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猫乃介、愚痴る

 海に近い江戸の町中を猫乃介は歩いていた。

 彼とて忍びであるから、町往く人々から一切の注目を引かずに歩くという、気配を消しきって歩む法を身に着けてはいるのだが、それはあえて使っていない。

 むしろ、そんなものを使えば彼の正体がばれてしまうおそれがあるからだ。

 必要もないのに忍びの術を弄ぶほど、猫乃介はおろかではなかった。

 もっとも、彼の本心としては、ただ単に術を使うなんて面倒くさいというだけのことであったが。

 経験を積んだ忍びの中には、ほとんどすべての韜晦の術を無意識に使い、誰にも気取らせないというほどの使い手もいたが、若い猫乃介にとってはそんな術者になるなぞ夢のまた夢、ありえない話はであった。


「まったく、おれは佐賀でのんびりと暮らせればよかったというのに、どうしてこんな江戸などという遠い国にこなければならないのか。姫さまの我が儘にも困ったものだ」


 猫乃介は愚痴を言った。

 少し前に知り合った漁師から安く譲り受けた鯵でさえも重くなる。

 新鮮な魚を好むこま姫のためと買ってきたのはいいが、主人と暮らす屋敷に近づくごとに気が滅入ってくるのだ。

 原因は主人の言いつけにある。


「勝茂公の行状を探れというのは容易いが、いくらなんでも桜田の藩邸に潜り込むのは面倒だしな……」


 こま姫の言いつけに従うとなると、桜田にある江戸藩邸にいる鍋島勝茂のすぐ近くにまで接近しなければならない。

 かつてほど勇壮な佐賀の武士がいないとはいっても、もともと武勇の誉の高い国の男たちだ。

 警備は厳重であるし、見つかれば命の保証はない。

 やってやれないことはないとしても、猫乃介だって命は惜しい。

 しかし、戦国の世ではない今生で、主人の我が儘のために身体を張るほどの忠誠心をこの若者は持ち合わせてはいなかった。

 そのため、江戸藩邸に近づくのを早々に諦め、築地にまで買い出しに出たという訳である。


「……ただ、なあ。姫さまの言いつけに従わないとなあ。またお泣きになられるとなあ」


 主人たる可憐な姫の涙を想うと、吐胸をつかれる表情にならざるを得ない。

 何かをしてあげたいとは思うのだ。

 ただ、そもそも言いつけられた事柄それ自体がどうにも困る代物なのである。

 彼がこま姫と共に故郷の佐賀を出て、この江戸にやってきたのは姫の父親である龍造寺又一郎の仇を討つためである。

 相手は佐賀藩の現当主、鍋島勝茂。

 参勤交代によって佐賀から江戸に出てきてしまっていることと、警戒の厳重すぎる佐賀城の本丸にまで辿り着くことはできないという判断からあえてこの異郷で狙おうという腹なのである。

 まさに、佐賀の仇を江戸で討つということであった。

 すべてこま姫の思い付きであり、猫乃介はついてきただけという主体性のなさではあったが。

 とはいえ、問題もある。

 なにより大きな問題は、本当に又一郎が勝茂に討たれたのかという、根本的な部分の話なのだが、そのあたりはわかっていないのだ。

 確かに又一郎は佐賀で何者かに斬られた。

 死体もあり、葬儀もしめやかに執り行われた。

 ただ、下手人の目星もつかず、証拠の類いはなにも見つかっていない。

 それなのにこま姫は頑なに父の死は、鍋島勝茂の手によるものと信じて疑わないのだ。

 思いこみの激しい女子の考えることなど、一笑に付してしまえばいいと余人は考えるであろうが、残念なことに猫乃介は主人の言うことに逆らえない性格だった。

 主人を虚仮にして揶揄うことはするし、よく言いつけをさぼることもあるが、根っこのところで真面目で忠誠心溢れる若者なのである。

 だから、江戸にまで黙って言われるがままについてきたのではあるが。


「こんなことならば、佐賀でもっと情報を集めて、又一郎さまを殺めた下手人を探しておけばよかった。お政さまが調べてはならぬなどと止めるものだから、ついいうことを聞いてしまってしくじったぞ」


 又一郎の母であり、こま姫の祖母にあたるお政の言いつけに従ったら、今度はもっと面倒な言いつけをされる羽目になってしまったのだ。

 なんと江戸にまで上ってそこで仇を討つと宣言されたのだ。かつ、おまえもついてきなさいというおまけとともに。

 まさに猫乃介にとっては青天の霹靂というものであった。

 こうして慣れない異郷での生活が始まったという訳である。


「美味い鯵のたたき程度で懐柔できればいいのだけれど……」


 口で機嫌をとるのは難しいので、なんとか胃袋を掴もうというのが、非常に情けない発想であった。

 しかし、どの時代も感情的になった女を宥めるにはそれが良い手段の一つであることに間違いはない。


(はて……今、誰かがおれを見ていなかったか?)


 ふと猫乃介はおかしな気分になった。

 誰かが彼を見張っているような、そんな予感がして背骨がもぞもぞとしたのだ。

 気のせいかもとは思ったが、ちょうど道端に飴屋の屋台があったので、それを覗き込むふりをして、飴屋の銅製の看板を見た。

 よく手入れがしてあり、鏡のように周囲の風景を映す看板を使って背後を確認しようとしたのだ。

 常人ならばともかく忍びである猫乃介には、一瞬だけでもあれば十分だった。

 彼の脳裏にはやや遠目から彼を隠れ視る男の顔が焼き付けられた。


(気のせいではないのか。はて、後を尾行つけられる覚えはないのだが……)


 カモフラージュのために飴を買うのも忘れて、首をひねりながら再び歩き出す。

 尾行者の存在を確信した瞬間から、猫乃介はもてる感覚を総動員して自分の周囲に注意を巡らせた。


(後ろに一人……横の路地にもう一人―――おっと屋根の上にもおるな。あの動きからすると、ただの盗賊崩れではあるまい。間違いなく忍びだ。今の今までおれに気づかれなかったほどであるから、相当の手練れと見える)


 実際のところ、こま姫への対応をどうするかに集中しすぎて警戒が疎かになっていただけなのではあったのだが。

 とはいえ、猫乃介の感想は誤ってはいない。

 彼を尾行するものたちはかなり優れた忍びであったのだから。


「―――気づかれたか?」

「いいや。ただ、唐人飴売りに気をとられ過ぎただけだろう。佐賀の田舎ものが江戸の風俗に気を引かれただけよ」

「そうかもしれんな。だが、気をつけろ。腐っても忍びだ。どれほどの忍術を秘めているやもしれん」

「―――たかが佐賀の田舎ものだ。我ら、柳生の敵ではないさ」


 路地にいた一人が、猫乃介に顔を見られた尾行者に合流した。

 二人ともその会話が示すとおりに、忍びであった。

 柳生新陰流を学んだ伊賀と甲賀出身の弟子によって組織された、但馬守宗矩配下の実戦的諜報組織―――裏柳生。

 猫乃介を監視していたのは、そこに所属するものどもであった。


 



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