第60話……囮作戦
――聖帝国暦九一八年、二月下旬。
私はバーレ少将の司令部に呼び出されていた。
「閣下、お呼びでしょうか」
「ああ。少佐の軍学校での研究は、たしかパニキア連邦の地理だったな?」
「はい、左様にございます」
「これから救援先の資料を渡す。移動の途上で、敵地攻略の策を練っておいてくれ」
「御意」
私は少将の従卒である少年兵から封緘された資料一式を受け取り、煤煙を上げる蒸気自動車に揺られて中隊本部へ戻った。
走行中、厚紙の綴りと粗い白黒の航空写真を繰る。
そこには鉄橋に陣取る連邦軍の巨大な装甲列車が写し出されていた。……どうやら、この鉄の怪物が最大の障害となるらしい。
――翌日。
第一混成旅団に正式な移動命令が下った。
それは総司令部からの急報――南方戦線で苦戦する第六師団への支援要請である。
旅団は中隊単位でエーテル弾薬・糧秣の補給を済ませ、蒸気機関車の長大な編成に分乗して一路南へと向かった。
私は車中、窓外の農村風景には目もくれず、ひたすら資料と睨み合い続けていた。
鉄路の振動が紙束を震わせ、その一枚一枚が迫る戦場の重みを告げていた。
◇◇◇◇◇
――聖帝国暦九一八年三月。
私は第六師団司令部の作戦室に立ち、壁に貼り付けられた地図を指し示しながら、練り上げた攻勢案の説明を終えた。
「……以上が我が旅団の提案であります。ご質問は?」
だが言葉が途切れるや否や、第六師団幕僚たちの間から不満と拒否感をにじませる声が一斉に上がった。
「いや、そのA高地よりも、こちらのB高地の方が鉄橋に近い。奪うならば、当然Bの方がよかろう」
「その通りだ。しかも、貴重な飛行船を囮に使うなど前代未聞だ。地上部隊だけで突入すべきだ」
「……意見が割れるのは仕方があるまい。ならばまずはB高地に向け、第六師団主力で攻勢をかけるのが妥当では?」
空気が完全に師団幕僚の意見へと傾き始めたその時、参謀長シュタイナー大佐が救い舟を出すように、バーレ少将へと話を振った。
「我が第一混成旅団は、あくまで援軍にすぎませぬ。第六師団の方針に口を挟むつもりはありません」
少将は柔和な笑みを浮かべて答えた。
最後に総司令官ホーフマン中将が頷き、結論を下す。
「よし、まずはB高地へ攻勢をかける。少将の旅団には幾許かの砲兵支援をお願いしたい」
こうして作戦会議は閉じられた。
B高地攻略のため、第六師団からは選りすぐりの精鋭部隊が抽出され、さらに我が第一混成旅団からも砲兵中隊が数個拠出されることとなった。
◇◇◇◇◇
――三日後の暁。
帝国軍は野砲の準備射撃を終えると、銃剣を構えた戦列歩兵を繰り出し、B高地をめがけて一斉に突撃した。
「かかれ!」
「守備は寡兵ぞ、一気に追い落とせ!」
この世界にはレーダーもミサイルも存在しない。
ゆえに高地は視界確保と砲撃統制の要であり、マズル鉄橋周辺の丘陵は、連邦軍が先んじて要塞化していた。
朝のうちは帝国軍が優勢に見えた。
だが昼に至る頃、鉄橋上の怪物――重装甲列車〈リヴァイアサン〉が轟音と共に砲撃を開始した。
榴弾と散弾が高地を覆い、土砂と血肉が飛び散る。
戦列歩兵の各隊は次々に壊滅し、隊伍は潰走へと変わった。
「退却だ! 退け、退けぇ!」
怒号と悲鳴の渦の中、帝国軍は甚大な損耗を負って後退した。
その戦果を誇示するかのごとく、〈リヴァイアサン〉の砲口はなおも火を噴き続けていた。
◇◇◇◇◇
――その日の晩。
第六師団司令部の会議室には煤けたランプの光が揺れ、昼間の敗戦の空気が重く漂っていた。
「……では次は、我が第一混成旅団の案を採り、A高地への攻勢を実施いたします」
バーレ少将は静かに、しかし譲らぬ口調でシュタイナー大佐へ告げた。
「御意にございます。……して、我が師団からの支援は?」
「本日の戦闘で第六師団は疲弊なされていましょう。我が旅団単独で敢行いたしたく存じます」
少将の言は一歩間違えれば不遜とも受け取られかねない物言いであったが、この場において中将も大佐も異を唱える余地はなかった。
軍において敗北の責任は致命的で、沈黙が場を支配する。
「……では、そうするか」
ホーフマン中将が短く結ぶと、会議は打ち切られた。
バーレ少将は天幕を後にし、第一混成旅団司令部へと戻るや、幕僚たちに告げた。
「諸君、我らの出番だ! ここで大いに働き、帝国の歴史にその名を刻むのだ!」
旅団司令部は一気に慌ただしくなった。作戦立案、部隊割当、兵站調整が夜を徹して行われる。とりわけ、囮に用いる飛行船の調達は難題であった。
だが、先日の戦闘で鹵獲した連邦製の大型多砲塔戦車四両を引き渡す代わりに、本国総司令部より退役間近で旧式の地上攻撃型飛行船一隻が融通されることに決定した。
◇◇◇◇◇
――五日後。
重装甲列車〈リヴァイアサン〉内部、装甲軌道師団の司令部車両では、厚い鋼板に囲まれ閉ざされた空間に緊張が満ちていた。
「閣下! 敵は南方のアル高地を攻略目標に変えた模様です!」
報告を受けたドルコフ中将の眉間に、深い皺が寄る。
「あそこは砲列の射程ぎりぎりだぞ……。砲術参謀、対応できるか?」
「はっ、長射程砲しか届きませんが、精度は保証いたします」
白髭の老参謀の落ち着いた返答に、中将はわずかに口元を緩めた。
だが、その安堵は長く続かなかった。
突如、鋭い警報音が装甲車内に響き渡る。赤色灯が点滅し、士官と伝令が走り回る。
「何事か!?」
「敵飛行船、上空より接近中!」
司令部にざわめきが広がる。
地上を疾駆する巨獣〈リヴァイアサン〉といえど、上空からの攻撃には脆い部分がある。
もっとも、この列車は小型汎用砲や長砲身銃座を備え、ある程度の対空戦闘力を誇っていた。
しかも、飛行船が有効打を与えるには高度を落とさねばならず、そうなれば逆に装甲列車の火力圏に捕らえられる。
「敵飛行船、高度をさらに下げてきます!」
「馬鹿め! 高度を落としたなら容易い。撃ち落としてくれるわ!」
中将の号令一下、列車の砲塔群が轟き、曇天を切り裂く火線が上空へ伸びる。鋼鉄の車体全体が唸りを上げ、蒸気と油、そしてエーテル薬の匂いが車内に充満した。
しかし、飛行船は有効射程に踏み込む寸前で降下を止め、散発的な砲撃を浴びせてきた。
炸裂弾が列車の外殻を叩き、鋼板に火花が散る。
「忌々しい蠅め! 逃がすな、撃ち続けろ!」
「はっ!」
〈リヴァイアサン〉の各砲塔は、上空に向けて火を吐き続ける。
だが、その間。幕僚たちも中将も意識を完全に飛行船へ奪われ、肝心のA高地への支援砲撃は誰一人として思い出そうとはしなかった。




