誘われる蝶 弐
こうして笑っていてもいいのかな。
つい先日はあんなにもこわい思いをした。それなのに、こうして笑っていてもいいのかな。
ちょっとだけそう思ったけれど、だからこそ笑わないといけないのかなって。
「べんけー、おれさ、わかんないんだよね。戦の勝敗は聞かされるけど、聞かされるそのときまでわかんないなんて、きっとおかしいじゃん」
氷を溶かしてべんけーを起き上がらせると、おれはそう相談した。
おれよりもべんけーのほうが、あたまがいいもんね。
「其れが頼朝様の遣り方ならば、仕方無かろう。我々は、頼朝様に着いて行けば良いのだろう?」
だから、べんけーがそう言うなら、おれは気にしないんだけど。
兄さまにすべて任せきりで、いいのかな。
おれだって、兄さまのことを信じていないわけじゃない。それでも、ひとりですべてを背負わせてしまうのは、ちがうと思う。
これ以上、がんばることないと思うんだよね。
それとも、おれがおかしいのかな。
兄さまはおれが思っているよりも、ずっと尊い存在なんだって、景時だって言っていた。
だけどこのままでいいのかな。
「義経が心配する事でも無い。義経は頼朝様に仕える身だ」
いつまでもおれが納得できずにいたせいだろうか。
あたまをなでて、べんけーはそう言った。するとおれは、そのきもちよさで思考を停止させてしまう。
それがわかっていてやるんだから、べんけーもずるいよね。
「兄さまが決めたことに、従うだけだよね。そうだね」
弟とはいえ、おれは兄さまに仕える身だ。べんけーの言うとおりだよね。
そう思って、おれはつぶやいた。
「義経は、それに不満があるのか?」
いきなり、うしろから聞こえてきた声。
そこに立っていたのは、兄さまなのであった。
「私に従うことに、義経は不満があるのかと、そう訊いているのだ」
どうして兄さまがこんなところにいるのだろう。
それもふしぎだが、そんな場合じゃない。
「不満なんて、あるわけないじゃないですか」
あわててそう言うけれど、兄さまは疑っているみたい。
「頼朝様は、義経の事を御疑いなのですか? 彼は頼朝様の事を心配して、頭を悩ませていたのです。其れをっ!」
怒ってべんけーが兄さまになにか言おうとしていたので、おれはそれを手で制した。
おれのためを想ってくれるのはうれしいけど、兄さまに疑われるようなことを言ってしまった、おれのほうがいけないもんね。
それにべんけーにだって、兄さまのことを否定してほしくない。
「私のことを心配していた? どうして私が義経に心配されなくてはならないのだ」
こわい。兄さまもべんけーも、なんだかこわい。
そう思ってしまったけれど、このふたりはおれがとめないとだって思うから。
「けんかしないで。おれはただ、兄さまのために、兄さまの役に立つ存在になりたいってだけなの。兄さまに必要としてもらえれば、おれはそれでいいんだ」
ふたりの間に立って、おれはそう言った。
すると、両方から怒鳴るような声が聞こえてくる。
「某は、義経を其の程度の男にしたく無い!」
「そう言って私のことをいつか捨てるんだろう?!」
ふたりを怒らせるようなことを、おれは言ってしまったんだろうか。
なにがいけなかったのかもわからなくて、黙ってうつむいてしまう。
兄さまは、おれのせいで怒っているんだ。べんけーは、おれのために怒っているんだ。
それだったら、おれがふたりの怒りを鎮めなくちゃ。
「おれは兄さまが望む未来の、そのとなりにいたいだけ。べんけーが描く理想のおれにはなれないし、兄さまのところをおれから離れることなんてない」
おれが必死に訴えていると、どちらからか「ふっ」と笑い声があった。
「やはり義経には敵わないな。また怪しい言動があれば別だが、今は義経のことを、信じるとするよ。私のことを支えておくれよ? 疑ったりして悪かった」
去っていった兄さま。そのあとには、花の香だけが広がっていた。
「某も義経に理想を押し付けようとして、苦しめていた」
「べんけー、謝っちゃだめだよ。だってべんけーは、おれに期待を寄せてくれていたんでしょ? それだったら、謝るようなことじゃないもん」
おれはこうして、みんなで笑っていられればいいんだ。
兄さまも、べんけーも、ほかのみんなも、笑っていられればそれでいいんだ。
もし笑い合えるならば、平家とだってむりに戦わなくたっていいと思うくらいだもん。
だけど平家は兄さまを苦しめて、笑顔を奪った。だからおれは、平家討伐に立ち上がったんだ。兄さまのもとへ、戦いにきたんだから。
秀衡さまとの生活を捨ててまで、ここに戦いにきたんだから。
そうだよね。戦いに勝つことに夢中になっていたけれど、おれは兄さまの笑顔を取り返すために戦っているんだ。
平家を退治することが目的じゃない。
笑い合いたい。笑い合えるならば、それでいいんだ。
どうしておれは兄さまのやり方に疑問を抱いていたんだろう。兄さまがそうしたいのならいいじゃないか。
兄さまの笑顔のために、おれは戦っている。
秀衡さまを悲しませて、秀衡さまじゃなくて兄さまを選んだんだ。
これでおれが兄さまの笑顔を守れなかったなら、秀衡さまを傷付けただけになってしまう。
負けてしまったら、すべてがむだになってしまうのだ。
おれのたいせつな、大切なものがすべて……。
兄さまの努力も、兄さまの忍耐も、兄さまのなみだも。秀衡さまの決意も、秀衡さまの優しさも、秀衡さまのなみだも。
そう思うと、やはりおれはがんばらなくちゃならない。
おれに寄り添ってくれるべんけーは、おれに巻き込まれなくちゃいけない。
だけどべんけーだって、おれと同じきもちなんだと思う。
おれが兄さまを大切に想うように、べんけーもおれを大切に想ってくれている。
だから、おれのためならばきっとなんでもしてくれる。
その覚悟を、べんけーはもう持っているんだと思う。
それだったら、おれはべんけーのことを信じるしかないよね。
遠慮ばかりしていても、べんけーはさみしく思っちゃうんじゃないかな。
「ねえべんけー、どこまででも、おれに着いてきてくれるよね?」
「当然だ。義経が行くのならば、地獄でさえも某は着いて行く。義経が某を斬る日まで」
もう、べんけーったらいじわるだよね。
おれがべんけーを斬るなんて、そんな物騒なことを言ってどうするつもりなのさ。
からかっているのだと思って、おれはそう言い返そうとするけれど、べんけーの瞳はまっすぐだった。
まるで、おれに斬られたいとでも思っているようである。
そんな……、どうしておれがべんけーのことを斬らなくちゃなんないんだよ。
「ずーっと、着いてきてくれるんだね。ありがと」
触れずに流していい内容じゃなかった気もするけど、おれはそうとだけ言って、第二戦を始めることにする。
今度もべんけーに圧勝してやるんだから。
もっと強く強くなって、だれにでも余裕で勝てちゃうようになるんだから。
そしておれは、だれからも頼られる英雄になるんだ。
そうすれば兄さまも認めてくれるはず。兄さまも信じてくれるはず。兄さまもおれを、頼ってくれるはず。
そこまで考えて、やっぱりおれは兄さまのことばかりだと思った。
兄さまの笑顔を守ることだけが、おれの目的なんだよね。兄さまに愛してもらいたい。それがおれの願いなんだ。
おれのすべては兄さまが中心に回っているんだね、悲しいほどに。
きっと考えても考えなくても、兄さまの命令に逆らうことなんてできないんだろう。
――大好きだから。




