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こま姫と猫乃介

 寛永九年(1632)の春。

 江戸の町の外れにある、丈の低い塀に囲まれた屋敷の中で、一人の少女が声を上げていた。

 ただの町娘にしては気品あふれる佇まいと、いかにも身分の高い娘らしい美貌を備えた少女である。

 彼女はやや感情に任せてある名前を呼んでいた。


「猫乃介! 猫乃介! どこにいるのですか! 猫乃介!」


 すると、ほんのわずかな沈黙ののち、彼女の目の前に一つの影が現われた。

 跪いて顔を伏せているが、この影に長年仕えられている少女には誰だかすぐにわかる。


「遅いですよ、猫乃介」

「は、申し訳ありません、こま姫さま」

「……どうしたの、その忠義篤き忍びのような口の利きようは。おまえ、そんな律儀な男ではないでしょうに」


 猫乃介と呼ばれた若者は顔をあげて、にっと笑った。

 両眼が大きく、瞳孔が縦に長いせいで、その名のとおりに猫のように見える若者であった。

 彼はもう一人の老いた端女とともに、このこま姫という少女に仕えるたった一人の下人であった。

 それなりにやんごとなき身分の姫に、下人がたった一人しかいないというのは本来ならば不便で仕方がないはずであったが、猫乃介は常人の三倍は働く忍びである。

 ゆえにこま姫はこれまで不便という言葉をほとんど頭に浮かべたことがなかった。

 ただし、猫乃介には欠点とは呼べぬほどではあったが、やや扱いづらい面があった。


「いえいえ、こま姫さまがおれの主人であることには一切の変わりはございませぬ。ゆえに、この猫乃介、主人のために少々の甘言を弄す程度、いささかの苦労も感じませぬ」


 名前に猫の一文字がつくためであろうか、彼は普段からこのように身分が上の者をからかうような喋りをする。

 それが自分の主人であったとしても、だ。

 よくよく見れば、知性の香りのする秀麗な顔立ちをしており、忍びなどという下人めいた仕事についているようには思えない。

 もっとも、主人であるこま姫からするとなんとも癪に障る。

 いつも彼女は猫乃介のおしゃべりに苛々していた。

 しかし、いないと何よりも自分が困るということにかけて、猫乃介はこま姫にとって絶対に必要な若者でもあった。


「猫乃介、このたわけ」

「へ?」

「こまに仕える忍びの癖に、勝手にどこかに行くものではありません。おかげで探してしまったではありませんか」

「はあ、この猫乃介に何か御用でもありましたか?」

「なければ、おまえなど呼びません。来なさい」


 こま姫はさっさと隣の部屋に入ってしまった。

 仕えるものとして忍びの若者も部屋に入る。

 身分からすると、本来は彼がいるべきは地面の上ということになるのだが、このさほど大きくない屋敷においてはそこまでしている余裕はない。

 上座に腰掛けたこま姫に再びかしずく。


「猫乃介、こまがおまえに言いつけた例のこと、きちんと調べてきたのでしょうね」

「はあ、あれでございますか」


 こま姫との主従関係の長い猫乃介は、主人の用向きというものが読めていた。

 まずいことにまったく手を付けていなかったので、いかに誤魔化すかだけを考えていた。

 別に忘れていたわけではない。

 彼からすると、後回しにしてもよい程度の認識しかない言いつけだったから、手を付けていなかっただけなのである。

 もともと忍びである彼にとっては、その気になれば一日あれば足りる程度の調べものであり、そこまで優先順位をあげなければならないほどの急ぎの仕事ではなかった。


「どうなのです?」


 首尾を聞かれてもまったく手を付けていないのだから、無論、成果などでているはずもない。

 さて、いかに主人を煙に巻くべきか。


「いえ、まあ、なんと申しますか……」

「はっきりと申しなさい!」

「すみませぬ! 一切、手を付けておりませんなんだ、ご容赦下され!」


 頭を畳に擦り付けて謝った。

 やっていないものをやったと強弁できるほどに面の皮は厚くなく、また、こま姫の追及を躱せるほどの度胸もない。

 彼はここまで十年近くこの姫の傍に仕えてきた経験上、嘘を言ってもすぐに見抜かれてしまうことを理解していたのだ。

 忍びにしては騙しの技が下手な猫乃介でもあった。


「猫乃介! それでは、いつまでたってもお父さまの仇が討てないではありませんか! もう江戸に参って一年も経つというのに、おまえのその怠慢のせいで一向にわたくしの仇討ちは進みません! いい加減にわたくしの堪忍袋の緒も切れるというものですよ!」


 主人の激怒そのものはたいして怖くもない。

 随分と昔からのことなので慣れきっているからだ。

 ただ、猫乃介はこうやって感情を顕わにした後の、こま姫の号泣が苦手だった。

 幼女の頃と同様にすぐに癇癪を起しては泣く姫君なのだ。

 かつてどれほど手を焼いたことか。

 とはいえ長い付き合いでもあるから、宥める術も経験則上、当然心得ている。


「姫さま、確かにおれの怠慢があったことは認めます。しかし、それはこの屋敷を用意してくれた久納くのうさまのためでもあるのです」

「どういうことですか、久納殿がどうしたというのです?」

「久納さまはもともと龍造寺の御一門ではあっても、今となっては佐賀鍋島藩の臣でございます。現当主の勝茂公に睨まれるような真似はなかなかできるものではありません。ところが、その立場でありながらこうやって佐賀から上ってこられた姫様のために、住みよいお屋敷を用意してくださったのです」

「……わたくしの仇討ちが久納殿にとって迷惑となるというのですか」

「いえいえ、そうは申しませぬ。ただ、こま姫さまのご本懐をお遂げになるためには石橋を叩いて渡るような慎重さが求められるということなのです」


 こま姫は頭の回転が速い。

 このように噛んで含めるように理を説けばたいていは説得できる。

 加えて、姫でありながら他の者に迷惑をかけることを是としない性格の持ち主である。

 ゆえに、自分に便宜を図ってくれた祖父のかつての臣に迷惑をかけることになるという理論展開にはめっぽう弱かった。

 ただし、彼女の心遣いは直接の家来であるところの猫乃介にまでは及ばない。

 その意味において、彼女はまさに姫君らしい我が儘極まりない女性にょしょうであったのである。


「わかりました」

「さすがは、こま姫さま」

「では、おまえはこれからすぐに久納殿のご迷惑にならぬように、鍋島勝茂の周囲を探りなさい。元の主人の子であるお父さまを弑逆したあの憎き男のことをですよ」

「へ? まだ、お続けになるので?」

「あたりまえです! もう怠けるのは許しませんよ! さあ、さっさと出掛けなさい! さあ、早く!」


 主人の叱責を受けて、鉄砲の弾のように若き忍びは飛び出していった。


「まったくあのものは本当に大事な時に役に立たないのだから……」


 このような騒ぎも、こま姫と猫乃介という主従にとって、よくありふれた日々のやりとりなのであった……。


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