第1話 死んだ魚のような目
恋は盲目で、恋する者たちには自分のしでかす可愛い愚行が見えない——ウィリアム・シェイクスピア『ヴェニスの商人』
四月の朝の光は、どこか嘘くさい。
窓から差し込むやわらかな光が、テーブルの上に並んだ朝食を照らしている。焼き鮭、味噌汁、白米。どこにでもある普通の朝食。どこにでもいる普通の家族。どこにでもある、普通の朝。
――のはずだった。
「あんた、また死んだ目してるわよ」
母さんがトーストをかじりながら、まるで天気の話でもするみたいに言った。
オレは味噌汁をすすりながら、「おはよう」の代わりに返す。
「いつものことだろ」
「いつものことだから言ってんの。せめて朝くらいシャキッとしなさいよ。入学式の写真なんか、あんた一人だけお葬式みたいだったわよ」
「それ、去年の話だろ」
「今年も変わってないでしょ」
返す言葉もない。というか、返す気力もない。
オレは箸を置いて、廊下の姿見の前に立ってみた。
鏡の中のオレが、鏡の中からオレを見ている。
身長一六九センチ。体型は普通。髪型も普通。制服も普通。顔も、まあ、普通だと思う。
ただひとつ――目だけが、違う。
正確に言えば、目そのものはいたって健康だ。視力は両目とも一・五以上。学校の視力検査ではいつもA判定をもらうし、遠くの看板の文字だって余裕で読める。
なのに、だ。
物心ついた頃から、オレはこう言われ続けてきた。
――死んだ魚のような目をしている、と。
生気がない。感情が見えない。輝きがない。まるで酸素のない水槽に浮かぶ魚のように、瞳だけが虚ろに開いている。
比喩にしてはリアルすぎるし、褒め言葉にしてはあんまりだ。
でも、否定する材料もなかった。実際、オレには心当たりがある。
何を見ても、心が大きく動かない。
きれいな夕焼けを見ても、「ああ、夕焼けだ」としか思わない。感動的な映画を観ても、「ああ、感動的だな」と頭で理解するだけで涙は出ない。クラスのみんなが大騒ぎしている文化祭も、オレにとっては少しうるさいイベントにすぎなかった。
べつに不幸じゃない。嫌なことがあるわけでもない。友達もいるし、成績もそこそこだし、運動だって人並みにはできる。
ただ――世界が、薄いフィルター越しに見えている感覚がある。
目はたしかに見えている。誰よりもよく見えているはずなのに、何も「見えていない」ような気がする。
その矛盾を、他人は「死んだ魚の目」という言葉で片づけてしまう。
母さんは慣れたもので、オレの死んだ目を気にしつつも深刻にはとらえていない。父さんもそうだ。小学生のとき一度だけ眼科に連れて行かれたことがあるが、医者は「眼球には異常ありません。視力も極めて良好です」と太鼓判を押した。じゃあなんでこんな目なんだ、と母さんが聞くと、医者は困った顔で「表情筋の問題か、あるいは精神的なものかもしれません」と曖昧に答えた。
精神的なもの。つまり心の問題だということだ。でもオレは別に心を病んでいるわけじゃない。カウンセリングも受けたことがあるが、「特に問題は見られません」で終わった。
結論――原因不明の死んだ目。
一六年間の付き合いだ。もはや体の一部みたいなもので、今さらどうしようもない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。帰りに牛乳買ってきてね」
「はいはい」
四月特有の、冷たさと温かさが入り混じった朝の空気が頬を撫でる。桜はもう半分以上散っていて、歩道のすみっこにピンクの花びらが吹きだまりを作っていた。
新学期が始まって一週間。高校二年生の春。新しいクラス、新しい席順、新しい時間割。でもオレの日常は何も変わらない。
「おっはよ~、腐ったサンマ!」
背後から、やたら元気な声が飛んでくる。
振り返らなくてもわかる。この世で最も朝からうるさい男、桐谷翔太だ。
「サンマに格上げか」
オレが淡々と返すと、翔太は隣に並んでニカッと笑った。
「だって、目がマジで死んでんだもん。朝イチでそのツラ見ると、こっちまで成仏しそうになるわ」
「オレの目が死んでるのは今に始まった話じゃないだろ」
「だから毎朝ツッコんでんだよ。ルーティンだルーティン。おはようの代わり」
「最悪のルーティンだな」
翔太はオレの幼なじみで、小学校からの腐れ縁だ。クラスの人気者で、誰とでもすぐに仲良くなれるタイプ。明るくて、声がでかくて、お調子者で――オレとは正反対の人間。
なのになぜかこいつはオレの隣にいつもいる。類は友を呼ぶ、の反対語があるなら、まさにオレと翔太の関係がそれだ。
「なあ湊、聞いたか? 今日、転校生が来るらしいぞ」
「へえ」
「『へえ』って、もうちょっとリアクションないわけ?」
「誰が来ても同じだろ」
「出た、死んだ魚の名言。お前さ、そうやって何にも興味持たないから目が腐るんだよ」
「腐ってはいない。死んでるだけだ」
「どっちも同じだわ!」
翔太がゲラゲラ笑いながらオレの背中をバンバン叩く。痛い。
正門をくぐると、桜のトンネルがまだかろうじて残っていた。散りかけの花びらが風に舞って、まるで季節の最後のあがきみたいに空気を埋め尽くしている。
きれいだ――と、たぶん思うべきなんだろう。
でもオレの感想は、「掃除が大変そうだな」だった。
教室に入ると、いつもよりざわついていた。
あちこちで「転校生」「男? 女?」「かわいい子だったらいいな」と声が飛び交っている。四月のこの時期に転校というのは珍しい。みんなの好奇心が教室の気温を二度くらい上げている気がした。
オレは窓際の自分の席について、鞄から教科書を出す。窓の外では桜の花びらがまだ舞っている。四月の空はやたらと青くて、雲ひとつない。完璧な春の日。完璧な退屈。
「おい湊、興味ないフリしてないで、ちょっとはワクワクしろよ」
翔太が前の席に座って振り返る。
「してないフリじゃなくて、本当にない」
「まあ、お前のそのテンションは今に始まったことじゃないけどさ。でも転校生だぞ? 新しい出会いだぞ? もし美少女だったらどうするよ?」
「どうもしない」
「夢がねえな……。お前はギャルゲーの主人公かよ」
「セリフ一個もないモブAのほうが気楽でいい」
チャイムが鳴り、がやがやしていた教室が少しだけ静かになる。
担任の藤原先生が教卓の前に立った。二〇代後半の女性で、いつもパンツスーツをびしっと着こなしている。生徒からの人気は高い。面倒見がよくて、でも甘やかさない。オレは嫌いじゃない。
「はい、みんな席について。今日は皆さんに紹介したい人がいます」
教室の空気がぴんと張る。全員の視線が教室の入り口に向く。
藤原先生が廊下に向かって声をかけた。
「……どうぞ、入ってきて」
教室のドアが、ゆっくりと開いた。
最初に目に入ったのは、白い杖だった。
細くて長い、白い杖。先端が床を軽くたたくように動きながら、その持ち主を教室の中へと導いていく。
杖に続いて現れたのは、小柄な女子生徒だった。
身長はオレより一〇センチくらい低いだろうか。肩にかかるくらいの髪がさらりと揺れて、白い肌がそこだけ光を集めたように明るい。制服は真新しくて、しわひとつない。
そして――目を、閉じていた。
ぎゅっと力を入れて閉じているのではなく、まるで最初から開けるつもりがないかのように、自然に、穏やかに閉じている。その長いまつげが頬に影を落として、不思議な静けさを顔に漂わせていた。




