第51話……秘密裏の外交
「閣下はなぜ、あのような場所へ?」
私は、煤けた鉄の匂いが漂う病室で、最大の関心事を単刀直入にメンゲンベルク宰相にぶつけた。
窓の外では、蒸気機関の唸りが街の鼓動のように響き、巨大な飛行船がガス灯の明かりに照らされ、夜空を漂っていた。
宰相は、乾いた手の指を組み、薄い笑みを浮かべた。
「ふむ、フォーク大尉、君は私の命の恩人だ。少しばかり話してもいいだろう。君は我が帝国最大の敵はどこだと思う?」
「共和国でありますか?」
私は即答した。共和国――今や帝国最大の工業都市を併呑し、その国力は破竹の勢いだ。
「今の我が帝国単独では、共和国の強大な軍勢に抗しきれん。そこで、味方が欲しかったのだよ……」
宰相は声を潜め、まるで歯車時計の秒針が刻む音に合わせるように語り始めた。
我が帝国の東には、連邦というもう一つの強敵も控えている。
広大な領土と無数の兵員を擁する連邦は、西の共和国と並ぶ脅威だった。そのため、宰相の政権は遠く海の彼方、ワット連合王国との同盟を模索したという。
ワット連合王国――その名は、航続力に優れた大型帆船での交易で栄える中規模の国家だ。人口は多くないが、海路を支配する彼らの水上戦力は侮れない。
巨大な鉄骨でできた港には、蒸気船や大型帆船が停泊し、機械仕掛けの歯車が唸りを上げる。
だが、彼らもまた、陸戦では共和国の大陸最強とも言われる陸軍に敵わない。
だが、共和国を野放しにすれば、いずれ海路も脅かされるだろう。
「共和国のスパイが帝国中に潜んでいる。だからこそ、あの茂みの近くの街外れの廃工場で密かに会合を設ける予定だったのだ」
と宰相は続けた。
共和国の監視の目をかいくぐり、帝国と王国はひそかに手を組み、秘密裏に力を蓄える計画なのだという。
「……なるほど」
私は、鉄製の椅子に深く腰を下ろし、頷いた。
部屋の片隅では、蒸気パイプがシュウシュウと音を立て、壁に掛けられた巨大な歯車時計が時を刻んでいた。
話し終えた宰相は、突然、鋭い眼光を私に向けた。
「秘密を知った以上、フォーク大尉、君にも一役買ってもらうよ。暗殺者を一人で退けた君の腕は見事だ。まずは二週間、私の護衛兼運転手を務めてほしい。軍の人事には私が手を回しておく。私の蒸気自動車を操るのも、君なら問題なかろう」
「は……はい、かしこまりました!」
私は思わず背筋を伸ばし、敬礼した。
宰相のお忍び用の蒸気自動車――それは、古びた真鍮でできたオンボロ車で、どこからどう見ても政府の要人が乗っているようには見えないモノと説明を受けた。
こうして私は、メンゲンベルク宰相の運転手と警護を務めることとなったのだった。
ガス灯の揺れる街角、蒸気と鉄の響き合う帝国の未来を背負いながら、私の新たな任務が始まったのだ。
◇◇◇◇◇
翌朝――。
ガス灯の薄明かりがまだ街を照らす中、私はメンゲンベルク宰相の命を受け、オンボロ蒸気車のハンドルを握った。
宰相は療養中のため、私が代わりに郊外の廃墟と化した工場へと向かい、ワット連合王国の非公式外交官と接触する任務を負ったのだ。
主な仕事は機密文書の受け渡しだ。宰相の秘書から手渡された真鍮製の封筒には、歯車仕掛けの錠が施され、中には帝国の命運を左右する書類が収められていた。
私はそれを王国側に渡し、代わりに王国側の書類を受け取る――単純だが、危険極まりない任務だった。
人目を避けるため、私は時に煤けた農夫の外套をまとい、時には小さな商会の事務員を装った。
蒸気車の排気管から吐き出される白い煙を隠すため、霧深い夜道を選び、真鍮製の車輪が石畳を軋ませる音を最小限に抑えた。
「そこの車、止まれ!」
ある夜、検問所の警官がランタンを振り、甲高い笛を鳴らして私を呼び止めた。
だが、機密文書の存在は味方の警官にすら知られてはならない。帝国の未来がかかったこの任務を、誰にも漏らすわけにはいかなかったのだ。
私はアクセルを踏み込み、蒸気車のエンジンが咆哮を上げると、検問を強行突破した。
背後では警官の乗る新式の蒸気バイクが追いすがり、火花を散らす追跡劇が夜の闇を切り裂いた。
私は何度も追っ手を振り切り、闇に紛れて任務を遂行したのだった。
二週間後――。
幾多の危険をくぐり抜けた末、ワット連合王国から秘密裏に特使が訪れた。
軍病院の粗末な病室――古びた真鍮製のベッドと蒸気暖房のパイプがむき出しの部屋で、非公式ながら軍事および経済協定の調印が行われたのだ。
外交文書には、真鍮のペンで署名が施され、歯車仕掛けの封印機がカチリと音を立てて協定書を閉じた。
帝国と王国は、共和国の脅威に対抗する絆を、ひそかに結んだのだ。
「さて、フォーク大尉、君の任務、ご苦労だった」
メンゲンベルク宰相は、指で机を軽く叩きながら、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
部屋の片隅では、蒸気時計が規則正しく時を刻む。
「報酬はこれでいいかね?」
宰相が差し出したのは、帝国の軍需装備局の紋章が刻まれた真鍮製の契約書だった。
私は息を呑んだ。書類には、私がユンカース商会として秘密裏に開発していたゴム製の長靴――蒸気と泥濘に強い軍用靴が、帝国軍の正式装備として採用されることが記されていたのだ。
「閣下、これは……!?」
私は驚きに声を震わせた。
「ははは、我が帝国の情報部も捨てたものではないだろう?」
宰相は満足げに笑った。
「君の商会が密かに進めていた有意義な研究を、我々は見逃さなかったよ」
「ありがとうございます!」
私は深く頭を下げた。
こうして、ユンカース商会は帝国の軍需産業という巨大な市場に食い込むことに成功した。
そこは、蒸気と鉄の時代において、商会に莫大な利益が望める、輝かしい市場だったのだ。




