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埃の積もらない街  作者: 山月 楓
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第二話 歯車を狂わせるな

頬を、気持ちの良いそよ風が撫でていく。

さらりと揺れる草の音。どこからか聞こえてくる小鳥のさえずり。


その心地よさに、俺はゆっくりと目を開いた。


「……ここは?」


視界いっぱいに、青空が広がっていた。


体を起こそうとして、手のひらに何かが触れる。


土だ。


指先を動かすと、乾いた土の粒が皮膚にこすれた。その周囲には、風に揺れる麦がどこまでも広がっている。俺は麦畑の真ん中で、仰向けに寝転がっていたらしい。


「……は?」


思わず間の抜けた声が漏れた。


自分の体を見下ろすが傷一つない。


周囲を見渡しても、見覚えのある建物も、道路も、電車の線路もない。


夢……なのか?


そう思い、俺は地面に手をついた。

ざらりとした土の感触が、手のひらにはっきりと伝わってくる。


風が額を撫で、草の匂いが鼻をくすぐった。


……とても夢とは思えない。


俺はゆっくりと上半身を起こし、額に手を当てた。


「確か……駅のホームから落ちたんだったよな」


記憶をたどる。深夜の駅。迫ってくる電車。そして、背中を押された感覚。


そこまでは覚えている。


なら、ここはあの世か?


いや、死後の世界にしては、妙に現実感がある。


試しに頬をつねってみた。


「……痛くはないな」


俺はしばらく黙り込んだあと、遠くへ目を向けた。


麦畑の向こうに、街が見える。


建物の屋根は赤茶色のレンガで覆われ、街道には馬車らしきものが走っていた。


その光景を眺め、俺は思わず目を細めた。


まるで、本で読んだ異世界そのものじゃないか。


困惑しながらも俺は思わず口角が上がった。


ここなら何にも縛られず自由に生きられるのではないか、そう思った。


いつまでも麦畑の真ん中にいるわけにもいかない。俺は街へ向かうことにした。


「まずは、ここがどこなのか聞いてみよう」


街へ続く道は、大小さまざまな石で舗装されていた。一歩踏み出すたび、靴底から硬い感触が伝わってくる。道の両側には見慣れない建物が並び、行き交う人々の話し声が耳に届いた。


その中を歩いていると、妙に視線を感じる。


すれ違う人々が、ちらちらと俺の姿を見てくるのだ。


……なんだ?


自分の服装に目を落とす。


着ているのは、いつものスーツだ。周囲を見渡してみても、同じような格好をしている人間は一人もいない。男たちはゆったりとした服を着ており、女たちも現代では見かけないような衣服を身にまとっていた。


なるほど。俺の格好が珍しいのか。


それにしても、どこを見ても現代人らしい姿がない。

俺だけが異質な存在だった。

ここは本当は、あの世ではないのだろうか。


そんなことを考えながら歩いていた、そのときだった。


「うわっ!」


足元の石につまずいた。体が前のめりになる。とっさに手を伸ばそうとしたが、間に合わなかった。


次の瞬間、俺は顔から地面に突っ込んでいた。


……あれ?


痛くない。


顔を上げ、恐る恐る自分の体を確かめる。額にも、鼻にも、傷ひとつない。手のひらにも、擦りむいた跡は見当たらなかった。


「……なんで?」


明らかにおかしい、まるで幽霊にでもなったような気分だった。


状況が呑み込めずにいると、周囲の視線が一斉に俺へと集まっていることに気づいた。


気まずさを感じながら横を見る。


すぐ目の前に、馬車が止まっていた。


「すみません! 邪魔でしたね。すぐに退きます」


俺は慌てて立ち上がり、馬車が通れるように道を開けた。


そのとき、御者の顔が目に入った。


……ん?


目は開いている。前を向いている。なのに、そこには生気が感じられなかった。まるで、魂だけが抜け落ちてしまったかのような顔だった。


「大丈夫ですか……?」


思わず声を掛けようとした。しかし、御者は俺の言葉に反応することなく、馬車を走らせてしまった。

恐怖を感じつつも好奇心が勝り馬車を追いかける。


「ちょっと……!」


呼び止めようとした、そのとき。


「おい! そこの者、止まれ!」


鋭い声が響いた。


振り返ると、黒い軍服を着た男がこちらに向かって走ってきていた。


……俺のことか?


馬車の進路を塞いでしまったから、怒られるのだろうか。だとしたら、素直に謝るしかない。

それに、ちょうどいい機会かもしれない。この街についても聞いてみよう。


「すみませ──」


声を掛けようとした瞬間、誰かに手を引かれた。


「ちょっと、何してんの! 走って!」


「えっ?」


振り向く間もなく、フードを被った少女が俺の手を引いて駆け出した。


突然のことに頭が追いつかない。俺は引っ張られるまま、石畳の道を走った。


「お、おい! 何で逃げるんだ?」


「抜け殻になりたいなら止めないわ」


「……は?」


思わず聞き返したが、少女は答えなかった。


背後から、男の足音が近づいてくる。


振り返ると、黒い軍服の男はまだ俺たちを追いかけていた。


「……しつこいわね。こっち来て!」


少女は道の脇にある扉を開け、俺を引っ張り込むようにして中へ入った。


すぐさま扉を閉めると、近くにあった薄い木の板を手に取り、扉に引っかける。


俺は息を切らしながら、少女の背中を見つめた。


「おい! 扉を開けろ!」


外から怒声が響いた。


直後、扉が激しく揺れる。


ドンッ!


「うわっ……!」


思わず肩が跳ねた。


男が扉を蹴っているらしい。木が軋む音が室内に響き、扉の隙間から細かな埃が舞い落ちた。


扉には、少女が引っかけた薄い木の板が閂のように掛かっている。こんなもの、何度か蹴られればすぐに壊されるだろう。


「おい! こんなんじゃ、すぐに壊されるぞ! もっと分厚い板じゃないと!」


俺が声を上げると、少女はこちらを振り返った。その目は、ひどく冷たかった。


「この板は大丈夫」


「いや、どう見ても──」


ドンッ!


再び扉が蹴られた。


俺は反射的に身構えた。


……だが。


恐る恐る扉に目を向けても、木の板には傷ひとつついていなかった。それどころか、蹴られた扉が揺れているだけで、扉も傷一つついていない。


「……なんだ、これ?」


「今のうちに逃げよう」


少女は俺の疑問に答えることなく、部屋の奥へと向かった。


蔓が幾重にも絡みついた窓。その前で立ち止まると、少女は周囲を見回した。


……まさか、ここから出るつもりなのか?


そう思った次の瞬間だった。


「えい!」


少女は手ごろな棒を拾い上げると、窓ではなく、その隣の壁に振り下ろした。


ガンッ!


乾いた音が響く。


「……は?」


少女は構わず、もう一度棒を振り下ろした。


ガンッ! ガンッ!


壁を壊そうとしているらしい。


「いや、窓を割った方がいいんじゃないか?」


俺が思わず口を挟むと、少女は手を止めずに答えた。


「ここの窓は割れないの! ちんたらしてないで、あんたも手伝って!」


少女に急かされ、俺も棒を手に取った。


「これでいいのか……?」


返事を待つ余裕はない。俺は棒を振り上げ、壁に叩きつけた。


ガンッ!


乾いた音が響く。


思ったよりも手応えが軽い。壁はずいぶん脆くなっているようだった。俺と少女は何度も棒を振り下ろした。叩くたびに壁の表面が崩れ、剥がれた破片が足元に散らばっていく。


やがて、大人一人が通れそうなほどの穴が開いた。


「よし!」


少女は棒を放り出すと、慣れた手つきで穴に体を滑り込ませた。

俺も続こうと、急いで穴に身を押し込む。


……が。


「うっ、ちょっと待て!」


腹がつっかえた。肩をすぼめても、体をひねっても抜けない。焦って足をばたつかせるほど、余計に引っかかってしまう。


「もう! 何してんの!」


穴の向こうから少女が手を伸ばしてきた。


「いや、分かってる! 今、出ようとしてるんだ!」


少女は文句を言いながら、俺の手をつかんで力いっぱい引っ張った。


そのときだった。


「この中か?」


扉の向こうから男の声がした。


「ああ、早く頼む」


別の声が答える。


まずい。


そう思った瞬間、少女がさらに強く俺を引いた。


「うおっ!」


ようやく腹が抜け、俺の体が穴の向こうへと転がり出た。


その直後だった。


チリン――。


澄んだ鈴の音が響いた。


思わず振り返る。


扉に掛けられていた薄い木の板が、端から少しずつ薄くなっていく。いや、違う。消えているのだ。


目を見開く間にも、板は輪郭を失い、とうとう跡形もなく消え去った。


「なっ……」


声が漏れた。


だが、異変はそれだけではなかった。


俺たちが壊した壁の穴。その縁から、崩れた壁が元の形へと戻り始めていた。散らばっていた破片が壁へ吸い寄せられるように動き、欠けていた部分が埋まっていく。


まるで、時間そのものが巻き戻っているかのように。


数秒後、そこには穴など最初から存在しなかったかのような壁が立っていた。


目の前で起きたことが、まるで理解できなかった。


一体、何がどうなっている?


「止まらないで!」


少女に手を引かれ、思考が中断された。


「ちょ、ちょっと待て! 説明くらい──」


「いいから走って!」


少女は振り返りもせず、俺の手を引いて走り続ける。


石畳の道を抜け、街並みが遠ざかっていく。

やがて、背後に街が見えなくなるまで走り続けたところで、少女はようやく足を止めた。


「はぁ……はぁ……」


俺が膝に手をついて息を整えていると、少女は周囲を見回してから、頭に被っていたフードを脱いだ。


「ここまでくれば大丈夫ね」


風が吹き、少女の白い髪がさらりと揺れた。


彼女は青く澄んだ瞳で、こちらを見つめている。


聞きたいことは山ほどある。


さっきの鈴の音は何だったのか。壁が元に戻ったのはなぜなのか。あの黒い軍服の男は何者なのか。


そして、何よりも──。


「あんた……何者だ?」

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