遠ざかる花
二日酔いではあっても、義経の実力は変わらなかった。
此の様子なら、心配する必要は無いだろう。
其れよりも今は、頼朝様の事である。あの御方は、義経の事を疑って居られる。
素直で無邪気な義経の事を、疑うなんて許せなかった。義経に迷惑を掛けたくは無いのに、頼朝様に言い返してしまった。
某の行動により、頼朝様は更に義経を疑うかも知れ無い。
然し、人を信じぬ頼朝様の事を、責める事等出来まい。
風呂に入れた時、確認した傷痕。彼がどんな時を生きて来たのか、苦しい位に伝えてくれた。
「べんけー、そろそろ休もうか」
俯く某に気を遣ってか、義経は手を差し伸べてくれる。
こうも無邪気で優しい彼を、どうして疑えようか。
普通の人間ならば、普通に生きて来た人間ならば、そんな事は出来ないだろう。某の様な鬼さえ、包み込んでくれる此の優しい彼を。
其れでも、其れにしても、頼朝様を責める事等出来ない。
平家の人は頼朝様を苦しめたのだと、義経は言う。彼はきっと、頼朝様がどうされて来たのか、知らないのだろう。
あんな躰にされていようとは、思っても居ないのだろう。
「どうしたの? 哀しいの? それだったら、泣いたらいいよ。おれが付き合ってあげるから」
無邪気な瞳を某に向けた義経は、背中を擦って微笑んだ。小さな此の手の大きさは、某に甘えを生じさせた。
優しさに溶かされて、一筋二筋と、頬を雫が伝っていた。
氷を放つ義経の手は、何時も何時でも温かい。温かくて、甘くて優しくて。
頼朝様の冷たい心を、義経の温もりで溶かせたなら――。
某は義経に仕える者。義経にのみ、仕える者。
其れでも、頼朝様の瞳を、忘れる事も出来ぬのか。
「そんなに哀しいんだったら、むりして戦わなくてもいいんだよ? 強いべんけーが泣くなんて、なにがあったの?」
優しい義経の言葉に、某は更に涙を溢れさせてしまった。
義経の瞳に映る輝き。頼朝様の瞳が映す絶望。
揺れる瞳の色が、兄弟でも全く異なる時を過ごして来た事を、痛い程に物語っていた。
二人共苦しみを生きて来たと言う事も……。
「違う。戦を恐れるでは、無い。某は、某は……義経が……頼朝様が」
上手く喋れぬ某に、義経は優しい眼差しを向けてくれる。
「おれと、兄さまのことを想ってくれているのは、知っているよ。でもそのせいで、べんけーが哀しむのは変だもん。だから、むりはしなくていいの」
「違う。某は、義経の力になりたい」
泣き姿を義経以外の誰かに見られても困るので、義経の部屋に移動した。
すると先程以上に義経を感じ、涙が溢れた。
完全に情緒不安定だな。義経は優しいが、対応に困っている事だろう。
感情を捨てた筈の鬼が、何故泣くか。何故怒るか。何故、哀しむか。何故、何故なのか。
某は人間になれた、そう考えて良い物か。
「そっか。おれの力になってくれようと、しているんだね。だけどだからこそ、べんけーはむりをしすぎなの。おれだってべんけーが大切なの、わかってよ」
義経の言葉を此処迄喜べるのは、某が人間になれた、其の証なのだろうか。
彼の優しさ故に、混乱しそうだった。
本当に無意識なのかと疑いそうになる程、彼の虜になるが、彼の無垢な瞳は揺るぐ事も無い。
「あ、そうだ。べんけーのほうがおれより賢いから、相談に乗ってほしいんだよね。すてきなべんけーだから、みんなに好かれるべんけーだから、教わりたいんだ」
突然の言葉に、驚いて義経の方へ顔を向ける。
此れは、某の気を紛らわせ、涙を止めようとしての言葉だろう。
そうして義経の意図を読もうとする、自分が何より憎かった。
優しさは優しさとして、言葉は言葉の意味で、素直に受け取れば良い物を。
「この調子なら、たぶん、兄さまは勝てると思うの。はじめに負けたことさえ、兄さまの計算のうちだったんじゃないかって、思っちゃうくらい。だから兄さまに任せておけば、負けることなどないと思う」
何の話を始めたのだろう。
敗北さえも計算と、頼朝様が騙す様な真似をしたと?
彼ならしそうな所だが、義経がそんな事を言うとは。
疑って居られると? 其れ共、義経の事も頼朝様の事も、疑って居るのは某の方なのだろうか。
「どれくらいかかるかわからないけど、そうしたら秀衡さまのところに帰ろうと思うんだ。秀衡さまなら、いつだっておれのことを待っていてくれるって、ことばだけじゃなくてほんとうに待っていてくれるんだって、わかるんだ。だけどそのときに、おれはどんな顔すればいいのかなって。ねえべんけー、再会のときはなにをしてなにを言ったほうがいいのかな」
幾ら義経でも、本気で戦中に戦後の事を考えては居ないだろう。
勝てる保証等無い。生きて帰れる保証等無い。
なのに、帰ってからの事を考えるなんて、戦を甘く見ている。
過去を見る者は、間違えなく死すだろう。未来を見る者は、現在を見つめる者には勝てないだろう。未来を見るべきなのは、守られる立場に有る者のみだ。
一番上に立つ者や、参謀ならば、未来を見え無くてはならない。
でも、義経はそうじゃない。
将に過ぎない。頼朝様にとっては、弟でもあるが、駒としか思っていない可能性も彼なら考えられる。
勝利の為ならば、捨て駒にされる事だってあるかも知れ無い。
嗚呼!
疑う様な事しか、思い付かなかった。
義経の無邪気さを、素直さを、疑うのは頼朝様では無く某なのか。
混乱する思考を、昨日の酒の所為にしてしまいたかった。生憎、酔う程も飲んでいないが。
「義経は、義経でいれば良かろう。秀衡殿は、其の儘の義経を望む」
疑う気持ち等払拭し、某は彼の質問に答えた。
彼が某の涙を望まぬと、理解したからそちらも何とか堪える。泣けば良い等と、其の様な事を言いよって。甘えてしまうでは無いか。
甘えを誘うのも、罪だ。
「そうかな。ああ、はやく秀衡さまに会いたいな」
某の想いを知ってか知らずか、義経は相変わらずの無邪気さだ。
然し此の言葉は、心から溢れた言葉なんだと思った。
優しくて人を傷付けられ無い。こんな彼に、戦は無理だったのだ。
何度も秀衡殿の名を呼ぶ彼を宥め、秀衡殿を最後に説得したのは某だ。其れなのに、今更そう思ってしまった。
義経は頼朝様に戦う事を望んだ。
其の彼の気持ち、想いを、尊重する事は彼の為と言えるのだろうか。
取り返しの付かない所迄来て、某は様々な事を考えてしまう。もう、遅いのに。
考えた所で、後悔した所で、今から選び直す事等出来ないのに。
分かれ道を通り過ぎて、一直線の道の上で、何処へ進むか迷っている。
まだ、来た道を戻って、もう一つの道を選ぶ事が出来る距離。
其れでももう、先を進んだ者に追い付く事は出来ない。
東の道の最後も、西の道の最後も、見れなくなる事だろう。
其れならば、此の儘選んだ道を進むより他無いのだろう。
「おれさ、兄さまのことが好きなの。でもやっぱり、秀衡さまのことも好き。兄さまへの想いと秀衡さまへの想い、どっちの好きがどんな好きなのか、よくわかんないんだよね」
溜め息混じりに恋の相談をして来る義経は、本当に……今の状況を理解していないんだろうか。
強さ故に、身の危険を感じた事が無いのかも知れ無い。
そうでなければ、此の無防備さを説明出来無い。
「だけど兄さまの切なげな表情にも、秀衡さまのきれいな涙にも、胸が痛んだ」
妙に大人びた表情で、呟く義経は誘惑しているとしか思え無い。実際、十分な大人ではあるんだが。
しかし義経の眼に、頼朝様の切なげなあの表情が、映っていた事が意外である。




