第49話……魔炎石の帝国とゴムの賭け
――聖帝国暦917年10月。
帝国領は止まらぬ物価高に喘いでいた。金との兌換を失った紙幣を、財政難に喘ぐ政府が際限なく刷り続けた結果だった。
市場ではイシュタル小麦や林檎の値段が跳ね上がり、買えぬ民は次々と盗みに手を染めた。
「要するに、金に代わる何かさえあればいいのだろ?」
宰相メンゲンベルクは、議事堂内にある執務室の重厚なオーク材の卓を叩き、言い放った。
彼の提案は苛烈だった。蒸気文明の心臓たる魔炎石を国の専売とし、民間の魔炎石鉱山を強制的に接収するというものだった。
「動くな!」
「両手を上げろ!」
帝国各地で命令に逆らう商会には、黒光りする蒸気銃を携えた武装警官隊が雪崩れ込んだ。
経営者たちは銃口を突きつけられ、権利書を力ずくで奪われた。
この強権政策は、意外にも民衆の喝采を浴びた。工場や鉱山で資本家に酷使されてきた庶民にとって、富の偏在は我慢の限界を超えていたのだ。
「これで新紙幣を刷る!」
政府は魔炎石を裏付けとした兌換紙幣を復活させた。
紙幣には「魔炎石と交換可能」と銘打たれ、市場は急速に落ち着きを取り戻した。
物価は安定し、街には再び活気が戻ったのだった。
宰相メンゲンベルクの名は、この大胆な経済政策により帝国中に轟いた。
美しい真鍮製の歯車のように、彼の名声は燦然と輝いたのである。
◇◇◇◇◇
物価高騰がようやく落ち着いた頃、私は蒸気機関車の汽笛を背に、帝国中を駆け巡っていた。
ユンカース商会の新商品であるゴム製タイヤの売り込みに、奔走する日々だったのだ。
「……ふむ、確かに良さそうな品だが、ちと値が張るな」
「左様でございますか」
私は帝国中の車輪工房を回ったが、反応は芳しくなかった。
やはり問題は価格だ。ゴムタイヤは、鉄や木の車輪に比べ快適だが、驚くほど高価だったのだ。
大量生産でもすればコストを抑えられるが、それには大量の注文が不可欠。だが、現実は厳しく、注文は一向に増えない。
私は駅で蒸気機関車を降り、煤けた革コートを翻して蒸気自動車に乗り換えた。
思った以上にゴムタイヤは売れず、すでに発注済みの原料が倉庫に山積みだ。商会にとって、これは死活問題だった。
「……ふう」
山道を走らせながら、私は煙草に火をつけた。紫煙を吐きつつ、胸に重くのしかかる責任を噛みしめる。
まだ結婚式は挙げていないが、私には若き婚約者ミンレイがいるのだ。
商会が破綻すれば、ユンカース子爵家そのものが没落しかねない。かつて傭兵として蒸気銃を握っていた頃とは、背負うものの重さがまるで違う。
……ふと、かつての婚約者である彩の顔が脳裏をよぎる。金と地位ある男に心を奪われ、去っていった彼女。
もし落ちぶれたなら、私からミンレイも同じように離れていくのではないか――そんな不安が、胸を強く締め付ける。
「……なんとかせねば」
屋敷に戻り、夜が更ける中、私は商会長の席で頭を悩ませた。
ゴムタイヤは確かに便利だが、この高い価格では誰も必要としない。何か、突破口となるアイデアはないのか。
「ポコ~♪」
そこへ、狸のポコリーヌがひょっこり現れた。
外は雨模様らしく、その小さな足は泥水で濡れている。愛らしい姿に一瞬心が和んだが、すぐにひらめきが閃いた。
「そうだ! その手があったか!」
「ポコ!?」
私の大声に、ポコリーヌが目を丸くして驚く。
窓の外を見れば、東の空が白み始めていた。
私は急いで革コートを掴み、蒸気自動車に飛び乗った。煤と油の匂いの中、港湾都市フォボスへ向けてアクセルを踏み込んだ。
きっと道が開ける――そんな予感を胸に、車は夜明けの帝国を突き進んだのだった。
◇◇◇◇◇
「おう、旦那。ずいぶん早ぇな」
港湾都市フォボスの小さな造船所に飛び込むと、工場長ラングはちょうど朝食の真っ最中だった。
煤と油にまみれた大きな四角いテーブルを囲み、若い工員たちがパンとスープを口に運んでいる。
「ラングさん、この図面のもの、作れますか?」
私はラングの朝食を無遠慮に脇へ押しやり、鞄から取り出した大きな紙を広げた。
そこには、ゴムタイヤに代わる革新的な新製品の設計図が描かれている。
「……ふむ。だがよ、これを作るには丈夫な動物の皮も必要になるんじゃねぇか?」
ラングが図面を覗き込み、顎をさすりながら呟く。
「仕入れは任せてくれ」
私は決意を込めて答えると、鞄の底から虎の子の大銀塊を取り出した。ずしりと重いその輝きに、工員たちの目が一瞬光る。
「これを銀行で換金して、すぐ良質な皮を買い付けてくる」
「わかった。じゃ、準備して待ってるぜ」
ラングはニヤリと笑い、朝食を中断されたことなど気にも留めない様子で頷いた。
私は彼らに別れを告げ、蒸気自動車に飛び乗った。
銀行の窓口に着き、カウンター越しに銀塊を差し出す。
すると、ずっしりとした紙幣の束が返ってきた――噂の新紙幣だ。手に取ると、確かに「魔炎石と交換可能」と印刷されている。
メンゲンベルクの経済政策は見事だ。物価は安定し、市場は活気を取り戻している。
だが、胸に苦い思いがよぎる。ユンカース商会が細々と経営していた魔炎石鉱山も、政府の強制接収で雀の涙ほどの対価で接収されたのだ。
事前に資産の大半を銀塊に換えていたのは正しい判断だったが、このゴム事業が失敗に終われば、商会は――いや、ユンカース子爵家そのものが終わる。
私は大量の紙幣をカバンに詰め込み、蒸気自動車のアクセルを強く踏み込む。
フォボスの朝霧を切り裂きながら、皮の仕入れ先へと車を走らせた。この一手が、未来を切り開く鍵となる――そう信じて。




