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死んだ魚のような目をしているオレは、盲目なあの子に恋をする。  作者: しましまましま
第2章 空騒ぎ(Much Ado About Nothing)

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第20話 否定が、好きっていう証拠。

 安藤が去った直後、今度は別の人影がオレの前を通り過ぎた。

 御堂蓮。

 蓮は鮎川の席の前で立ち止まった。鮎川はまだトイレから戻っていない。机の上に点字タブレットが置いてある。

 蓮は一瞬、鮎川の空席を見つめてから、何かを思い立ったように自分の鞄に戻った。そして、A4サイズのクリアファイルを持って、再び鮎川の席にやってきた。

 クリアファイルの中身は――紙だ。何枚かの紙に、点字のような凹凸が打たれている。

 前に鮎川に話していた、バリアフリーマップの完成版だろうか。

 蓮はクリアファイルを鮎川の机の上にそっと置いた。そして――手書きのメモも一緒に。

 いや、メモじゃない。点字だ。蓮は点字でメッセージを書いて、一緒に置いたのだ。

 ……点字。

 蓮が点字を打てるということは、鮎川のために点字を覚えたということだ。鮎川とコミュニケーションを取るために、わざわざ点字を学んだ。

 オレは点字なんて読めもしない。鮎川に景色を伝えるのは口でやっているけど、文字でメッセージを伝える手段を持っていない。

 蓮は――それを持っている。

 胸のもやもやが、また少しだけ濃くなった。

 鮎川がトイレから戻ってきた。席に着いて、机の上にクリアファイルがあることに気づく。指先で表面を触って、点字を読み始めた。


「あ、御堂くんからだ。校内マップの完成版……すごい、階段の段数まで全部書いてある。それに……」


 鮎川の指が、メモの点字をなぞる。

 読み終えた鮎川の表情が、ぱっと明るくなった。


「御堂くん、『いつでも力になるから、遠慮しないで声をかけて』だって。優しいなあ」


 蓮が少し離れた自分の席から、穏やかに笑っていた。その笑顔は完璧で、紳士的で、まっすぐだった。

 ……嫌味がない。本当に嫌味がないのだ、あの男は。純粋な善意で、純粋な好意で、鮎川に尽くしている。

 オレにできることは、帰り道で景色を話すことくらいだ。蓮にはそれ以上のことができる。点字で手紙を書く。校内マップを作る。教科書の点字変換を手伝う。実務的で、具体的で、役に立つサポート。

 比べるものじゃない。

 比べるものじゃないとわかっているのに――比べてしまう。

 御堂蓮は完璧だ。顔も良い、頭も良い、性格も良い。オレとは違う。あいつのほうが、鮎川の隣にふさわしい。

 ……なんでそんなことを考えてるんだ、オレは。

 「ふさわしい」って何だ。鮎川の隣に誰がふさわしいかなんて、オレが決めることじゃない。鮎川が決めることだ。

 でも。

 胸のもやもやは消えない。


 昼休み。

 いつもの席で、いつものように鮎川と弁当を食べていた。

 翔太は今日はサッカー部の先輩に呼ばれて食堂に行っている。凛は文庫本を読んでいる。教室はざわついているが、オレたちの周りだけ妙に静かだ。

 いや、静かなんじゃない。周りがこっちを盗み見しているから、直接話しかけてこないだけだ。「鈴木と鮎川のランチタイム」を観察している目が、ちらちらと刺さる。


「鈴木くん、今日の弁当なに?」

「唐揚げ」

「いいなあ。わたしのは焼き魚。交換する?」

「いいけど。はい」

「ありがとう。……あ、おいしい。お母さんの唐揚げ、味が濃いめだね。にんにくが効いてる」

「よくわかるな」

「舌も敏感なの。目が見えない分、味覚も鋭くなるんだって」


 弁当のおかず交換。

 端から見たら、完全にカップルだ。

 自分でもわかっている。わかっているけど、やめる理由がない。鮎川が「交換しよう」と言ったら、断る理由がない。それだけのことだ。

 教室の隅から、安藤美咲の「ほらー、やっぱり付き合ってるじゃん」という小声が聞こえた。

 鮎川にも聞こえたはずだ。でも鮎川は何も言わず、焼き魚を食べている。

 と、そのとき。

 安藤がさりげなく席を立ち、凛の横を通り過ぎた。凛は文庫本から目を上げなかったが、安藤はそのまま鮎川の側を通りがてら、小声で耳打ちした。


「鮎川さん、鈴木くんってさ、鮎川さんのこと意識してるみたいだよ。さっき、鮎川さんがトイレ行ってる間、鮎川さんの席のほうずっと見てたし」


 鮎川の箸が、ほんの一瞬だけ止まった。

 安藤はそれだけ言って、何事もなかったかのように自分の席に戻っていった。

 オレには安藤の声は聞こえなかった。離れすぎていたし、声が小さすぎた。でも鮎川の耳には届いたはずだ。

 鮎川の表情が――ほんのわずかに変わった。口元がきゅっと引き締まって、すぐに元に戻る。指先で箸を持ち直す動作が、一瞬だけぎこちなかった。

 オレはそれを見逃さなかった。見えすぎるこの目で、しっかりと見た。

 何か言われたのか。安藤に何か耳打ちされたのか。

 聞きたかったけど、聞けなかった。聞いたら、何かが動き出しそうで――怖かった。

 鮎川はすぐにいつもの調子に戻って、弁当の残りを食べ始めた。でも、さっきまでと何かが違う。声のトーンが〇・一ヘルツくらい高い――なんて、オレにはわからないけど。なんとなく、話し方がいつもより少しだけ丁寧になった気がした。


「ねえ、鈴木くん」

「ん」

「噂って、放っておけば消えると思う?」

「……わからん。でも、否定し続ければそのうち飽きるだろ」

「そうだね。でもね」


 鮎川が箸を止めて、こちらに顔を向けた。


「シェイクスピアの『空騒ぎ』って知ってる?」

「前に凛と話してたやつだろ。ベネディックとベアトリスがどうとか」

「覚えてたんだ! 嬉しい。じゃあ、あの二人がどんな関係か話すね」


 出た。シェイクスピア語りモード。

 鮎川の目が――閉じているのに――きらきらし始めた。好きなものの話をするときの、あの独特の輝き。


「ベネディックは男の人で、ベアトリスは女の人。この二人、お互いに『あんな人好きになるわけない!』って言い張るの。会うたびに皮肉を言い合って、からかい合って、絶対に認めないの。でもね」

「でも?」

「周りの友達はみんな知ってるの。この二人、本当は気になってるって。だから、周りの友達が仕組むの。ベネディックには『ベアトリスがお前のこと好きらしいよ』って嘘の情報を流して、ベアトリスには『ベネディックがあんたのこと好きらしいよ』って嘘の情報を流すの」

「それで?」

「そしたらね、二人とも、あっさり好きになっちゃうの」


 鮎川が楽しそうに笑った。


「面白いでしょ? あれだけ『好きじゃない』って言い張ってたのに、相手が自分を好きだって聞いた途端、自分の気持ちに気づいちゃう。否定すればするほど、本心はあらわになるっていう話」

「……単純だな」

「単純だから面白いんだよ。人間の恋心って、否定しても否定しても消えないの。否定するエネルギー自体が、好きっていう証拠になっちゃう」


 否定するエネルギー自体が、好きっていう証拠。

 その言葉が、胸に刺さった。

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