第46話……民衆の蜂起
話は少し時間を遡り、聖帝国暦917年8月下旬――。
帝都エーエレンベルクの空は、煤と煙に覆われていた。
無数の飛行船が吐き出す蒸気と、砲声が響き合い、街は戦火の只中にあったのだ。
長引く攻防戦は、帝国と共和国双方に深刻な損失をもたらし、もはやこれ以上の戦いは無益と誰もが感じ始めていた。
帝国の宰相、レーマン侯爵は連日閣議を重ね、ついに条件付きの降伏という苦渋の結論に至った。
この案は皇帝の承認を得、侯爵は全権大使として、政府所有の巨大な蒸気飛行船「インペリアル・ウィンド」に乗り、共和国の首都へと交渉に向かった。
船体を覆う真鍮の装飾が陽光を反射し、煙突から吐き出される白い蒸気が空にたなびく姿は、未だ落ちぬ帝国の威厳を象徴するかのようだった。
……だが、交渉の場は予想外の混迷を極めた。
東国のパニキア連邦が突如として交渉の席に着いたのだ。
連邦は、戦場で目立った戦果を上げていないにもかかわらず、帝国に対し領土の割譲を要求してきた。
この大胆な提案に、共和国はなぜか強い賛同を示した。
共和国の交渉団は、歯車が複雑に絡み合った機械仕掛けのテーブル越しに、冷ややかな笑みを浮かべながら連邦の要求を支持し続けたのだ。
帝国にとって、負けてもいない連邦に領土を譲るなど、到底受け入れがたい条件だった。
レーマン侯爵は、鋭い眼光で連邦の使者を睨みつけながらも、帝国の誇りを胸に苦しい交渉を続けた。
しかし、その間も戦火は止まなかった。
共和国の飛行船部隊は、蒸気機関の唸りを響かせながら帝国の都市や村々に空襲を繰り返し、蒸気砲弾の雨を降らせた。
抵抗を続ける地方都市では、巨大な蒸気砲による砲撃が昼夜を問わず続き、農村では略奪が横行した。
空を覆う黒煙と、炎に照らされた民の悲鳴が、帝国の心をさらに重くしたのであった。
……そして、9月を迎えた頃、ついに停戦交渉が成立した。
共和国の飛行船は攻撃を停止し、蒸気機関の唸りも静まり返った。
帝都の空には、再び青空が覗き始めたが、戦火の爪痕は深く、帝国の未来はなお不透明なままだった。
レーマン侯爵は、交渉の成果を手に飛行船で帰還したが、その顔には酷い疲労が刻まれていた。
◇◇◇◇◇
停戦から三日後の聖帝国暦917年9月初旬――。
帝都エーエレンベルクの石畳の通りは、砲撃と空襲の傷跡がまだ生々しく残っていた。
煤けた建物とひび割れた蒸気管の間を、新聞売りの少年の甲高い声が響き渡る。
「号外! 号外! 講和条約の全貌判明!」
市民たちは、まるで飢えた獣のように新聞を奪い合うように買い求めた。蒸気機関の残響が遠くで唸る中、人々は紙面に目を落とし、たちまち顔を歪めた。
「……なんだ、この条約は?」
「政府の連中は何をやっておるんだ!」
講和条約の内容は、民衆の怒りを爆発させるに十分だった。帝国は共和国に対し、ルーラン河以西の広大な領土の割譲を約束していた。
その中には、帝国の蒸気工業の心臓部であるアキュラの街――無数の蒸気炉と真鍮の歯車が昼夜を問わず動き、帝国の繁栄を支えてきた要衝――も含まれていた。
さらに、新聞の片隅には、パニキア連邦への帝国領東部の割譲も記されていた。戦場で目立った戦果も出せなかった連邦への譲歩に、民衆の憤りは頂点に達したのだ。
「こんな条件、飲めるかよ! ふざけるな!」
「政治家どもが帝国を売ったんだ!」
安酒場が軒を連ねる帝都の裏路地では、煤けた鯨油ランプの下で、酒と愛国心に酔った民衆の叫び声が響き合った。
純度の低い真鍮製の酒杯が床に叩きつけられ、熱狂はまるで溶鉱炉の熱のように膨れ上がった。
夜が明ける頃、その怒りは暴徒と化し、政府機関へと襲いかかったのであった。
警察詰所には火炎瓶が投げ込まれ、蒸気管が破裂する轟音と共に、帝都は騒乱の渦に飲み込まれていった。
この騒乱は帝都に留まらず、帝国全土に飛び火した。怒れる民衆は商店を襲い、高価な蒸気機械の部品や食料を略奪。
破壊された店先からは、壊れた歯車や真鍮の破片が転がり落ちた。
「暴徒を押さえ込め! だが、発砲は禁止だ!」
帝都の治安維持は軍部の管轄外であり、警察のみが対応に追われた。
警察長官トーンは、煤と汗にまみれた顔で、帝国中の警察隊に鎮圧を命じた。警官たちは真鍮の装飾が施された警杖を手に、蒸気馬車で各地に急行した。
だが、民衆はマスケット銃や古びた蒸気銃を手に抵抗を始めた。
歯車仕掛けの拡声器から放たれる「武器を捨て、解散せよ!」との呼びかけは、銃声と怒号にかき消された。
各地で警察隊は死傷者を多数出し、事態は制御不能に陥った。
トーン長官は、歯を食いしばりながら決断を下した。
「やむを得ん! 軍に出動を要請しろ!」
「はっ!」
軍の出動が決定すると、蒸気装甲車とマスケット銃を装備した兵士たちが街に展開。重々しい軍靴の音と、蒸気機関の唸りが響き合い、騒乱はようやく鎮静化した。
……だが、帝国の空気はなお重く、煤けた空の下で民衆の不満はくすぶり続けたのであった。
この未曾有の混乱を重く見た皇帝は、ついに断を下した。レーマン侯爵をはじめとする閣僚全員を罷免し、臨時の帝国議会を二週間後に招集する詔を発した。
議事堂の巨大な蒸気時計が時を刻む中、帝国の未来は新たな局面へと突き進もうとしていたのであった。




