1.それはイノシシから始まった
ひたすら、無言で、全力で、走る。
山の近くの住宅街、すっかり暗くなった通りには、わたししかいない。叫んで助けを呼びたいところだけど、怖くて声が出ない。
息が上がっても、まだまだ走る。立ち止まったら、終わりだ。
(お願い、ついてこないでー!!)
全力で祈りつつも、後ろを確認する余裕はなかった。
さかのぼること、少し。
運悪く文化祭実行委員に任命されてしまったわたしは、放課後も学校に残ってあれこれと雑用を片付けていた。
クラスのみんなが寄ってたかって「美羽は帰宅部で暇でしょ、成績にも余裕あるし」などと言って、この貧乏くじを押しつけてきたのだ。とはいえ、まだ高二だしこういう体験をしておくのもありかなと思ったので、特に気にせず引き受けることにした。
けれどじきに、わたしはその決断を後悔することになった。文化祭実行委員会って、予想外にやることが多かったのだ。
同じクラスからもうひとり委員が選ばれてはいたものの、その子は病弱で休みがちだったので、必然的にわたしの仕事が増えまくっていた。うう、面倒だなあ。しくじった。
ぶつくさ言いながら雑用を終わらせて、学校を出たときにはもう日がほとんど落ちていた。秋の日はつるべ落としって聞いたことがあるけど、これのことなのかな。
お腹が空いたし、ちょっぴり寒い。背中を丸めて、うつむき気味に足を動かす。静まり返った住宅街をひとりで歩いていたら、唐突にそれに出くわしてしまった。
わたしの行く手をふさぐように立ちはだかっている、影。
「え、イノシシ!?」
街灯に照らされたその姿は、やけに大きく見えていた。いや、本当に大きいイノシシだったのかもしれない。
ここ神戸の地には、イノシシが多く棲みついている。わたしも遠足なんかで山に入ったとき、ちょくちょくイノシシを見かけた。
でも、この辺に出るなんて、聞いてない!! 嘘でしょ!!
人間、心底びっくりすると悲鳴すら出ないのだと、生まれて初めて思い知った。
考えるより先に、体が動く。即座に回れ右すると、全速力で駆け出した。
野生動物に出くわしたときは、刺激しないようにゆっくり離れること。絶対に、背を向けてはいけない。
一応、そんなことを知ってはいた。けれど、どう考えたってそんなの無理! とにかく、一刻も早く、逃げよう!
体育の成績はずっと平凡そのもの、小学校も中学校もずっと文科系のクラブ。高校に入ってからは帰宅部で、全力で運動をした記憶なんてない。それがわたし。
けれど今、自分でも信じられないくらいの速さで足が動いていた。50m走のとき、イノシシがいたら新記録が出るんじゃないかなどと、場違いなことを考えてしまう。うん、間違いなくパニクってるな、わたし。
肩にかけたスクールバッグをしっかりとつかみ、曲がり角を右へ左へとめちゃくちゃに曲がり続ける。いつの間にか、まったく見覚えのない通りに出ていた。
それでも立ち止まることはできなかったし、振り返ることもできなかった。あとのことは、イノシシをまいてから考えよう。
幸い、神戸の街は方角だけは分かりやすい。山が北で、海が南。坂の上が北で、下れば南。目印になるような大きな道路も多いから、迷子にはなりにくい。
はあはあと荒い息を吐きながら、ひたすらに足を動かす。……そろそろ、体力がもたないかも……日頃の運動不足が、恨めしい……。
途方に暮れかけたそのとき、行く手に明かりが見えた。あれは家じゃない、店だ。開いているなら、逃げ込めるかも。
最後の力を振り絞るようにして、その店に駆け寄る。重厚でしゃれた木の扉には、「OPEN」と彫られた木の札が下がっていた。
やった、助かった。
「失礼しまーす!」
とっさにそう叫び、店に飛び込む。ちりんという涼しげなベルの音が、わたしを出迎えてくれた。
背後で扉が閉まるのと同時に、肩からずれたスクールバッグが、板張りの床にごとんと落ちる。つられるようにして、わたしもその場にへたり込んだ。
息を整えながら、こぢんまりとした店の中を見回す。
ここはどうやら、雑貨店のようだった。床板はつややかで、壁紙はちょっとレトロな感じ。壁の高いところに取り付けられたランプのような照明が、暖かなオレンジ色の光で店の中を満たしていた。
壁際にはどっしりした木の棚がいくつも置かれていて、そこにはこまごましたものが並んでいる。ちょっとした置物とか、ポストカードとか、お菓子なんかもあった。かわいいものばかりで、気になってしまう。
このお店、北野の異人館の近くにありそうな雰囲気だなあ。でもさすがに、そこまで走ってきた覚えはないんだけど。
ふうと息を吐いて立ち上がったそのとき、店の奥から声がした。
「おや、こんな時間にお客様ですか」
姿を現した人を見て、思わず息を呑む。
わあ、イケメンだ。それもアイドル系じゃなくて、もっとしっとりと落ち着いた雰囲気の……演技派俳優みたいな感じ? 歌舞伎俳優みたいな感じでもある。おっとりとしていながら、凛とした雰囲気もあって……ちょっぴり謎めいているのが、また魅力的だ。
まだ二十歳くらいにしか見えないのに、不思議とオーラのある人だ。
目は穏やかな黒で、ちょっぴりたれ目。柔らかな髪は、光の加減で茶色にも見える。
着ているのは、仕立てのよさそうなグレーのスーツ。上着の中にはベストも着てるから、スリーピース? って言うんだろうか。細めのネクタイは、つややかな青。
服装は年の割にちょっと堅苦しいというか、やや地味ではあるけれど、彼とこの店にはしっくりくる。
気づけば、彼のことをまじまじと見つめてしまった。彼はきょとんとしたように、目を見張ってこちらを見つめ返している。
「あ! えっと、その、わたし……」
ばつの悪さを感じつつ、あわてて口を開く。ああもう、初対面の人に見とれるとか、今までそんなことをやらかしたこと、ないのになあ。
「その、イノシシに追われてたんです。それでとっさに、ここに逃げ込んだだけで……」
そう答えつつ、店の入り口のほうをちらりと見る。木の扉の両側ははめ殺しの窓になっていて、そこから表の通りが見えている。ただ薄暗くて、イノシシがいるのかどうかは分からない。
「なのでちょっとだけ、かくまってもらえたらなあ、って……ずっと走ってて、息が、上がってて……」
こんなことをお願いするのは、ちょっぴり気まずくもある。けれど男性は少しも気を悪くすることなく、同情するように微笑みかけてきた。
「それは、大変な目にあわれたのですね。気になさらず、ゆっくりしていってください。そちらの席にどうぞ」
彼は店の隅のほうにあるしゃれた丸テーブルを指し示すと、そのまま店の奥に引っ込んでしまう。ありがたく思いながら、ひとまず腰を下ろした。ああ、やっと一息つける……。
やがて彼が、小さなトレイを手に戻ってきた。トレイをテーブルにそっと置いて、こちらに笑いかけてくる。
「お疲れでしょうし、こちらをどうぞ。疲れたときは甘いものが一番ですから」
トレイの上には、かわいい小皿に載ったクッキーが三枚と、温かな湯気を上げる紅茶のカップがひとつ置かれていた。
「……いいんですか?」
「ええ。お店からのサービスです」
彼はそう言っているけれど、このクッキー、結構お高そうな雰囲気なんだよね……ごちそうになっちゃってもいいのかな。
けれど、ここまで全力で走ったせいで喉はからから、お腹もぺこぺこだった。断るなんて選択肢はなかった。いいや、彼の言葉に甘えちゃえ。
「ありがとうございます。それじゃあ……」
カップを手にして、お茶をひと口飲む。癖がなくてあっさりした味に、花のような香りがよく合っている。わたし、これ好きかも。
ほっとしたせいか、お腹がくうと鳴ってしまった。うわ、恥ずかしい。男性から視線をそらしつつ、クッキーをひと口かじった。
「わあ、おいしい……」
バターたっぷりでしっかりしているのに、少しもくどくない。ほどよい甘さに、しっとりとした生地。こんなにおいしいクッキー、初めて食べた。やっぱりこれ、そこそこ高級品だった? デパ地下のやつとか? パティシエが作ったやつ?
うっとりしながら、お茶とクッキーをあっという間に平らげる。我に返ってほっと一息ついてから、男性に深々と頭を下げた。
「とってもおいしかったです。本当に、ありがとうございました」
「お口に合ったようで、何よりです。あれだけおいしそうに食べていただけると、出してよかったと思えます。おかわりはいかがですか?」
子どもを見守る大人、あるいはハムスターを見つめる飼い主のような優しい目つきで、彼はわたしを見ていた。というか、温かく見守っていた。
急に恥ずかしくなってしまって、急いで首を横に振る。もっと食べたいのは確かだけれど、さすがにこれ以上彼の厚意に甘えるわけにはいかない。
「あ、いえ、大丈夫です。それより、何かお礼をしたいんですが……」
とっさにそんな言葉が、口をついて出た。正直、わたしに何かができるとは思えない。でも、言わずにはいられなかった。
「どうか、気になさらず。……ああ、でも」
ふと、男性の表情が変わった。何かを考えているように、視線を宙にさまよわせている。
「そうですね。君がこの店に駆け込んできたのも、何かの縁なのでしょうし……せっかくだから、お願いしましょうか」
どうやら彼には、何かわたしにできそうな仕事の当てがあるらしい。背筋を伸ばして言葉の続きを待つわたしに、彼はにっこりと笑いかけてきた。
「商品の仕入れを、手伝ってほしいんです」




