

 混乱する思考を、昨日の酒の所為にしてしまいたかった。生憎、酔う程も飲んでいないが。

「義経は、義経でいれば良かろう。秀衡殿は、其の儘の義経を望む」

 疑う気持ち等払拭し、某は彼の質問に答えた。

 彼が某の涙を望まぬと、理解したからそちらも何とか堪える。泣けば良い等と、其の様な事を言いよって。甘えてしまうでは無いか。

 甘えを誘うのも、罪だ。

「そうかな。ああ、はやく秀衡さまに会いたいな」

 某の想いを知ってか知らずか、義経は相変わらずの無邪気さだ。

 然し此の言葉は、心から溢れた言葉なんだと思った。

 優しくて人を傷付けられ無い。こんな彼に、戦は無理だったのだ。

 何度も秀衡殿の名を呼ぶ彼を宥め、秀衡殿を最後に説得したのは某だ。其れなのに、今更そう思ってしまった。

 義経は頼朝様に戦う事を望んだ。

 其の彼の気持ち、想いを、尊重する事は彼の為と言えるのだろうか。

 取り返しの付かない所迄来て、某は様々な事を考えてしまう。もう、遅いのに。

 考えた所で、後悔した所で、今から選び直す事等出来ないのに。

 分かれ道を通り過ぎて、一直線の道の上で、何処へ進むか迷っている。

 まだ、来た道を戻って、もう一つの道を選ぶ事が出来る距離。

 其れでももう、先を進んだ者に追い付く事は出来ない。

 東の道の最後も、西の道の最後も、見れなくなる事だろう。

 其れならば、此の儘選んだ道を進むより他無いのだろう。

「おれさ、兄さまのことが好きなの。でもやっぱり、秀衡さまのことも好き。兄さまへの想いと秀衡さまへの想い、どっちの好きがどんな好きなのか、よくわかんないんだよね」

 溜め息混じりに恋の相談をして来る義経は、本当に……今の状況を理解していないんだろうか。

 強さ故に、身の危険を感じた事が無いのかも知れ無い。

 そうでなければ、此の無防備さを説明出来無い。

「だけど兄さまの切なげな表情にも、秀衡さまのきれいな涙にも、胸が痛んだ」

 妙に大人びた表情で、呟く義経は誘惑しているとしか思え無い。実際、十分な大人ではあるんだが。

 しかし義経の眼に、頼朝様の切なげなあの表情が、映っていた事が意外である。

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