現状分析
起きた。
目が開いて一番に飛び込んできたのは、空がいい感じに晴れているという事実だった。
雲は遠くの空にかかり、寝転んだ視界の上方に移る崖の断面は軽く乾燥している。かといって崖下は直射日光が避けられるギリギリに位置しており、べたつかないレベルで適度に乾燥、風も涼しく、明るすぎもしない。いい天気だ。日向ぼっこするには丁度良い。
じゃなくて。
(何かが乾燥して顔に張り付いてる……血?)
鼻をスンスン鳴らして辺りの匂いを嗅げば、漂っているのは血生臭いとしか形容できない何とも言い難い鉄の匂い。
自分の記憶が正しく、かつあれが起き抜けの寝ぼけとか悪夢とかいう非現実的な世界でなければ、これは創志が殺した野犬(仮)の死骸だろう。
思わず動揺して、二度寝しようとする。
(……何で?)
自分で自分にセルフツッコミ。といっても行動の選択肢は実質二つしかないので仕方ない。これが赤ん坊でなければ他に建設的な動き方も考慮する価値があったというのに本当に仕方ない。決して面倒だったわけでは無い。
(というか選択肢といえば……)
昨日――といっても前回起きていたときが本当に一日前という保証はないが体感的にはそうだ――起きている間は赤ん坊には選択肢が二つしかないとか言ったが、実際にはこの世界に限って言えば赤ん坊は実は選択肢がまだあったようだ。「見る」「寝る」以外に剣気を放つという実に物騒な三つ目が。
(……まさかの第三の選択肢があったか)
突然の覚醒の後、つい襲われた時の癖で剣気を放ち鮮血のシャワーを浴びることになった昨日の自分。久しぶりに生命の危機をまじかに感じて眠りから覚醒、攻撃したのだが精神は鈍っていなかったようだ。
ちなみに肉体は鈍るというかそもそも鍛えてすらいないのでこの表現は適切ではない。どっちにしても体を動かせないレベルなので動けないという意味ではあまり本質は変化がないが。
そんなどうでもいいことに思考を費やしながら、辺りの様子を眼球の動きだけでキョロキョロと調べていく。
まだ首がすわっていないのでどうしても確認できる視界は極端に狭められているが、行動と予想に従って視線を動かせば周囲の情報くらいは大抵が認識できる。
辺りに散らばる赤黒く変色した血の跡。頭部が粉砕し、体に乗り上げない程度の足元に倒れている首なしの狼の死体。耳元には何らかの顔面を形成するパーツが散らばっている気もするが、精神安定の為に極力そちらは見ない。
鋭い切れ味の刃物に何度も刃を振り落されて切り刻まれたというのではなく、鈍く強靭な鉈のような刃物を水気を含む果物を力任せに叩き割った後が現状を言い表すのに最も近いかもしれない。辺りに散乱する肉片はどう見ても斬線に沿って正しく切った跡ではなく、剣理を知らない子供が力任せに暴虐を尽くしたような様子がある。
一応生前は剣士を自認していた人間の一人として斬殺はまだしも撲殺は主義主張に反するのだが、いくら創志が真剣に物事を考えない性質だからと言って、現状の論点はそこでは無い。
剣気というのはかつての創志が最も多用した魔法の一つであり、魔力が無くても使える不思議な異世界の理ということである。
なんでもこの世界の人間には生まれつき三種類の存在がいるらしく、一つ目は魔力を体内に蓄えることができ、それを意思のままに自在に扱える保有種。二つ目は魔力は体内に持たないが周囲の魔力にある程度干渉できる干渉種。三つめがその両方の性質を併せ持った魔導種だ。
まず魔力を持つ保有種という存在に関して言えば、その特徴はそのまんま体内に魔力を保有しているということであり、体内に魔力があるという特性を活かして体内で魔力を変質させたり、術式として魔力を編み上げるといったいわゆる魔術や妖術とった術式が使えるということである。
術式というものには様々な系統があり、一般に知られているのは魔力を使う魔術式、妖力を使う妖術式、信仰祈力を使う祈祷術式、種族ごとに存在する特有のエネルギー源を使った固有術式、個人によって使えるかどうかが異なる独創術式などが存在し、知られていない少数派では、呪術、怨術、命術、魂術、禁術という実に犯罪職溢れるラインナップがある。
これらの全ての術式では、魔力などのように、可能性の起源を形として成した何らかの”力”を体内にとどめて置ける”受け皿”を精神に持っていることが使用の為の最低条件であり、術式系統は保有種か魔導種しか使えない。
となると干渉種は何ができるのかという問題になるが、干渉種は精神の”形”で周囲の魔力を”引き摺り”、現実の事象を”塗り替える”魔法と呼ばれる能力が存在する。
具体例を挙げれば「一メートルの長さを誇る大剣を一振りするのと同時に剣撃の魔法を発動すれば、その剣を振った一瞬後を同じ軌道で三メートルほどの巨大な刀剣を模した光の一撃が発生する」といったようなものである。
この場合は、「剣を振る」という行為によって使用者の精神が「三メートルの光の剣撃という攻撃を生み出すための精神」へと没入し、それによって使用者の支配できる範囲の魔力が、使用者の精神に引きずられて「光の剣撃」を構成する。結果、魔法である剣撃が発動するといった具合である。この魔法を起こすためのトリガーである「剣を振る」という行為を何度も何度も練習すれば精神が自然と剣撃を放てるようなるという方法でしか習得できず、他にも槍の一撃である槍撃や棍の一撃である棍撃も存在するが、干渉種が魔法を使うには地道な努力が一番の近道である。
達人でなくとも上級者であれば、実際には剣を振らないでも剣を振る感覚で剣撃だけを発動させるという芸当も可能である。が、個人個人で精神の容量というのが決まっているので、そこまで剣撃に熟達すると今度は逆に剣撃以外の攻撃を放てなくなってしまう。
要は、干渉種の達人であれば、その道の武器以外ではしっかりとした魔法の一撃を放てないことが決まってしまうのだ。
術式と魔法についてはどちらが優れているのかという話も論争もあるが、そういった一切合財の話を無視すればここにあるのが大体の特徴を捉えた説明である。どっちかというと術式の方が使用用途でも強度でも優れているっぽい感じだが、干渉種の方が人数自体は多いので技術は発達していた。
だがそもそも魔法ではそんなに複雑な事象を表現しきることは出来ないとかなんとか制約もあるのだが……思い出すのも面倒なので割愛。ここら辺から、思い出したくもないスパルタな魔法使いに教えられた記憶が蘇ってきそうだったので封印する。
さて、話は創志のことだ。かつてこことは異なる魔法も魔術も使えない世界から召喚された創志であれば、本来はそのどれにも当てはまらないのだが、幸いというべきか、異世界転移で次元間の壁を越えた時に精神または魂の素体とでもいうべき人間の本質に手が加わって、この世界に適応していた。結果、前世までは純粋な干渉種となっていた創志である。
転生の時は確か、魂の規格が輪廻転生の輪に合わないから心を変質させて来い、といわれて転生させられた創志である。だったら多分そこには余計な装飾もつけられてはおらず、純粋干渉種である事実は変わらないはずだ。
(……くそっ! せめて転生したんだからちょびっと位魔力があって術式が使えるとかいう夢があってもいいじゃないか! 空を飛ぶとか! 男のロマンなのに!)
自己分析がそこまで至ってから、創志は悔しさから内心で叫び声を上げた。日本に生まれた子供であれば、否、誰しもが一度は心の中に浮かべる一つの純粋な願い「空を飛びたい」 かつて保有種や魔導種は空を飛ぶ術式を開発しとんでいた姿を地面から眺めなくてはいけなかった一人の男の魂からの叫びだ。
その後約十分間、創志は魔力がないことが端を発した、空を飛べないことによる不満を思い浮かべては暴走していた。
★★★★★
(……さて、自己分析も終了して大体の自分の状態も把握したし、お次は今後の方針だな……)
思考の暴走の後、ようやくといっていいのか、創志はこの後どうやって生きていこうかという方向に考えを向け始めた。
とかなんとかいうが、仮に創志がここで生き抜こうと思ったら方法は現在一つ思いつくのであり、その方法は極めて不本意であるがそれ以外方法が思いつかなかったのでだらだらと他の方向に思考を向けていたのだ。
その極端に不本意な方法というのは「襲ってくる生き物の血を主食にする」ということだ。
現状、自力で動けない創志である。
しかし動けないからと言って、すなわちそれが食べなくていいというわけでは無い。
創志も生き物として生を受けた以上、何らかの生き物を殺傷し、捕食して行かなくてはいけない。
しかし創志は現在生後十日弱の赤ん坊。首も座っているとは言えないような状態で移動も出来ない。
ということは食料を能動的に手に入れるために動き出すことは出来ないということになる。
ついでに言えば、歯も生えてないので固形物は食べられない。消化器官も弱すぎて固いものを受け付けない。周囲は崖の下であり、前方には森の入り口が見えるが、その中には固形物以外の食料がありそうには見えない。
それすなわち創志の死。端的に言ってピンチである。
そんなわけで仮に生き残ろうというんであったら、創志は自分の周囲にあるもので食べられそうなものを食べて命をつなごうとする必要がある。切実に。
そういう思考回路を辿って周囲を見回してみると、どうしても彼の栄養源として働きそうな条件をクリアしているのは「先ほど殺した野犬の血液」なのだ。血液を直接飲むという行為に、衛生面の不安と人間的な忌避感を催してしまうのは赤ん坊としてとして致し方ないだろう。
それでも理性的に考えればどうせここで何も食べなければ死ぬのだから、飲んでから確率にかけて死んだ方がまだましだろうという結論をはじき出している。感情の方を考えてみれば、まともな倫理観を失っている感情の大部分は「吸血鬼みたいだけど血を飲むのも面白そうだな」と適当な返事を返してきており、人間的忌避感はほとんどないといっていい。
……あれ? 結論出てる?
(……そういえば、生前の知り合いで狩った後の魔物の生肉を直接食ってた民族がいたよなあ……)
かつて世界を勇者他三人の仲間と冒険したときに、思えばそんな民族にぶち当たったような気がする。
確かあれは、森林の奥にいる竜との盟約を取り付けに行くための冒険の途中だった気がするが……その旅路の途中で森の中にいた彼らと会ったときには、恐ろしいカルチャーショックを受けたものだ。
実にワイルドな民族であり、木材を削り石を研いで作った矢じりとした矢を反りのある木材と植物のツタを使って作った弓で兎を射ち、狩ったばかりのウサギ肉を皮も剥がずに生で齧ったりしているのは日常茶飯事。一週間くらいそこいらにほっといて腐……ごほん。発酵しかけて恐ろしい匂いの肉をそのまま火を通さずに食っているのを見た時など、あまりにもショッキングなその光景にすぐさま荷物をまとめて全力で城に逃げたくなった。
後から聞いた話では、他の旅の仲間もそれぞれにトラウマになる壮絶な経験をしており、あの時ばかりは日頃から依頼から抜け出しまくる創志に同調して王城に逃げ戻ろうかと思ったとしみじみと語っていた。
何となく、非常に極小の自分の中に残っている躊躇いは、きっとあの民族と同一レベルになるのに抵抗があるんでないかなあと言いたくなるほどには、創志にとっても壮絶な経験だった。
なにはともあれ。
(結局食べるんだったら生き物の血だよな……多分予想だけど、この血の匂いに惹かれてやってくる動物も結構いそうだし、どうせ撃退するなら食料にした方が体力的にも無駄がない)
現在、創志が外的脅威に対抗する術は「剣気を放つ」一択である。しかもその行動をとれば脆弱な体は反動で気絶する。
なので撃退にも一苦労であり、倒した敵は出来れば有効に活用したい。
数々の理論武装を身に着け、創志は未だに躊躇う自分の口を大きく開いた。
(頑張れ俺! 生きる目が見えるのにそれを放棄するなんて勿体ないだろ!)
どうしようもなければ死ぬことも諦めるが、どうにかできるのだったら諦めるのは癪だ。
いろんな理屈を考えたが、根底では意地一つで野犬の命の元である血を啜り始める創志。既に死後何時間たったのか分からないが、野犬体内の血液は大部分が凝固しており実に飲みにくい。ついでに鉄臭いのと生臭いのと合わさって、味もひどいことになっている。
吐きたくなるような味である紅の液体を口に含み、喉を通して嚥下していく。啜っている内に吐き気もこみあげてくるが努めて無視。いつか動けるようになったら美味しい食べ物を腹いっぱい食べることで釣り合いをとることを心に誓いながら、長い時間をかけてどうにかこうにか飲める分は飲み切った。
非常に口に合わなかったので次はやりたくないと思いつつ、うろ覚えの知識でゲップを一つ。確かこれをしないと、赤ん坊は飲んだものを吐いてしまうのだ。仰向けで吐いたりしたら冗談抜きで窒息死の危険があるので忘れないうちにやっておく。
後は自分の体がどうにかこの血液を消化しきることを祈るのみだ。
(……寝よう……)
やることもなくなり襲ってくる敵もいなさそうなので、赤ん坊に与えられた選択肢二を選択した。