第67話……知られたがゆえの焔
レズニン大佐の運転する蒸気自動車に私は乗り込んだ。
護衛は連れていかない約束だ。だが、狸のポコリーヌだけは「留守番は嫌だポコ」とばかりに膝の上に飛び乗り、結局そのまま供をしてくれた。
自動車はイシュタール麦畑を突っ切り、やがて鬱蒼とした森へと入っていった。
茂みの奥に、苔むした古びた洋館が姿を現す。
門前に立つ連邦兵が私を見てマスケット銃を構えたが、大佐は短く命じた。
「下ろせ。客人だ」
洋館の中は外観以上に荒れていた。
機密資料に溢れた棚をどかすと、床下に隠された通路が現れ、真鍮製の梯子が地下へと続いている。
私は大佐に導かれるまま、長い暗い通路を進んだ。
やがて広大な地下空間に出る。
そこには巨大なガラスの水槽が鎮座していた。
水槽の中で漂うのは――人とも怪物ともつかぬ、巨大な胎児のような異形。
再びの遭遇に、私は言葉を失った。
「これこそが、近年の不作の原因だ!」
大佐が水槽を拳で叩く。
衝撃で揺らめく液体の中、胎児は薄く目を開けた。
冷たい視線が一瞬だけこちらに注がれ、背筋に悪寒が走る。
レズニンの声は重く響いた。
「こいつらは遥か昔、この大地を支配していた先住の種族だ。古の大噴火で滅んだが、僅かに生き残った者が宇宙へ逃れ、そして一体だけが戻ってきた。……以後、歴代のパニキアの支配者はこの異形の子を養い、その代わりに進んだ蒸気機関の技術を授けられたのだ」
「だが、蒸気技術があるなら生産性は上がるのではないか?」
私が口を挟むと、大佐は手を振って制した。
「違う。進んだ蒸気機関は膨大な魔炎石を消費する。少なくとも二十年もの間、貧しさから脱するため、我々は山々を穿ち、大地を掘り尽くした。……その結果、地中の魔炎石はほとんど枯渇した」
「魔炎石と……イシュタール小麦の収穫に何の関係が?」
「あるのだ。近年の研究で分かった。魔炎石の鉱脈が発する力が、イシュタール小麦の発育を促していたのだ。採掘でその力を奪い去った我らは、自らの穀倉地帯を死地へと変えたのだ」
大佐は椅子に沈み込み、片手で顔を覆った。
「奴らはそれを分かっていた。我らが魔炎石に依存し、やがて飢えと戦で滅びることを。……待っているのだ。我らの終焉をな」
私は声を絞り出した。
「……その、生き残った“成体”は今どこにいる?」
大佐は苦笑した。
「連邦の首府だ。最高政治委員の一人として、今も政府庁舎の最奥に鎮座している」
私は頭を抱えた。
戦争も、飢饉も、すべてが絡み合い、想像を超えるものが背後に蠢いている。
脳裏は情報で溢れ、理解が追いつかない。
◇◇◇◇◇
蒸気ランプの淡い光が、異形の胎児を封じた水槽に反射して揺れていた。
私は呆然と立ち尽くし、思考が絡まり合っていくのを感じた。
――報告すべきか。
これは軍事上きわめて重大な情報だ。
魔炎石の枯渇と農業の衰退、さらに連邦の最高政治委員の一人の正体が、異形の生物の成体……。
このようなこと、一体だれが信じるというのであろうか。
だが、隠せばどうなる?
上官の命令に背くことになり、軍人としての責を問われる。
私は昇進したばかりだ。この地で統治を任されたばかりなのだ。
今ここで沈黙を選べば、裏切り者と見なされ、銃殺すらあり得る。
冷や汗が背を伝い、心臓が胸を激しく叩いた。
……私は、何のために戦ってきたのだ?
マルコフに掲げられた帝国旗。
北へ進むボルタたちの背中。
バーレ少将の、あの真摯な眼差し。
そして――目の前で薄目を開く異形の胎児。
その視線が私に問いかけているように思えた。
沈黙に沈む私を、レズニン大佐はじっと見据えていた。
眼帯をしていない方の片目が鋭く光り、やがて低い声が洞窟のような空間に響く。
「……お前は帝国の上層部に報告するのか?」
私は返事に詰まった。
大佐は水槽を拳で叩き、揺らめく胎児を指し示した。
「もし報告すれば、帝国はこの存在を利用しようとするだろう。技術を奪い、兵を駆り立て、我々と同じ過ちを繰り返す。だが隠せば……お前自身が裏切り者とされ、銃殺台の前に立たされるだろうな」
言われなくとも分かっていた。
だが、敵将の口から改めて突きつけられると、胸がさらに重くなる。
「……ふふふ、貴様はやはり真実を知らなければよかったな」
大佐の声は揶揄ではなく、深い哀惜を帯びていた。
「だが選べ。軍人として死ぬか、人として罪を背負うか。 いずれにせよ、お前の帝国は、いずれこの大地と同じ運命を辿る」
その言葉は鋼のように重く、心臓に突き刺さった。
……そもそも、なぜ私は、この男の言葉をこれほど信用しそうになっているのか。敵将のはずなのに。
◇◇◇◇◇
耳を劈く警報音が地下施設に鳴り響いた。
赤いランプが次々と点滅し、壁を震わせる轟音が続く。
「……やはりな」
レズニン大佐は眼帯の下の目を閉じ、低く吐き捨てる。
「どういうことだ!」
私は叫んだ。
「敵であるガーランド帝国軍の士官に知られた……それだけで、この施設は存続できんのだ。パニキアの掟だ。秘密は常に外部の刃によって絶たれる」
背後で、巨大なガラス水槽が軋む音が響いた。
中で漂っていた異形の胎児が身をよじり、薄く目を開ける。
だがその眼差しも、次の瞬間には轟音にかき消された。
爆破の衝撃で水槽にひびが走り、圧縮液が噴き出す。
胎児は短い呻きを残し、崩れ落ちる瓦礫と共に炎に飲み込まれていった。
「急げ!」
大佐は私の腕を掴み、通路へと引きずり出した。
背後で連鎖的に爆破が起こり、長い地下道を赤い光が追いかけてくる。
地上に飛び出すと、古びた洋館はすでに火に包まれていた。
窓という窓から火炎が噴き出し、屋根が崩れ落ちていく。
炎は夜空を焦がし、黒煙は森の彼方まで広がった。
「……これで終わりだ。いや、始まりかな?」
レズニン大佐は炎を見つめ、低い声で続けた。
「お前が見たがゆえに、この秘密は消された。ここにある証拠も痕跡も、すべて灰となった」
私は喉の奥が焼け付くような感覚に襲われた。
洋館が崩れ落ちる轟音を聞きながら、私は立ち尽くすしかなかった。




