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途切れた道のその先は  作者: 月の輝く夜に
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証明

二月のキャンプから、桐島はFC東都の選手として練習に参加した。


初日、グラウンドに入った瞬間、空気が変わったのがわかった。

選手たちの視線が来た。値踏みするような目、好奇心のある目、明らかに困惑している目。それぞれがそれぞれの反応を持ちながら、しかし誰も何も言わなかった。プロの現場というのは、言葉より結果が先に来る場所だ。桐島はそれを知っていたから、視線を気にしなかった。

練習着に着替えるとき、桐島は男性用のロッカールームを使った。

それはクラブ側と事前に確認した取り決めだった。戸籍上男性である以上、男性用施設を使う。選手たちにも事前に説明がなされていた。反発があるかもしれないと黒川は懸念していたが、実際にはほとんどの選手が「わかりました」で済ませた。プロの選手は、余計なエネルギーを使わない。

ただ一人、例外がいた。

チームの主力ボランチ、二十六歳の相馬だった。

相馬は桐島と同じポジションを争う選手で、前シーズンのチーム最多出場を誇っていた。キャンプ初日の練習後、相馬が桐島のそばに来た。

「一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「本当に四十七ですか」

「そうです」

相馬は桐島の顔をしばらく見た。中性的な顔立ち、静かな目。相馬はその目の中に何かを読もうとしているようだった。

「俺のポジション、取りに来てますよね」

「はい」

相馬は少し笑った。挑発でも侮辱でもなく、純粋な競争者としての笑みだった。「わかりました。グラウンドで話しましょう」

それきり、余計な言葉はなかった。


開幕前の練習試合が、三月の第二週に組まれた。

相手は同じ関東の強豪、FC磯村だった。桐島は先発ではなく、後半途中からの出場を告げられた。

監督の伊藤が前日に呼んで、説明した。

「桐島、正直に言う。お前のスタミナと技術は本物だ。しかし相手との体格差、接触プレーでの負荷、それを九十分続けることへのリスクを俺はまだ測れていない。当面は四十五分を上限にする」

「わかりました」と桐島は即答した。


伊藤が少し驚いた顔をした。

「文句はないのか」

「ありません。現実です」

筋力の問題は、桐島自身が一番よく理解していた。走力、跳躍力、俊敏性においてこの体は傑出している。しかし純粋な筋力、特に上半身の強さと、接触時の質量的な優位性においては、成人男性との差が歴然としてある。相手のフィジカルなチャレンジを受け続ければ、四十五分を超えたあたりから体への負荷が蓄積していく。それは練習の中で確認済みだった。

四十五分という制約は、制約ではなく条件だと桐島は考えた。

その条件の中で、最大の仕事をする。


練習試合当日、桐島は後半開始から投入された。

スコアは〇対一、FC東都が負けていた。

ピッチに入った瞬間、相手選手の視線を感じた。FC磯村の選手たちは、桐島のことを事前にある程度知っていたはずだ。しかし実際に目の前に立つと、改めて測るような目になる。身長百六十八センチ、体重五十五キロ。男性選手の中では明らかに小柄で軽い。

その油断が、最初の伏線になった。


キックオフ直後、相手の右サイドハーフがボールを持った。桐島はプレスに行った。相手は桐島を見て、体を張ってやり過ごそうとした。肩から当たってくる。


桐島は当たらなかった。

一歩引き、相手の重心が外に流れた瞬間に足を差し入れ、ボールだけを掻き出した。体格差を力で解決しようとしなかった。タイミングと角度で解決した。四十七年の経験が選んだ、唯一正解の選択肢だった。

奪ったボールを、前線に展開した。

チームメートが抜け出し、シュートを打った。外れた。しかし流れが変わった。


二十分後、セットプレーの場面が来た。

コーナーキックで、桐島はファーサイドに走り込んだ。相手のマーカーは、桐島より十センチ以上身長が高い二十三歳のセンターバックだった。そのセンターバックは、桐島を完全にマークするつもりで、体を密着させてきた。

ボールが上がった。

桐島は助走を三歩取り、跳んだ。

その跳躍を、誰も予測していなかった。

バレーボールで鍛えられた跳躍力は、助走から最高点に達するまでの時間が、サッカー選手の常識と根本的にちがう。踏み切りの鋭さ、膝と足首のバネの解放速度、体幹の安定性。それらが合わさって、桐島の体は自分の身長を大きく超える高さに到達した。

センターバックより、高かった。

桐島の頭がボールに触れた。

軌道が変わり、ボールがゴールに向かった。

相手のキーパーが反応できなかった。

ゴール。

一対一。

グラウンドが、一瞬静止した。


あの選手が、あのマーカーを越えた。その事実の処理に、全員が少しだけ時間を要した。

相馬が走ってきて、桐島の肩を叩いた。強く叩いた。言葉はなかったが、その強さに全部が込められていた。


三十分後、桐島は再び局面を作った。

相手の中盤に差し掛かったところで、ボールを受けた。二人が寄ってきた。

普通なら、はたく。前を向けないなら、安全な場所にボールを逃がす。それが教科書的な選択だった。

桐島はそうしなかった。

体を低くした。

重心を落とし、両膝を深く曲げ、体の軸を傾けた。この柔軟性は、男性の体では物理的に再現しにくい。骨盤の構造と股関節の可動域が、男女で根本的にちがうから。桐島の体はその両方の知識を持っていた。サッカー選手としての経験から来る動きの意図と、バレーボール選手として鍛えられた体の可動域が、ここで合わさった。


相手の一人が、対応しようとして迷った。

低すぎる重心、通常より深い体幹の角度、次の動きの予測ができない。男性選手相手に培ってきたディフェンスの経験値が、この動き方の前では機能しなかった。

その迷いの〇・五秒に、桐島は動いた。

左に抜けた。

完全に、抜けた。

前を向いて、左サイドを走るチームメートに展開した。そこからのクロスを相馬が合わせ、二対一。

逆転した。


試合後のロッカールームは、静かな熱気があった。

誰かがシャワーの音を出しながら笑っていた。相馬が桐島の隣に座った。

「さっきの、ファーへの飛び込み」

「はい」

「あれ、どこで判断したんですか」

桐島は少し考えた。「ニアに二人いたから、ファーが空く。それだけです」

「わかってても、あそこまで跳べない」

「体の問題です」

「体の問題、ね」と相馬は繰り返した。笑いを含んだ口調だった。「もっとできると思いますよ、桐島さん。四十五分じゃ足りない」

「今は四十五分でいい。その代わり、その四十五分で仕事をする」

相馬は黙った。それから小さく頷いた。

その夜、練習試合の映像がクラブの内部で共有された。黒川からメッセージが来た。

「問い合わせが来ています。メディアから数件。どう対応しますか」

桐島は少し考えて返信した。

「プレーで答えます」


リーグ戦が開幕した。

第一節、桐島は後半から出場した。

スタジアムのスタンドに、観客がいた。桐島がピッチに入る前、アナウンスで名前が呼ばれた瞬間、ざわめきが起きた。それが驚きなのか好奇心なのか、あるいは懐疑なのか、桐島には判別できなかった。どれでも構わなかった。


ピッチに入った。

芝の感触が、足裏に返ってきた。

スタンドの声が、遠くなった。

桐島はボールを追い始めた。走り、止まり、また走った。判断し、動き、展開した。四十五分間、できることをすべてやった。

試合は二対〇で勝った。

桐島は一アシストだった。

試合後、スタンドの一角から声が聞こえた。

名前を呼ぶ声。桐島、という声。

最初は数人だった。それが少しずつ増えた。

桐島はその声を背中で聞きながら、ピッチの芝を踏んだ。芝の冷たさが、スパイクの裏から伝わってきた。

外野の声を黙らせる、などという大げさなことを考えてはいなかった。

ただ走った。

ただ蹴った。

ただ、四十七年かけて積み上げてきたものを、二十歳の体に乗せて、九十分の半分の時間に注ぎ込んだ。

それだけだった。



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