誘われる蝶
心配だな。兄さま、どうしたんだろう。
それにべんけーも、いきなりお風呂に入れる役割を、なんてどうしたんだろう。
どうするつもりなの? べんけーはおれのことを想ってくれているし、兄さまを好意的に見ているようにも思えなかった。
それなのにべんけー、どうしたんだろう。
ちょっと怪しんじゃっているおれがいて、それはいけないと疑念をはらう。
「景時、兄さまを助けてくれてありがと」
これ以上べんけーのことを考えていると、思考はさらに悪いほうへと行ってしまいそうだった。
だから兄さまを連れてきてくれた、梶原景時にお礼を言うことにした。彼がいなかったら、兄さまがどうなっていたかわからない。
そもそも、兄さまはどうしていなくなっていたのだろう。
「誰も頼朝様をお守りしないから、こんなことになったのだ。この景時も含めて、頼朝様をお守りできなかった。お礼など言われる資格もないし、お礼など言う資格もない」
そんなことを言われても、景時が兄さまを助けてくれたのはほんとうだし。
景時って、兄さま想いにもほどがあるよ。
ちょっとくらい、気を抜いてもいいのに。
そりゃまあね、気を抜いていたせいで、兄さまが傷ついたりするようだったらそれは絶対だめ。
でも景時は、がんばりすぎかな。
「ごめん。でも、兄さまは景時になにを言っていた? お礼くらい、言ってくれるんじゃないかな」
こんなことを言っていたら、もっと景時に怒られちゃうかもしれない。
それでもおれは、景時の厳しさが、兄さまの優しさを否定しているみたいでちょっといやだった。
だからおれは、そう言ったんだ。
「義経殿がお思いであるそれ以上に、頼朝様は尊い存在なんだ。兄だからとはいえ、気軽に兄と呼んでいい存在ではない。頼朝様は、景時のことを信じて下さっているのだから、景時も頼朝様をお守りしなければいけないんだ」
わからないよ。
兄さまが心配だった気持ちはわかるんだよ? だから、今の景時が少し動揺しているのも、わからないでもない。
でもどうして、景時はここまで兄さまのことを。その気持ちがわからないよ。
兄さまは大切な存在だし、守らなくちゃいけないのはわかる。
尊い存在だというのもまあわかるんだけど、兄のことを兄と呼んでなにがいけないのだろうか。
「景時殿も義経殿も、程々になさい。頼朝様はご無事だったのだから、それで良いではありませんか」
怒られてしまったから、もうこれくらいにしておくしかないかな。
ただ景時とは、どこか話が合わないんだよね。
おれだって兄さまのことは想っているし、景時が兄さまのことを想っているのもわかる。
そこは合っているのに、どうしてこんなにも話が合わないんだろうね。
「みんな、すまない。せっかく勝利したのだから、お祝いの酒でも酌み交わそう」
べんけーに抱きかかえられて戻ってきた兄さまは、みんなの中心に座らされると、弱々しい声だけれどそう言った。
そうだ。兄さまがいなくなっていて、とても負けた気になっていたけれど、戦の結果としては勝利していたんだ。
あの平家に、勝利することができたんだ。
これはおめでたいことだもんね。
兄さまがそうしようと言っているのだから、遠慮なくお祝いしないとだよ。
「義経、おいで」
みんなのように騒ぎはしないけれど、みんなの中心で酒を飲んでいた兄さまが、おれのことを呼んでくれた。
兄さまからおれのことを呼んでくれることは少ないので、おれは喜んで兄さまのところへ行く。
「私のために随分と働いてくれたそうではないか。義経、今日は私がお酒を注いであげるよ」
酒のせいか少し顔を赤くしながら、兄さまはおれにそんなことを言ってくれた。
兄さまに酒を注いでもらうなんて、おれはもううれしくてうれしくて。
「ふふっ。義経は素直ないい子だね。これからも私のために、戦ってくれるかい?」
「はい」
もちろん、言われなくてもそうするに決まっている。
そうするつもりのない平家のものたちだとしても、兄さまにこう言われてしまえば、だれでも従ってしまうと思うけどね。
だってこれで、だれも「いいえ」なんて答えられるはずもない。
「みんなも、私のために戦ってね。私が平和を手にする、その日まで」
兄さまが平和を手にする日まで、か。
しかしどうして兄さまは、こんなにも念を押すように言うのだろうか。
おれのことを、おれ以外にも、みんなのことを信じきれていないような気がする。
兄さまは信じてくれているのだろうけれど、どこか疑っている。
だから何度も、何度も裏切るなと繰り返す。
だまされることも多かったんだろう。兄さまはもう、だれを信じることもできなくなってしまったのだろうか。
そんなことはないはずだ。
「兄さまはなにを言わなくとも、兄さまのためにだれも戦いますよ」
少し不安そうにしていたので、おれは兄さまにそう言った。
だけど兄さまの表情は少しだけ悲しそうな笑顔のままだった。
「……わかっているよ、それくらい」
小さな声でつぶやいた兄さまは、ときどき見せるあのちょっとこわい兄さまの姿だった。
兄さまが注いでくれた酒。まさか、飲まないわけにもいかないだろう。
そうしていると、限界を超えて酒を飲んでしまっていたらしい。
目を覚ましたときには、おれはふとんで寝かされていて、べんけーがおれのことを見ていてくれていたようだ。
「ん、うぅ」
起き上がろうとすると、あたまがズキズキと痛かった。
「何も無理する必要は無い。今日は眠っていれば良い」
べんけーはそう言ってくれるけれど、そんなわけにもいかないよね。
「だいじょうぶだよ。それに、継続することが強くなるには大切なんだから」
たった一日でもなまけてしまえば、心身とも弱くなってしまう。
だからおれは、休んでいるなんてわけには、いかないんだ。
強くなくちゃ、兄さまはおれのことを見てくれない。戦で活躍できなければ、兄さまには必要としてもらえない。
おれはもっと、強くならなくちゃいけないんだ。
兄さまのために、兄さまの役に立てるように。兄さまのために、戦えないとだもん。
「義経がそう言うなら、了解した。だが、無理はするな」
べんけーったら、そんなに心配しなくてもだいじょうぶだよ。
おれだって、もうこどもじゃないんだから。
自分の限界なんてわかる。きのうは、兄さまが注いでくれたから、ちょっとむりしちゃったけど……。
でもそんなこと、めったにないから。
それに、悲しいくらい細いけど、意外と体力だってあるんだからね。
「では、某が相手を務めよう。ならば傍で見られる」
心配しなくてもいいと言っているのに、そんなところも、べんけーらしいからいいんだけどね。
だってべんけーが少しも心配してくれなかったら、反対におれが心配になっちゃうもん。
監視することが目的なのだとしても、べんけーが相手をしてくれるのは、おれとしてもうれしいしさ。
べんけーくらい強い相手だったら、練習としてはとてもいいと思うんだ。
「おれはなにも使わない。魔術だけでいくから、この条件で勝負しよう? べんけーは、なにを使ってもいいから、おれを負かしてね」
「本当に其れで良いのか。怪我をしても知らぬぞ」
ふたりで挑発をし合って、べんけーは適当な武器を構える。
「べんけーはいつも、隙だらけだよっ」
だけどべんけーったら、おれのことを心配しているのか、手加減なんかしてくるんだもん。負けようがないよね。
おれの勝利が決まると、べんけーは笑いながら言った。
「確かに、某はいつも好きだらけだ」




