ジャン・クリストフに様を付けるのは
「あの凄い男の人は誰なんだい?」
リリアーヌの兄リアンが妹のダンスの為に私達の所に戻って来て、開口一番にヤスミンの事をアランに尋ねた。
アランは軽く肩を竦めて見せただけだが、リリアーヌがこんなにお喋りだったかという風にして兄に教え始めた。
「ププリエ伯爵様よ!次代のフォレプロフォンドレ侯爵様だわ!ああ、なんて素敵な人なの!彼のお陰でデビュタントもワルツが踊れるのよ!聞いて!私のファーストワルツにアラン様が踊って下さるの!ああ夢みたい。ありがとう伯爵様!」
リリアーヌに申し訳ない思いで一杯となった。
アランに思わず様を付ける程に、あなたはアランに多大な憧れを持っていらっしゃったのね、と。
そしてそんな健気なリリアーヌのお陰でアランは機嫌を直したようで、余裕の笑みを顔に浮かべて敵を称賛する台詞まで吐いたのである。
「あの男は一夜にして今年一番の話題の人になったようだね。」
反対に、私は今年一番の目ざわり女になったようだ。
社交界という結婚市場に並べられた同性の未婚の女性やその親族達にとって、爵位が無かろうが麗しいマールブランシュのアランは垂涎の的である。
そんな彼との婚約が囁かれている身でありながら、新星の如く現れたププリエ伯爵様の意中の人ともなったのであれば、妬まれるのは至極当然である。
「曲調が変わった。さあ、そろそろ行こうか?マルファ。」
カドリールの時間だ。
ヤスミンはすでにワルツは終えたようだが、まだコンラッド伯爵夫人と談笑してて戻って来ない。
「マルファ?」
アランがヤスミンを目で追ってばかりの私を諫めるように軽く睨み、それでも私に手を差し出した煌びやかな姿に遜色などありえない。
やっぱりアランは王子様なんだなあと思いながら、私はアランの手を取った。
そして私達がホールの中心へと歩き出した時、私達にしっかり聞こえるような囁き声が周囲で起きたのである。
「印象にも残らない影の癖に。」
「不細工過ぎたそこがアラン様の同情を買ったのね。」
「まあ!それで先ほどの三文芝居ね!あのルクブルールの影が素敵な男の人達に取り合いされるなんておかしいと思いましたのよ。アラン様こそ残酷?」
私の手を握るアランの手がぎゅっと硬くなり、アランの双眸が冷たく光った。
これは危険だ。
兄妹で手を繋いで私達の横に並んだリリアーヌとリアンだって、アランが見せたお怒りの兆候に私と同じぐらいに慌てている。
「アラン、ここは公共の場だろう?」
「わ、私達はあれが単なるやっかみだって分かってますでしょう!」
「そ、そう!私はぜんぜん気になんか、あ、あの、」
「急にお呼び立てして申し訳ありません。ルクブルール伯爵令嬢。」
私達四人は首の骨が折れる勢いで呼びかけてきた声に振り返り、その人が王様お付きの侍従であると知って同時に息を吸った。
白い巻き毛カツラを被った老齢の男性は私にさらに近づき、ここだけの話ですがという風に私に囁いてきた。
「人目に付かないように私めについて来てくださいませ。」
それは無理。
だってすでにたくさんの人に注目されておりますわよ?
でも、私は彼の申し出に従う事に決めた。
アランが私を守るために正当な事を言って女の子を泣かすぐらいなら、私が敵前逃亡した方が丸く収まるに決まっているもの。
そこでたくさんの人の目に見送られるという状況に身を縮めながら、私は王様の侍従に手を引かれ、当たり前だが王城奥の王の私室へと導かれたのである。
長い長い廊下を歩いた。
パーティの喧騒が一歩離れるごとに小さくなり、そのうちに何も聞こえないくらいの王城の奥へと私は歩かされていた。
石造りのお城だからか、静かすぎるそこはお墓の中のようにも感じた。
いいえ、歩いていた時はそんなことを感じなかった。
大きな両開きの扉が私に開かれ、私が王様の部屋に入った時に、ここは霊廟だったのかしらとふと考えてしまったの。
大きなお部屋は空と海の神話の世界を表現していたが、白い彫刻の装飾品が無機質すぎて空虚にしか思えなかった。
柱や壁に貝殻や波をイメージする彫刻がそこかしこに施され、天井には天使が舞う天井画が描かれているのに、華やかどころか砂漠ぐらいに乾いて感じたのだ。
天蓋付きの大きな大きなベッドには王様が横たわっていたが、ベッドが大きすぎてまるで子供がぽつんと取り残されているようだったから、私はこの部屋に孤独を感じたのだろうか。
王様はお病気なのか酷く痩せていらっしゃり、そのお姿はとても痛々しい。
お部屋が豪華だからこそ、彼のその打ちのめされたようなお姿が、ひたすらに哀れさを誘うのである。
彼は私に手を差し伸べた。
私がどうしてその手を拒めようか。
私達は手を握り合った。
そうして私達は少しだけ語り合い、一時間は私はそこにいたのだろうか。
もっと短かっただろうか。
侍従は私を連れて来た時と同じようにして私を王様の間から引き出し、ダンスホールへと私を再び案内してくれた。
だがそれも途中までだ。
バルバラとジャンが私を王の間に続く廊下でずっと待っててくださっており、侍従は私を彼らに手渡したのである。
私達はとりあえず、ホールに直行せずに控室に戻った。
控室と言っても私専用の所ではなく、デビュタント避難所、というような場所でしかない。
室内装飾が砂糖菓子のような色合いという、完全に女の子専用控室でもある。
控室の中には誰もおらず、ダンスホールでのワルツのメロディが聞こえていることで、どんどんともの悲しさばかりが募っていった。
バルバラは私を適当な椅子に座らせると自分もその横の椅子に座り、私の両手を取ってくれた。
バルバラとジャンを見返せば、全てを知っていたような顔付だ。
何から語って良いのかわからないと私は言葉に詰まり、バルバラは幼い子供にするように私の頬に手を添えた。
「気が付けば似ているけれど、あなたはあなた。私はあなたがあなたとしか目に映っていないわよ。あなたは私にジャンの愛が常にあることを私に思い出させてくれた。あなたは私が出会った天使なのよ?」
バルバラが天使に拘り、私にここまで優しいのは、彼女とジャンの間には子供が生まれる事が無かったからである。
そして幼い私がそこまで考えずにジャン・クリストフ様を天使に仕立てたのは、彼の絵を描く様に薦めてくれたのが彼だからだ。
彼は私を二人の天使に選んでくれた、大天使様、なのである。




