朽ちた島
悪い予感なんて当たるべきではない、と心底思う。
だが生前を振り返り、二十年にも満たない人生を考察に入れてしまえば、「悪い予感は当たる」という言葉には万感の意を表して頷かざるを得ないところがある。
根拠がない。なのに当たる。しかも最悪の想像が。
これだけでも厄介なのに、下手を打てば想定上の更に下を更新して最悪が底知らずに抜けていくときだってあった。潜った修羅場の数は伊達では無い。人質救出、要人警護から悪竜退治まで、どれも面倒な事ばかりやってきた記憶は今も創志の中で苦い記憶として残っている。
そしてその嫌な予感に鍛えられた第六感は、その所有者である創志に嫌になるほど鋭敏に純然たる危険を知らせてきた。
「くっそ、間にあえよ……!」
海の水が爆散する。滝のように流れてくる水を邪魔だといわんばかりに何の変哲もない鋼の一刀のもとに叩き切り、今の自分の出せる全力で地面を蹴りつける。ペース配分さえ考えないその速度でさえ、ここに来るまでにかかった二時間を考えると、三十分はかかる。
そして五分あれば、戦闘は容易く収束してしまう。
間に合わないかもしれない。
仲間が危険な時に、助けられないのかもしれない。
強烈な危機感と焦燥感の中で、二度生まれてから初めて、創志のリミッターが徐々に外れ始めた。
本人すら意識しない内に。
★★★★★
およそ創志が島の異変に気付く三分ほど前のこと。
島では生き物にとって致命的な災害が発生していた。
もしそこが、今朝までは緑あふれた自然豊かな場所であったといっても、誰も信じられないだろう。
元は廃墟で百年くらい前から不毛の大地だった。そういった方が信憑性が出てしまうほどに、眼の前の惨状は信じがたい。
つい先ほどまで緑に溢れ、木々が生い茂り、時折動物たちのいた山の斜面は見る影もなく寂れ、あらゆる植物が朽ちている。
川を流れていたはずの水は干上がり、底にあった石が地面に顔を出してしまっている。その石も乾燥していて、どうにも水があった気配自体が感じられない。
その下流にあった湖はそれに輪にかけて酷く、完全に底が見えると同時に、大量の魚の死骸がミイラとなってあちこちに転がっている。
まるで生きとし生けるものの命全てが朽ちて干からびたような光景に、それらを見渡せる位置にいたリナとロドは言葉もなかった。
「……これは、病? それとも呪い?」
「いえ、恐らくは誰かが人為的に行ったのでしょう」
ようやく立ち直ったリナが堅い声で聴けば、ロドも堅い表情になってその推測を打ち消す様に話す。この場合、リナの方が精霊として格が上であるために、何らかの自然物からの得られる情報も精度が高いのだが、経験と予備知識の段階でロドの方が圧倒的に優れている。そして彼は目の前の惨状を行えるだけの人物に対して心当たりがあった。
ただロドの知る限り、その男は死んだはずだ。精霊と敵対し、強烈な魔術で敵を壊滅させ、人心を揺らすほどの大罪人は、協力した集団とともに殺害したはずなのだ。
しかし、目の前の惨状を行えるだけの存在となると、やはりその男しか思い浮かばない。最悪、その男と同じだけの実力を持った存在がいるのかもしれない。
現在島の八分の一が意味不明の状態に侵食され、今なお、その範囲はまるでスライムやアメーバの動きのようにゆっくりと広がっている。
「リナ様」
ロドは硬い表情を崩さぬまま口を開く。
「私が原因に心当たりがあります。ですが、もし万が一その私の推測が正しければ、私もリナ様も……下手をすればソージも対抗の手段は無いかもしれません。私が時間を稼ぎます。その間、この島の精霊の逃げ道を作るために精霊界への扉を開いてはいただけないでしょうか?」
ロドの言葉は、この島にいる自然に属した精霊たちの救出のための言葉だった。最早初めからこの災害を止めることが叶うと考えていない恐ろしく消極的な提案。ただ、それを提案するロドは、まるで実現不可能な困難を成し遂げようとするかのように顔を顰め、鬼気迫る気配を全身から放ち始めている。
リナは、上級精霊でもあるロドがそこまで言い、そしてそこまで緊張するという事実に、事態が自分の予想を超えて酷いものだということが理解できた。創志との戦いを五年は続けてきたリナであっても、未だ精霊としての戦い方はロドに遠く及ばない。
高い潜在能力を秘めているからこそ、今の惨状を自分が再現するとしたら、あと二百年はかかるということが本能的に分かる。その事実を考慮に入れて、動かなくてはいけない。
本当は、ロドからいくつも聞きたいことがあった。この敵の情報然り、何が原因なのか然り。
ただ、それを許してくれるほどに時間に余裕はなさそうだ。
「……分かった。でも絶対に戻ってきて」
結局リナの結論は、ロドの提案に乗ることだった。
「御意」と一言つぶやいてリナの視界から一瞬で消えるロド。
自分が部下とも保護者ともいえるロドをまるで捨て駒のように扱わないといけない無力に唇を噛みつつも、ロドから頼まれたことを一刻も早く実行するために、霊格の高い土地へと風の精霊力で飛んでいった。
★★★★★
その人影をもし誰かが見ていたら、まず連想するのは「不吉」だろう。
星一つない真っ暗な夜から人の形を切り離し、それが自律的に動いていれば男のようになってしまう。そう思わせるだけの夜の気配を漂わせ、しかし、夜その者といってもいいほどの圧迫感を感じさせるほどの強い力の気配。
辺りに漂う匂いの濃い花を集めたようなくどいほどの甘差を感じる空気には、官能と死の気配が溢れ、近寄れば燃え尽きてしまうような危険さを感じさせる。
そして事実、その魂に獣の凶暴性と高い知能、そして強い享楽的思考をつぎ込んだかのような形で作られたことをロドは知っている。目の前の男が精霊と、否、まともに生きている生き物と恐ろしく相性が悪いことを知っている。
黒いコートを羽織り、黒の靴を履き、黒の紳士服を纏い、全身を黒で統一したこの男こそ、世界の調律を乱す組織の最高戦力だったのだから。
「久しぶり、といっていいのか分からないが、素直に出てきたらどうだ? 別に知らない仲じゃあるまい」
「ふざけないでいただきたい。知らない仲といったらまるで親しいように聞こえかねない。是非ともその表現は訂正してほしいですね」
その不吉を連想させる男が虚空に声を掛けると、そこからすっと音を立てずに現れたのは長い金髪を垂らした美貌の青年であり、上級精霊の一角でもあるロド。
きっちりとした丁寧な話し方を是とする彼は、今日この相手に限っては、その口調に常には感じられない毒が含まれている。普段の温厚な彼を知る者が見たならば信じられないと目を擦るだろう。
しかし男は何が面白かったのか、くつくつと堪え切れない様に手を口に当てて上品に笑い始める。ロドはそれを見て嫌そうに眉を顰めた。
「くくく……まあそう邪険にするな。俺の退屈を紛らわせてくれるほどの強い奴なんて早々いないんだ。ちょっとくらい戦いの中で芽生える友情があってもいいんじゃないか?」
「生憎と私の中で芽生えたのは憎悪とか殺意とか悪意ですね」
淡々とした口調で告げるロドは既に空中にいくつか放電する雷の球を浮かべている。大きさは成人男性の頭ほどと、そこまで大きくは無いのだが、数が尋常ではない。空一面を覆うほどの雷球が、その下の地面を昼日中以上の明るさで照らし始める。
「おいおい。知り合いにいきなりこれは無いだろう」
「先ほど言いましたが私は貴方なんぞと知り合いになんかなりたいとは思いません。そういうわけで、滅びてください」
世界言語”雷滅連撃” ロドの言葉とともに、地上にいくつもの雷を束ねた極太の閃光が落ちてくる。
―――否、落ち続けた。
一瞬で白一色に染まる視界。目を焼かんばかりの圧倒的な光量と、それを上回る暴力的音量、そしてそれが絶え間なく続くという恐ろしい事実を前にして、ロドはともかく男は周囲を知る術はほとんどなくしたといってもいい。
―――それが普通の生物なら。
「―――っち!?」
「―――っく!?」
白く発光する世界の中で、それを拒絶するかのように黒の腕がロドの眼前に迫ってくる。
”雷化”で肉体を雷速の存在と化し、その腕を本当にギリギリで首を傾けて躱す。そのまま距離を取るように瞬時に上空へ。
しかしいつの間にやら先に上空に現れた無傷の男に全力で殴られて地面に落ちる。
激突し、岩盤に大きな亀裂をいれてから地面に擦りつけるようにして遠方まで飛ばされる。殴られた瞬間に術式に対するウイルスを送られ、雷化が解けて生身になっていたロドに取って、それは無視できないダメージとなった。
「はあ、本当に異常ですね。今の一応、亜龍でも一撃で倒せると前評判があったんですが」
「それなりに痛かったぞ」
背中を焼き焦がし、纏っていた服が千切れ、どう見ても重傷になったように見えるロドだが、すぐにそれも雷と化すことで消える。自然界で最も脅威を内包する自然現象を司る彼にとって、地面に多少擦りつけられた程度ではダメージは深刻にはならない。
ただ、問題は地面に擦りつけられたということだ。より正確に言えば、雷の化身を地面に擦りつけられるだけの階梯にロドの力を追い落したということこそが、問題である。
何よりも一匹いれば国を亡ぼすことも不可能でないといわれる亜龍を殺せるほどの一撃を受けて倒せないということが厳しい。
ロドは未だ上空に浮かぶ男を見上げて声を掛ける。
「一体どういう理屈で私の雷滅連撃を無効化したのか、後学の為にも教えてもらいたいものですね」
「簡単だ。焼け落ちていく端から治していった」
化け物め。ロドは久しぶりに心の中で悪態をついた。先ほど彼が雷の束を落とした位置は、地面が溶け、空気が熱せられて少なくとも生き物が生きていける環境ではなくなっている。過酷、というよりは近づいただけで重傷を負うほどの危険地帯だ。
その中心に立っていたのに、何食わぬ顔で平然と動き、あまつさえ雷と化したロドに追いつき、触れられないはずのロドを殴ってくる。最初から全力で手札を切って向かっていったのに、一瞬で潰された。
ただ、それで諦めがつくほどにロドの肩に乗っかっているのは軽くない。同胞が逃げるだけの時間稼ぎと、リルの安全を確保しなくてはならない。
時間稼ぎ。その為にこそロドは、自分よりも遥かに強い存在に向かって行っているのだから。
「使ったのは魔術の”転移”に固有術式”再生”と”吸血”ですかね……」
「それだがな。使ったのは吸血じゃない。”吸魂”だ。どうやらあの時死にかけたことで階梯が上がったらしくてな。”固有”が”独創”に進化した」
親切にも丁寧に答えてくる男は、恐らく自分が絶対にロドに脅かされる心配がないと確信しているのだろう。そしてそれは実際に正しい。確かに先日、竜族や鬼族に人間の組織と協力して、首を落として胸に風穴を開けた存在が、再びよみがえってくるなど誰が想像するだろうか。
「他にも色々と能力に進化があってな……。未だ知らない術式も多い。頼まれついでに能力を全て把握しようと思ってな。……お前は簡単に壊れるなよ?」
「ぬかせ!」
ロドはそのまま槍を形作る槍を持って特攻する。
敵は、まだ切り札を全て切っていない。それを知っても、ロドに引くという選択肢は無かった。