表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/13

1.それはイノシシから始まった

 ひたすら、無言で、全力で、走る。


 山の近くの住宅街、すっかり暗くなった通りには、わたししかいない。叫んで助けを呼びたいところだけど、怖くて声が出ない。


 息が上がっても、まだまだ走る。立ち止まったら、終わりだ。


(お願い、ついてこないでー!!)


 全力で祈りつつも、後ろを確認する余裕はなかった。




 さかのぼること、少し。


 運悪く文化祭実行委員に任命されてしまったわたしは、放課後も学校に残ってあれこれと雑用を片付けていた。


 クラスのみんなが寄ってたかって「美羽みうは帰宅部で暇でしょ、成績にも余裕あるし」などと言って、この貧乏くじを押しつけてきたのだ。とはいえ、まだ高二だしこういう体験をしておくのもありかなと思ったので、特に気にせず引き受けることにした。


 けれどじきに、わたしはその決断を後悔することになった。文化祭実行委員会って、予想外にやることが多かったのだ。


 同じクラスからもうひとり委員が選ばれてはいたものの、その子は病弱で休みがちだったので、必然的にわたしの仕事が増えまくっていた。うう、面倒だなあ。しくじった。


 ぶつくさ言いながら雑用を終わらせて、学校を出たときにはもう日がほとんど落ちていた。秋の日はつるべ落としって聞いたことがあるけど、これのことなのかな。


 お腹が空いたし、ちょっぴり寒い。背中を丸めて、うつむき気味に足を動かす。静まり返った住宅街をひとりで歩いていたら、唐突にそれに出くわしてしまった。


 わたしの行く手をふさぐように立ちはだかっている、影。


「え、イノシシ!?」


 街灯に照らされたその姿は、やけに大きく見えていた。いや、本当に大きいイノシシだったのかもしれない。


 ここ神戸の地には、イノシシが多く棲みついている。わたしも遠足なんかで山に入ったとき、ちょくちょくイノシシを見かけた。


 でも、この辺に出るなんて、聞いてない!! 嘘でしょ!!


 人間、心底びっくりすると悲鳴すら出ないのだと、生まれて初めて思い知った。


 考えるより先に、体が動く。即座に回れ右すると、全速力で駆け出した。


 野生動物に出くわしたときは、刺激しないようにゆっくり離れること。絶対に、背を向けてはいけない。


 一応、そんなことを知ってはいた。けれど、どう考えたってそんなの無理! とにかく、一刻も早く、逃げよう!


 体育の成績はずっと平凡そのもの、小学校も中学校もずっと文科系のクラブ。高校に入ってからは帰宅部で、全力で運動をした記憶なんてない。それがわたし。


 けれど今、自分でも信じられないくらいの速さで足が動いていた。50m走のとき、イノシシがいたら新記録が出るんじゃないかなどと、場違いなことを考えてしまう。うん、間違いなくパニクってるな、わたし。


 肩にかけたスクールバッグをしっかりとつかみ、曲がり角を右へ左へとめちゃくちゃに曲がり続ける。いつの間にか、まったく見覚えのない通りに出ていた。


 それでも立ち止まることはできなかったし、振り返ることもできなかった。あとのことは、イノシシをまいてから考えよう。


 幸い、神戸の街は方角だけは分かりやすい。山が北で、海が南。坂の上が北で、下れば南。目印になるような大きな道路も多いから、迷子にはなりにくい。


 はあはあと荒い息を吐きながら、ひたすらに足を動かす。……そろそろ、体力がもたないかも……日頃の運動不足が、恨めしい……。


 途方に暮れかけたそのとき、行く手に明かりが見えた。あれは家じゃない、店だ。開いているなら、逃げ込めるかも。


 最後の力を振り絞るようにして、その店に駆け寄る。重厚でしゃれた木の扉には、「OPEN」と彫られた木の札が下がっていた。


 やった、助かった。


「失礼しまーす!」


 とっさにそう叫び、店に飛び込む。ちりんという涼しげなベルの音が、わたしを出迎えてくれた。


 背後で扉が閉まるのと同時に、肩からずれたスクールバッグが、板張りの床にごとんと落ちる。つられるようにして、わたしもその場にへたり込んだ。


 息を整えながら、こぢんまりとした店の中を見回す。


 ここはどうやら、雑貨店のようだった。床板はつややかで、壁紙はちょっとレトロな感じ。壁の高いところに取り付けられたランプのような照明が、暖かなオレンジ色の光で店の中を満たしていた。


 壁際にはどっしりした木の棚がいくつも置かれていて、そこにはこまごましたものが並んでいる。ちょっとした置物とか、ポストカードとか、お菓子なんかもあった。かわいいものばかりで、気になってしまう。


 このお店、北野の異人館の近くにありそうな雰囲気だなあ。でもさすがに、そこまで走ってきた覚えはないんだけど。


 ふうと息を吐いて立ち上がったそのとき、店の奥から声がした。


「おや、こんな時間にお客様ですか」


 姿を現した人を見て、思わず息を呑む。


 わあ、イケメンだ。それもアイドル系じゃなくて、もっとしっとりと落ち着いた雰囲気の……演技派俳優みたいな感じ? 歌舞伎俳優みたいな感じでもある。おっとりとしていながら、凛とした雰囲気もあって……ちょっぴり謎めいているのが、また魅力的だ。


 まだ二十歳くらいにしか見えないのに、不思議とオーラのある人だ。


 目は穏やかな黒で、ちょっぴりたれ目。柔らかな髪は、光の加減で茶色にも見える。


 着ているのは、仕立てのよさそうなグレーのスーツ。上着の中にはベストも着てるから、スリーピース? って言うんだろうか。細めのネクタイは、つややかな青。


 服装は年の割にちょっと堅苦しいというか、やや地味ではあるけれど、彼とこの店にはしっくりくる。


 気づけば、彼のことをまじまじと見つめてしまった。彼はきょとんとしたように、目を見張ってこちらを見つめ返している。


「あ! えっと、その、わたし……」


 ばつの悪さを感じつつ、あわてて口を開く。ああもう、初対面の人に見とれるとか、今までそんなことをやらかしたこと、ないのになあ。


「その、イノシシに追われてたんです。それでとっさに、ここに逃げ込んだだけで……」


 そう答えつつ、店の入り口のほうをちらりと見る。木の扉の両側ははめ殺しの窓になっていて、そこから表の通りが見えている。ただ薄暗くて、イノシシがいるのかどうかは分からない。


「なのでちょっとだけ、かくまってもらえたらなあ、って……ずっと走ってて、息が、上がってて……」


 こんなことをお願いするのは、ちょっぴり気まずくもある。けれど男性は少しも気を悪くすることなく、同情するように微笑みかけてきた。


「それは、大変な目にあわれたのですね。気になさらず、ゆっくりしていってください。そちらの席にどうぞ」


 彼は店の隅のほうにあるしゃれた丸テーブルを指し示すと、そのまま店の奥に引っ込んでしまう。ありがたく思いながら、ひとまず腰を下ろした。ああ、やっと一息つける……。


 やがて彼が、小さなトレイを手に戻ってきた。トレイをテーブルにそっと置いて、こちらに笑いかけてくる。


「お疲れでしょうし、こちらをどうぞ。疲れたときは甘いものが一番ですから」


 トレイの上には、かわいい小皿に載ったクッキーが三枚と、温かな湯気を上げる紅茶のカップがひとつ置かれていた。


「……いいんですか?」


「ええ。お店からのサービスです」


 彼はそう言っているけれど、このクッキー、結構お高そうな雰囲気なんだよね……ごちそうになっちゃってもいいのかな。


 けれど、ここまで全力で走ったせいで喉はからから、お腹もぺこぺこだった。断るなんて選択肢はなかった。いいや、彼の言葉に甘えちゃえ。


「ありがとうございます。それじゃあ……」


 カップを手にして、お茶をひと口飲む。癖がなくてあっさりした味に、花のような香りがよく合っている。わたし、これ好きかも。


 ほっとしたせいか、お腹がくうと鳴ってしまった。うわ、恥ずかしい。男性から視線をそらしつつ、クッキーをひと口かじった。


「わあ、おいしい……」


 バターたっぷりでしっかりしているのに、少しもくどくない。ほどよい甘さに、しっとりとした生地。こんなにおいしいクッキー、初めて食べた。やっぱりこれ、そこそこ高級品だった? デパ地下のやつとか? パティシエが作ったやつ?


 うっとりしながら、お茶とクッキーをあっという間に平らげる。我に返ってほっと一息ついてから、男性に深々と頭を下げた。


「とってもおいしかったです。本当に、ありがとうございました」


「お口に合ったようで、何よりです。あれだけおいしそうに食べていただけると、出してよかったと思えます。おかわりはいかがですか?」


 子どもを見守る大人、あるいはハムスターを見つめる飼い主のような優しい目つきで、彼はわたしを見ていた。というか、温かく見守っていた。


 急に恥ずかしくなってしまって、急いで首を横に振る。もっと食べたいのは確かだけれど、さすがにこれ以上彼の厚意に甘えるわけにはいかない。


「あ、いえ、大丈夫です。それより、何かお礼をしたいんですが……」


 とっさにそんな言葉が、口をついて出た。正直、わたしに何かができるとは思えない。でも、言わずにはいられなかった。


「どうか、気になさらず。……ああ、でも」


 ふと、男性の表情が変わった。何かを考えているように、視線を宙にさまよわせている。


「そうですね。君がこの店に駆け込んできたのも、何かの縁なのでしょうし……せっかくだから、お願いしましょうか」


 どうやら彼には、何かわたしにできそうな仕事の当てがあるらしい。背筋を伸ばして言葉の続きを待つわたしに、彼はにっこりと笑いかけてきた。


「商品の仕入れを、手伝ってほしいんです」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ