第63話……帝国の誇り、雨に試されて
――聖帝国暦九一八年三月下旬。
第六師団と混成第一旅団は、パニキア連邦の要塞都市ロフコフを包囲した。
――飛行船偵察報告・第三号(抜粋)
・三月二十五日正午、都市東門より退却する馬車隊を確認。
・馬車列は延々と続き、物資輸送を主眼とするものと判断。
・守備軍の規模は不明、だが都市内に残存する正規兵は少数と思われる。
・市街に煙突の煙は見られず、主要工場は停止状態。
・燃料庫に動きなし、魔炎石の備蓄は枯渇と推測。
以上をもって、ロフコフの防衛を放棄し、パニキア連邦軍は戦略的撤退を実施中と認む――
実際、要塞都市ロフコフの民衆の現状は、味方の軍に略奪された後であった。
彼らに残されたのは、麦粥を炊くための粗悪な魔炎石すら乏しい現実である。
燃料不足により都市の動力たる蒸気タービンは静まり返り、街を彩るはずの歯車仕掛けも沈黙していた。
その光景は、かつて繁栄を誇った歴史ある要塞都市が、音もなく死に絶えつつある姿にほかならなかった。
◇◇◇◇◇
――第六師団司令部の幕舎。
割れた窓から吹き込む春の冷気の中で、帝国第六師団長ホーフマン中将の腹は軍服の金ボタンを苦しげに押し広げていた。
脂ぎった顔は赤らみ、口元には常に肉汁を思わせる湿り気があった。
「……降伏状、であるか」
中将は短い指で書面を摘み、脂で光る親指で乱雑に捲った。
「ふん、遅すぎる。だが、わしの寛大さを示すには悪くあるまい」
要塞都市ロトコフの市長は、震えながら頭を垂れ、そばに立つ愛娘を押し出した。
薄絹のドレスを纏った少女は、俯き、怯えるように唇を噛んでいる。
「閣下……、どうか、この娘を、我が家の誠意とお受け取り願いたく……」
ホーフマンの濁った目がぎらついた。
その視線は文書よりも娘の胸元に長く留まり、唇がいやらしく吊り上がった。
「ほう……市長殿、わしの趣味をよく心得ておる」
彼は重い体を椅子から立ち上がらせ、ぜいぜいと息をつきながら娘の顎を持ち上げた。
「帝国は忠誠を忘れぬ。わしの天幕に仕えよ、娘。市長殿の身命は保証してやろう」
市長は深々と額を床に擦りつけ、汗と涙をこぼした。
大広間の隅で参謀たちは互いに目を逸らし、肥満の将軍の笑い声だけが響き渡った。
◇◇◇◇◇
――降伏から二日後。
肥満体のホーフマン中将は、重騎兵に守られながらロトコフ市の中央大通りへと入城した。
軍服の金ボタンは腹に食い込み、その巨体は特注の指揮車のソファーに埋まる。
「よいか諸君!」
将軍は腹の底から声を絞り出し、蒸気自動車の荷台に立ち上がる。
「この都市は帝国軍の勝利によって陥落した! ゆえに、戦勝の褒美を授ける! ロトコフの街の富を、欲するままに手に入れよ!」
その瞬間、第六師団の兵士たちは鬨の声を上げ、隊列を離れて通りへ散った。
酒屋の扉は蹴破られ、倉庫の錠前は斧で叩き割られる。
婦人たちの悲鳴、子供の泣き声が石畳の街路にこだました。
市庁舎のバルコニーからその光景を見下ろした市長は、顔を蒼白にした。
足元では、震える妻が裾を握りしめていた。
「閣下! 話が違うではありませんか!」
市長は広場に駆け下り、蒸気自動車の上の将軍に叫んだ。
「降伏すれば市民の生命財産は守る、と……そう約したはずだ!」
ホーフマンは肉に埋もれた目を細め、喉の奥でげらげらと笑った。
「市長殿よ、帝国は都市を守るとは言った。だが、その財は兵が勝ち取ったものだ! その権利はワシの自由にはならぬ」
市長の肩が、がくりと落ちる。
背後で、家財を抱えて逃げ惑う市民たち。
帝国の旗は市庁舎に翻りながらも、その下で街は蹂躙されていった。
◇◇◇◇◇
雨は冷たく、外套の肩に重く染みこんでいた。
城門の向こうから溢れ出す避難民を、私はただ黙って眺めていた。
母が子を抱き、老人は杖を引きずり、裸足の子供たちは泥に足を取られて転びそうになる。
それでも彼らは、我ら帝国兵を恐れるように視線を逸らし、雨の中を散り散りに駆けていった。
拳を握り締めたが、命令もなく勝手に動くことはできない。
……結局、私は何もできぬのか。
胸の奥に重苦しい塊が沈み、雨粒が頬を伝った。
その時だった。
人混みをかき分け、一人の少女が駆け寄ってきた。
まだ十二、三ほど。髪は濡れて張り付き、泥に汚れた顔で、震える声を上げる。
「将軍さま……! お願いです、街の中で、みんなが……兵隊さんに……!」
少女は私の横をすり抜け、バーレ少将の軍靴に縋りついた。
私は息を呑む。ただ少将にすがるその必死な姿が、胸に鋭く刺さった。
少将は一瞬、無言で少女の肩に手を置き、そして静かに言った。
「……残念だが、城内は管轄外だ。だが、ここから先は、我らが守る」
鋭い視線が私に向けられる。
「フォーク少佐」
「はっ!」
「市門の外に避難路を設け、民を保護せよ。兵に銃剣を下げさせ、列を整えろ。……連邦の地にて帝国の誇りを示すのだ」
胸の奥に熱がこみ上げた。
私は踵を鳴らし、声を張り上げる。
「前列、銃剣を外せ! 市民の避難路を確保しろ! 誰一人、怯えさせるな!」
兵士たちは動き始め、冷たい雨の中に秩序ある列が築かれていく。
少女はまだ少将の外套の裾を握りしめていたが、彼女に促され、やがて私の方へ押し出された。
「行け。少佐が護ってくれる」
少女の濡れた瞳が、まっすぐ私を見上げる。
私はその視線を受け止め、心の中で静かに誓った。
この子らを怯えさせぬこともまた、我らの成すべき戦なのだ、と……。




