第66話……穀倉地帯の謎
――聖帝国暦九一八年四月下旬。
ロール自治領はついに降伏を申し入れた。
バーレ少将の指揮する我が第一混成旅団は、自治領首都マルコフに入城し、当面は臨時統治の任に当たることとなった。
帝国の旗が市庁舎に掲げられ、鐘楼の鐘が静かに鳴り響くその瞬間、市街の人々の顔には安堵とも恐怖ともつかぬ色が浮かんでいた。
そして約束通り、私は中佐へと昇進を果たした。
祝宴の夜、将兵は勝利の酒に酔い、肉の皿を奪い合い、戦の疲労を笑い声に変えていた。
私も杯を掲げはしたが、胸の底には言いようのない重さが残っていた。――これで終わりではないと知っていたからだ。
予感はすぐに現実となる。
帝国南方軍総司令部からの命令は、北進し、ついにパニキア連邦の首都へと攻勢を掛けよ、というものだった。
だが私には別の役目が与えられた。
「フォーク中佐。お前には、ここマルコフの臨時守備隊長を命ずる」
バーレ少将の言葉は厳粛でありながら、どこか私を信頼する響きを帯びていた。
◇◇◇◇◇
北進命令の伝達を受けた翌朝。
城門前の広場では、北へ向かう部隊が整列していた。
その先頭に立つのは、軍学校以来の同期、騎兵隊長ボルタ大尉だった。
「……結局、俺たちはまた別々の道を行くんだな」
手綱を握りながら、ボルタは苦笑した。
頬には泥と風に焼けた跡が刻まれていたが、その瞳は昔と変わらぬ光を宿していた。
「そうなるな」
私は答えた。
「お前は北へ、私はこの街に残る。役目は違えど、帝国のためだ」
ボルタは馬上から身を屈め、私の肩を拳で軽く小突いた。
「フォーク。次の休暇が出たら、帝都で酒を飲もう。あの軍学校近くの場末の酒場でな」
私は思わず笑みを漏らす。
「ああ、あの安酒屋か。……いいだろう、約束だ」
「約束だぞ。――戦で死ぬのも勝手だが、俺を一人で飲ませるな」
互いに笑い合ったその瞬間だけは、戦場の冷たい空気が和らいだ気がした。
やがてラッパが鳴り、騎兵隊は一斉に馬腹を蹴る。
ボルタは振り返りざま、片手を高く掲げて叫んだ。
「生きて再会だ、フォーク!」
私は城門の下で敬礼を返し、遠ざかる友の背を見送った。
その背中は、雨に濡れた石畳の向こうで小さくなるまで、決して目から離れることはなかった。
◇◇◇◇◇
私に与えられた役目は、マルコフの軍事的な守備以外に、ここで生きる民をどう治めるかという現実だった。
マルコフ市内に設けられた臨時庁舎は、元は貴族向けのホテルだった。
豪奢なシャンデリアと赤い絨毯はそのままに、今では兵士たちが詰める事務室と化している。
蒸気ランプの白い光に照らされる中、私は執務机に山と積まれた報告書を捌いていた。
広大な穀倉地帯を有するはずのロール自治領。
だが、市場には食糧が乏しく、民衆は痩せこけた顔で配給所に列を作っていた。
なぜだ……、この肥沃な大地で、なぜ食がここまで欠乏している?
占領統治の要は兵站と民心の掌握にある。
今年の秋の収穫が期待できないと、帝国軍の進撃そのものが危うくなるのは必定だった。
私は椅子に深く身を沈め、しばし思案した。
その時、副官のアーデルハイト技術准尉が耳打ちしてきた。
「中佐。偶然ながら、この地を守っていた連邦軍第29大隊長、レズニン大佐を捕虜にしております。事情に通じているやもしれません」
私は頷いた。
「……そうか。すぐにここへ連れてきてくれ」
蒸気ランプの光が揺れる中、私は机上の書類を片付け、捕虜との対面に備えた。
◇◇◇◇◇
やがて扉が開き、捕虜となったレズニン大佐が警護兵に伴われて姿を現した。
片目に黒い眼帯を巻き、顔に刻まれた深い皺と無精ひげ。
頑強な体躯は鎖で繋がれていようとも衰えを見せず、まるで檻から解き放たれた熊のような威圧感を放っていた。
……これは、ただの敗残兵ではないな 私は無意識に背筋を伸ばした。
粗末な椅子に腰を下ろした大佐は、軽く鼻を鳴らし、低い声で言った。
「どうせ死ぬまでは長くない。知っていることは話してやる。――ただし、虚言は言わん。記録と照らし合わせて確かめるがいい」
私は頷き、書類を机上に広げた。
大佐の言葉は、すでに押収した資料の内容を裏付けるものであった。
「おおよそ二十年前からだ。ロール大穀倉地帯の収穫は年を追うごとに急激に減っている」
「……二十年前?」
私は眉をひそめた。 レズニンは眼帯の下の片目を細め、拳を握りしめた。
「二十五年前までは違った。この地は豊かで、イシュタール小麦を連邦全土に送り出していた。だが今では……自治領の民の口を満たすことすらできん。軍に徴発されれば、飢える者が続出する始末だ」
私は言葉を失った。
手元の記録にも確かに「減収」の記載があったが、それがここまで深刻とは。
……この地は、もはや“穀倉地帯”と呼べぬのか?
机上の地図に視線を落としながら、私は重く息を吐いた。
長い会話の末、レズニン大佐はしばし沈黙し、眼帯をしていない方の鋭い目を細め、値踏みするようにこちらを見た。
「……貴様は、どうやらただの征服者ではなさそうだな」
低い声には、どこか試すような響きがあった。
「何を言いたい?」
私は問い返す。
大佐は口の端を歪め、鎖でつながれた手首を持ち上げた。
「見せたいものがある。言葉より、実際に見た方が早い。――ただし条件がある」
「条件?」
「この間だけは、俺を自由にしろ。そして同行するのはお前ひとり。護衛も兵も連れてくるな」
私は息を呑んだ。
レズニンの体躯は、檻を破る熊のように猛々しい。
もし一対一で戦えば、軍刀を抜く前に捻り潰されるのが関の山だろう。
そんな私の逡巡を見透かしたか、大佐は唇を吊り上げて言った。
「嫌ならいいんだぞ? その場合は何も教えん。ただそれだけだ」
その徴発めいた言葉に、私は否と言う術を持たなかった。
「……分かった。案内してもらおう」
自分の声がひどく乾いて聞こえた。




