第17話 赤い月の伝説
「どうして君がここに?」
深部から出て通路を少し進んだところで足を止めたシオンは、前を行く少女を呼び止めた。
右側頭部で結わえられたキャラメル色の髪がはらりと揺れる。シオンを見返してくるのは金緑色の勝気な瞳。
間違いなく、露店で出逢ったあの女の子だった。
「貴方たちが兵の車に乗せられて東門から出て行ったのを見かけたから、追いかけて来たんだ。この国の東にあるのなんて水晶谷くらいだし、あの荷物から察するに、二人とも旅行者だろう? もしかすると伝承を知らないんじゃないかと思って」
「伝承って、魂の竜のことかい?」
シオンが尋ねると、少女はあからさめに顔を歪めた。
「魂の竜? まあ、大雑把に言ってしまえばそうなるが、私が言いたいのはおぞましいこの国の風習のことだ」
――おぞましい?
想像もつかない話に戸惑っていると少女が嘆息した。
「やっぱり知らないんだな。聞きたいのなら詳しい話を教えてやる。だが、ここを出てからでもいいだろうか。少し、息苦しい」
健康的な肌はほんのりと血の気が引いているように見えた。これだけの濃度なのだ。天上人とはいえ、立っているだけでもキツイだろう。
「ごめん、急いで出ようか」
シオンが先を促すと、つん、と上着の裾を引っ張られた。振り返ると、ルクレティアの大きな瑠璃の瞳が揺れていた。
「シオン、待って。腕の傷が……」
左腕を見下ろすと、袖は血ですっかり濡れて重たくなってしまっていた。意識してしまえば途端に痛みが押し寄せてきて、シオンは顔をしかめてしまう。
肩から下げていた鞄から慌てて小さな救急箱を取り出したルクレティアが少女に言う。
「わたしたち、怪我の手当てをしてから追いかけるわ。出口で待ってもらっていてもいいかしら?」
シオンの返事を待たずに発せられたルクレティアの申し出に、少女は頷いた。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
ルクレティアに応急処置として包帯を巻いてもらい、急いで洞窟の外へと出ると、日はすっかり傾き、藍と紅が混じった空が広がっていた。吹き付けてくる風は心なしか冷たい。
水晶谷から街までは徒歩でも二時間少々とのことだったので、三人はこのままルクシーレまで引き返すことにした。
ロゼリア・サージェント。
そう名乗った少女は、薄暗くなってきた夜道を照らすランプを片手に、話の続きをしてくれた。
「あの幻竜たちは、魂の竜を守っているんだ」
シオンは目を瞬かせる。
「幻竜が、魂の竜を?」
「事実かどうかは知らないが、昔からそう伝えられている」
俄かには信じがたい。幻妖種から人を救うために遣わされた七神竜を、どうして幻妖種が守るのか。
「それが、おぞましい話?」
シオンが隣のロゼリアの顔を覗き込むと、ランプの灯りに照らし出された顔には物憂げな色が宿っていた。目が合うと、少女は肩をすくめる。
「まさか。そうだな……ちょうどいい頃合いか。空を見てみてくれ」
頭上を見上げると、闇が濃くなってきた空に楕円形の月と、遠慮がちに瞬く星々が見えた。特に変わったところはない夜空。
「しばらく、月を気にしながら歩くといい。じきに意味がわかる」
ルクレティアと顔を見合わせ、街道を歩くこと数分。ロゼリアの言葉の真意はすぐにわかった。
白々と輝いていた月の色が徐々に変化し始めたのだ。楕円を描く月はまるで卵の黄身を徐々に浸食していくように。不浄のもののような色を思わせる禍々しい赤に染まり始めていた。
赤は不吉の象徴。見ているだけで不安を掻き立てられるような、そんな色だった。
「赤い月なんて、初めて見るわ」
ルクレティアと揃って息を呑むと、ロゼリアはため息混じりにぼそりと言う。
「あれは数年に一度、ヴェルスーズだけに起こる現象らしい。月が赤く染まるようになってから、十日後に丸くなる。その晩に水晶谷に生贄を捧げるんだ。それが、この国の決まり事だ」
「生贄?」
ぞっとする響きだった。
「ああ。若い女性を水晶谷に行かせ、幻竜にその身を捧げさせる」
「何のために?」
「幻竜から街を守るためだ。贄を捧げれば、竜たちは街を襲うことはない」
端的な答えだった。シオンは眉をひそめる。
「どうしてそんな風習が?」
「遠い昔に、魂の竜がそう求めたからだ。八日後がちょうどその贄の儀の日に当たる。貴方たちはよそ者だから、都合がいいと思われたんだろう。多少周期はズレてしまうが、竜はそこまで細かいことは気にしないかもしれないし、儀式が成功すれば儲けものとでも考えたんだろう」
女王の涼しげな顔を思い出したシオンは、騙されたことへの怒りよりも納得の気持ちの方が強かった。同時に、疑問も湧く。
「今まで、幻竜を退治しようとはしなかったのかい?」
幻竜は確かに脅威だが、聖歌を扱える聖術師の力を借りれば退治ることは決して不可能とも思えないけれど。
「貴方たちも実感しただろう? あの谷はエーテル濃度が異様に高い。どんな聖術も狂わされてしまうし、そもそもが深部へ入った者の意識が長くはもたない」
あの濃度では聖歌はまず機能しないだろうし、刻印武器程度の術では幻竜の強固な鱗に傷は付けられない。
だが、それはあくまで洞窟内の話。上手く幻竜を外へとおびき出せば話は変わるのではないだろうか。
そんなシオンの考えを読んだかのように、ロゼリアが続けた。
「あの親玉の竜はねぐらから絶対に出て来ない。そして他の竜は倒しても際限なく生まれる。幻竜の群れに街が襲われでもすればどうなるか。簡単に想像が付くだろう?」
親玉を倒すことができれば解決するかもしれないが、それが難しい、ということか。
ふと、シオンはロゼリアが助けてくれたとき、幻竜の様子がおかしくなったことを思い出した。彼女の銃は刻印武器ではない。どういった種があるのか、純粋に気になった。
「僕たちを助けてくれたとき、君の銃で幻竜の様子がおかしくなったのはどうしてなのかな?」
「さっき使った弾にはシルヴァリーの香水が混ぜてあるんだ。幻竜はシルヴァリーの花の匂いを嗅ぐと酩酊状態になる。わずかな時間のことでしかないがな」
それは知らなかった。街中に咲いていた可憐な花を思い返したシオンは、気づく。
「……そうか。それでシルヴァリーの花があんなに咲いているんだね。国花だからって理由だけじゃなかったのか」
「というより、それゆえに国花とされているんだろうな。魂の竜の守り手がシルヴァリーに酔うのは皮肉だが」
自嘲めいた台詞の意味をすぐに察したシオンは、同意する。
「ああ、確かにね」
「うん? どういう意味?」
首を傾げたルクレティアに、
「魂はアステルト語でシルヴァリー。聖歌と一緒でシルヴァリー。綴りは違うけど、発音は同じなんだよ」
「そうなの?」
彼女は目を丸くする。
聖歌の詩に魂や聖歌という単語が用いられることは滅多にないので、アステルト語自体に堪能なわけではないルクレティアが知らないのは無理もない。逆にロゼリアはあれだけの調律の腕を持っているから、アステルト語に詳しいのだろう。
「伝承の話はわかったよ。でも、幻竜の脅威があるわりには街の様子は普通に見えたような……?」
ルクシーレの活気ある街並みからは、怯えも恐怖も感じられなかった。
「……贄の儀式は一般の市民には知らされないからな。もしかすると伝承自体を知っている者はいるかもしれないが、事実だと知るものはいないし、幻竜の存在すら知らないはずだ」
「それなら、どうしてロゼリアは儀式のことを知っているの?」
シオンを挟んでルクレティアから投げられた問いかけに、ロゼリアは目を伏せた。
ランプの明かりの下でもはっきりとわかるほど唇が震え、しばしの間と共に答えが吐き出された。
「……今回の生贄に選ばれたのは、私の姉さまなんだ」




