佐賀の夜桜
江戸霞が関にある柳生家の本屋敷は、初夏の爽やかな空気に包まれていた。
若い緑の葉が陽光にあたり、煌めく色が世界を眩しく染め上げている。
だが、その日に屋敷に招かれていた人物にとっては、暗く沈んだ空気に包まれた場所としか思えなかった。
緊張のせいか顔色が蒼黒くなっている。
彼は自分を呼び出した剣の師匠について崇拝に近い想いを抱いていたが、同じぐらい恐れてもいた。
特に今年の冬には、幕府の新しい役職である惣目付になると噂されており、老中・諸大名の監察の任につくことになりそうだった。
そうなると、ある大名の息子である彼にとっては危険な相手となることは間違いない。
だからこそ、道場でならばともかく個人的に招かれて話をするとなると、緊張しないはずがないのだ。
「よく来たな、鍋島元茂」
「は、宗矩さま。お久しぶりでございます」
「……おぬしが我が新陰流の門を叩いて、もう十年余りか。随分と経ったものだな」
鍋島元茂は師匠に向けて平伏した。
将軍家の剣法指南として二代将軍・徳川秀忠に仕えるだけでなく、三代家光の側近としても活躍している師匠の名は柳生但馬守宗矩という。
小柄で痩せた、年老いた鶴のような男であった。
世人がこぞって天下一の名剣士と褒めたたえる男ではあったが、質実な様相はむしろ役人のようでさえある。
しかし、若い元茂にとっては強すぎる畏怖の対象であった。
「おぬしを呼び出したのは、おぬしの国元で起きた怪事について聞き出したいからだ。よいか」
「……怪事、でございますか?」
「去年の春の出来事だと聞いておる。確か……夜桜を楽しむ宴でのことだとな」
「夜桜の宴……。あの、黒猫のことでございますか?」
「そうだ。猫のまつわる怪事だ。おぬしも居合わせたそうだな」
元茂は目を伏せた。
まさか、そのときのことを問われるとは思わなかったのだ。
彼の佐賀藩と但馬守にはなんの繋がりもない。
そもそも、問題となっている宴での事件は藩主である父・勝茂と親族、その側近だけで行われたものであり、外部に漏れることなどありえないはずだ。
どうやって探り当てたのであろうか。
このときになって初めて元茂は、柳生新陰流が陰の諜報機関として将軍家の目鼻となって活動しているという噂を現実のものとして理解した。
柳生藩のある地域はすぐ目と鼻の先に忍びの里である伊賀・甲賀があり、そこで忍びの術を学んだ弟子を重用しているというのは事実だったのだ。
でなければ、鍋島家の怪事を宗矩が知るはずもない。
しかし、いったいなんのために元茂を呼び出してまで聞き出そうとしているのか。
「確かに、手前はその場に居合わしてはおりましたが、すぐに父と共に参勤交代で江戸に来たために、その後の顛末については知りませぬが」
「わしが聞きたいのは、その時のことだ。―――勝茂どのとおぬしは夜桜を見に庭に出たそうだな」
「はっ。手前は父に誘われ、父の側室であるお豊の方たちとともに、瓢をもって庭に繰り出しました……」
……城内から持ち出した緋毛氈を敷いて、鍋島勝茂とその息子である元茂、継嗣であると指名された四男・忠直、そして勝茂のお気に入りの妾であるお豊の方、それに近習頭の小森半左衛門以下の側近たちと宴が催された。
城内の廓の一画に設けられた桜を楽しむためである。
庭のぼんぼりには火が入れられ、戦に使う篝火を明々と焚かせる、派手な宴であった。
桜は精いっぱい華麗に、豪奢に咲いていた。
お豊の方の釈のおかげで上機嫌になった勝茂は、自分の酒を樹の根本に注ぎ、まるで長年の友にでも話しかけるように語り掛けていた。
勝茂は、慶長の役では父と共に朝鮮に渡り、蔚山城の戦いで武功を挙げた武人でもある。
彼が幼いころからずっと見守っていてくれた桜に友誼を覚えたとしても決して的外れではない。
殿さまが上機嫌ならば、家臣からも自然と笑みがこぼれる。
小森半左衛門を初めとして、家臣たちも酒と食い物に舌鼓を撃ちつつ、笑い興じた。
弟の忠直と確執のある元茂でさえも、ふつふつと沸き起こる楽しさに微笑んでしまうほどであった。
ただ、その楽しい時間が不意に途絶えた。
風もないのにぼんぼりと篝火が消えたのだ。
ぼんぼりはともかく、いくさ用の篝火がなにもないのに消えるはずがない。
そして、にわかに桜さえも散り始めた。
「はて、面妖な……。しかし、これも一興だ」
豪胆な勝茂らしく、ほとんど身じろぎもせずにそのまま酒の注がれた大杯を飲み続けた。
殿様の落ち着いた様子にやや騒がしくなりかけた家臣たちも自然に鎮まった。
だが……
「んっ?」
「殿、おさがり下され!」
ふと勝茂が桜を見上げると、特別に太い枝に潜んでいたらしい何か大きな黒い影が飛びかかってきた。
一瞬、早く異常に勘付いていた小森半左衛門が殿様を突き飛ばし、咄嗟に抜いた刀で切りつけた。
だが、黒い影はひらりと斬撃を躱すと、緋毛氈の上に降り立った。
音もなく着地したのは四足の生物であった。
巨大な黒い猫。
黄色く不気味に輝く眼と耳まで裂けた口は、まるで異形の人のようでさえあった。
大きさはやや成長の遅れた子供ほどもあり、とても猫とは思えぬほどである。
「父上!」
元茂が小森半左衛門に助太刀しようとして近づいたときには、奇怪な大猫は異常に長い尻尾を翻して屋敷の中へと逃げ込んでいってしまった。
後に残った鍋島藩のものたちが呆気にとられている間の出来事であった。
「いったい、今の猫はなんだったのだ?」
「さあ、わかりもうさぬ。ただ、お城にあんな化け物が入り込んでいるとは……。あとでみなに城中から狩りたてるように申し付けておきます」
「そうだな……。しかし、不吉そうなものがいるものだな」
「御意」
―――それが元茂の記憶にある顛末である。
その後に何かがあったとは、残念ながらすぐに江戸に戻ってきた彼は聞いていなかった。
「以上でございますが、―――これが何か?」
すると、宗矩は感情のこもっていない目で元茂を見やった。
「おぬしの国元では、その化け猫の正体についての噂話で持ちきりであるらしいぞ」
「化け猫の正体、ですか? はて、まるであの大猫が、まるで鵺のような妖怪変化であるかのようなお話でございますが……。実際に目にした手前には、大きいだけの猫としか思えませなんだが……」
「だが、嘘偽りなく佐賀藩の領民たちはその化け猫の正体について口さがなく噂しておるのだ。―――その黒猫は龍造寺又一郎の祟りだとな」
「なっ、龍造寺又一郎ですと……!」
元茂は絶句した。
その名前には当然聞き覚えがあったからだ。
かつての鍋島家の主筋である龍造寺隆信の息子であったが、庶子であったために家督こそ継げなかったが、一門所縁のものにとってはまさしく希望の遺児と目されていた男であった。
元茂の記憶によれば、二年ほど前に病死したと聞いていたのだが……。
「どういうことでございますか、宗矩さま!?」
「……龍造寺又一郎にはただ一人だが娘がおったらしい。名をこま姫。佐賀の民草の間では、その姫が夜な夜な黒猫に化けて、憎い鍋島を呪い殺そうとしている、そうだ」
「お待ちください! 我ら鍋島は正当な理由をもって、佐賀藩を龍造寺一門より引き継いだのであります。決して、その座を奪った訳ではございませぬ」
「あくまで民草のいうことよ。あまり目くじらを立てるな、元茂」
「しかし……」
手のひらを見せてまで制止する宗矩に対して、これ以上の文句は言えそうもない。
元茂は口をつぐんだ。
「問題はその龍造寺又一郎の遺児の娘のことだ」
「どういうことでございましょう? その―――こま姫がいかがしましたか?」
「……わしの使い走りの連中が調べてきたことによると、今、こま姫は江戸にいる」
「な、なんですと!」
宗矩は一拍置いたのち、
「言った通りだ。こま姫は供のものと江戸に滞在し、父の仇を討とうと潜んでいるらしい。今日はそのことを、勝茂どのの子息であるおぬしに伝えよう思って呼び出したのだ」
「……父の仇ですと。―――それはもしや?」
「うむ。こま姫の狙いは、おぬしの父である鍋島勝茂公であることに間違いはあるまい」
重々しい剣の師匠の言葉に、元茂はただ驚くばかりであった……。




