第59話……鉄煙の夜に寄り添いて
夕闇が迫る陣地の周縁。
アーデルハイト准尉は軍用マントの裾を翻し、片手に蒸気短銃を携えて歩哨線を進んでいた。
後ろには、美しい毛並みがフワフワした子狸のポコリーヌが、ちょこちょことついてくる。
「……妙に静かだわね」
彼女は小声で呟き、双眼鏡で川岸の森影を探る。ニカ河の湿った風が頬を打ち、草葉がざわついた。
その刹那。
乾いた破裂音が闇に走った。
次の瞬間、彼女の肩口に熱が奔り、軍服の布地が裂けた。
「くっ……!」
鋭い痛みに呻き、彼女は即座に身を伏せる。
ポコリーヌが警戒の鳴き声を上げ、尾を膨らませた。鼻先で嗅ぎ取ったのだろう。
マスケット銃のエーテル薬の匂いが微かに漂う。
「連邦の狙撃兵か……!」
血が滲む肩を押さえつつ、アーデルハイトは地面を転がるように、岩の影へと飛び込んだ。銃声は一発きり、だが狙いは確かだった。
冷徹な射手が森の暗がりに潜んでいる――それだけで、周囲の空気は凍りついた。
ポコリーヌは彼女の隣に身を寄せ、唸り声を低く漏らした。
「銃声だ! 敵兵がいるぞ!」
銃声を聞きつけ、天幕から当直の帝国兵が次々に飛び出す。
ポコリーヌに誘導された帝国兵が、連邦の狙撃兵を捉えたのは、夜が明けようとした頃だった。
◇◇◇◇◇
中隊指揮所の天幕の中は静まり返っていた。
私は血に濡れた肩口を押さえるアーデルハイトを寝台に横たえ、医療鞄を広げた。
消毒液を布に染み込ませて傷に当てると、彼女の体が小さく跳ねる。
「っ……ああ……しみますね」
彼女は眉を寄せながらも、なぜか苦痛だけではない色を瞳に宿して、私を見てきた。
「我慢しろ。貫通傷だ、命に別状はない」
私は短く言い、包帯を手繰り寄せる。
「少佐に……、こうして手をかけてもらえるなんて。ふふ……戦場じゃなければ、もっと幸せな場面なのに」
思わず手が止まりかけた。
言葉は軽い冗談めいていたが、その声音には柔らかな熱があった。
彼女は笑みを浮かべているが、頬がほんのりと紅い。
「准尉、今は治療中だ。余計なことを考えるな」
私はそう言いながら、包帯を巻き付けた。
しかし彼女は視線を逸らさず、低く囁くように続ける。
「余計……でしょうか。私は、こうして少佐に近くにいていただけると、痛みが和らぐ気がするんです」
包帯を締める指が僅かに震える。
戦場の緊張が、こんな風に彼女の心をほどいているのかもしれない。
だが私は、それ以上の意味を求めるべきではない――そう言い聞かせ、黙って結び目を固めた。
――包帯を巻き終えたはずなのに、私は手を離せずにいた。
アーデルハイトの肩は熱を帯び、震えはもう止まっている。だが彼女の瞳が、暗い天幕の中で私を射抜くように見上げていた。
「……少佐。もし次の戦で私が倒れたら、きっと後悔します」
その囁きが胸を突いた。
流血と死臭が漂う戦場で、理性には何の価値があるのか。
私は答えられず、ただ彼女の頬に手を添えた。
次の瞬間、理性よりも戦場での不安感が勝った。
彼女の唇に口づける。
唇が触れた瞬間、彼女の瞳に宿ったのは、初めてを迎える者の揺れる光だった。
アーデルハイトは目を閉じ、静かにその身を私に預けた。
戦場の外でなら決して許されぬことだ。
だが、死を覚悟した者同士だからこそ、今この瞬間だけは生きている証を貪りあうのだった。
◇◇◇◇◇
マズル鉄橋をめぐる攻防は、二週間を経てもなお膠着していた。
パニキア連邦軍ドルコフ中将の巨獣――重装甲列車<リヴァイアサン>は、帝国軍のあらゆる攻勢を悉く粉砕し、その鉄の巨体を橋上に居座らせ続けていた。
「参謀長、現存戦力の魔動機は、いかほど稼働可能だ?」
帝国第六師団長ホーフマン中将は問うた。彼は機動性に劣る蒸気戦車を嫌悪し、その代替として、第六師団は魔動機を比較的多く抱えていたのだ。
しかし、参謀長シュタイナー大佐は声を震わせながら答えた。
「……残念ながら、稼働可能な機は皆無であります」
数日前、ホーフマンはついにクリシュナ協約を破り、砲兵を前線投入させた。
だが、装甲列車の砲塔群から浴びせられた反撃は凄絶を極め、蒸気野砲の多くは大破、砲兵隊は壊滅的損耗を蒙ったのである。
「ふむ……結局は戦列歩兵の肉弾突撃に頼るほかないか」
――翌日。
帝国第六師団はマズル鉄橋に陣取る装甲列車へ総攻撃を敢行した。
サーベルを掲げる将校の号令の下、銃剣を構えた戦列歩兵が幾重にも波となって突撃する。
「かかれ!」
「怯むな、前進!」
だが、鉄橋を守る列車は怪物そのものであった。
各車両に林立する砲塔が咆哮をあげ、炸裂弾と散弾が雨のように降り注ぐ。
爆風と鉄片が吹き荒れるたびに、歩兵は藁人形のように薙ぎ倒され、将校も橋の欄干に潜む狙撃兵によって次々と斃れていった。
「被害を恐れるな! 続けて突っ込め!」
司令部の命令は苛烈さを増すばかりである。
この焦燥の理由は明白だった。作戦前より、北方の大軍港レズニンにおいて、ライバルであるグレーフェ中将の第四師団が優勢を保っているとの報が届いていたのだ。
かくして、朝より続いた総攻撃は四時間に及んだ。
戦果はゼロに等しく、戦傷者のみが雪崩のごとく積み上がり、唯一“活況を呈した”のは後方の救護所であった。
◇◇◇◇◇
「閣下、これ以上の攻勢は無意味にございます」
参謀長シュタイナー大佐の声はかすれていた。度重なる突撃の失敗を見てきた彼の顔色は蒼白で、机上に散らばる損害報告書が、その言葉を裏付けていた。
「……むむむ」
ホーフマン中将は椅子に沈み込み、唇をかみしめる。目の前の現実は不名誉であり、何より昇進競争での遅れを意味していた。
「最寄りに位置する第一混成旅団へ支援を求めるのがよろしいかと」
大佐は一歩踏み出し、低く進言した。
声には必死の響きがあった。
「……あの傭兵まがいの寄せ集めか?」
ホーフマンは眉をひそめる。非正規部隊に頼るのは屈辱であり、同時に彼の評判を落としかねない選択だった。
「左様にございます。あの連中に功を譲っても、閣下の昇進を脅かすことはございますまい」
言葉は狡猾だが、実際その通りでもあった。
功績を上げても“非正規”である第一混成旅団に出世の道はなく、むしろ利用するには格好の存在であるのだ。
「ふむ……なるほど。確か司令官はバーレ少将だったな。すぐに使者を送れ」
決断の瞬間、ホーフマンの声はわずかに安堵を含んでいた。だがそれは、彼の名誉よりも実益を優先した苦渋の選択であった。




