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「婚約破棄したい?」─そう?あなたの秘密全て片付けてあげる。  作者: 渚月(なづき)


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第9話 最後の求婚者が砕ける時

師匠──アネリーゼ。

 薬草園で私に調合の基礎を教えてくれた、寡黙な女性。常に手袋をしていた。素手を見せることは一度もなかった。


 今なら分かる。手袋の下には、魔力を失った痕跡があったのだ。聖癒の力を持つ者の掌には、独特の紋様が浮かぶという。魔力を奪われた後も、紋様だけは残る。


 掌の紋様は、一種の「魔力の痕跡」だ。魔力は目に見えないが、長年にわたって聖癒の力を行使していると、掌の皮膚に金色の紋様が浮かび上がる。これは「魔紋」と呼ばれ、聖女の真贋を証明する最も確実な方法とされている。


 カルーセ領への手紙を書いた。師匠に直接会いたい。けれど今、王宮を離れるわけにはいかない。ジルベールたちの動きを見張り続けなければ、せっかくの証拠が無意味になる。


 代わりに、もう一人の鍵を握る人物を訪ねることにした。


 前宮廷薬師長、セバスティアン。王都郊外の小さな庵に隠居していると、レナートが教えてくれた。


 休日を使い、私はその庵を訪れた。


 石造りの小さな家。庭には薬草が整然と植えられている。トリカブト、マンドレイク、月見草──毒にも薬にもなる草ばかり。庭の配置は教科書通りの「薬草園式」で、日当たりと水はけを考慮した合理的な設計だった。かつて王宮の薬師長を務めた人間の庭だ。


「誰かね」


 扉を開けたのは、痩せた長身の老人だった。深い皺の間から、鋭い目が覗く。背は高いが、どこか重力に逆らいきれないように肩が丸まっている。


「王宮薬務室のイヴェッタと申します。セバスティアン元薬師長にお目にかかりたく」


「薬務室の。──入りなさい」


 室内は清潔だが簡素だった。壁一面の薬草標本。古い書物。机の上に、手ずから調合したらしい薬瓶が並んでいる。標本の一つひとつに、丁寧な筆跡で学名と採取日が記されていた。学者の几帳面さが、隠居後も変わっていない。


「お前が、カルーセ領の薬草園にいた娘か。アネリーゼから手紙が来ていた」


「師匠が?」


「ああ。お前のことを書いてきた。『私の弟子が王宮で困っている。助けてやってくれ』と」


 セバスティアンは茶を淹れてくれた。薄荷と菩提樹の茶。喉に沁みる味だった。薄荷は消化促進と精神の覚醒に効果がある。菩提樹は鎮静と発汗促進。相反する作用を持つ二つの草を組み合わせることで、心身のバランスを整える──まさに薬師の技だ。


「何が知りたい」


「すべてです。七年前に何があったのか」


 セバスティアンは長い沈黙の後、語り始めた。


「七年前、私は宮廷薬師長だった。王宮には本物の聖女候補がいた──アネリーゼだ。金色の光を放つ、正真正銘の聖癒の力を持った女性だった」


「その力が奪われた」


「ああ。侯爵家の先代──ジルベールの父親が画策した。聖女の認定権を掌握すれば、宮廷の実権を握れる。本物の聖女を排除し、自分たちの息がかかった偽の聖女を立てる。そのために、ベネディクトに毒の処方を命じた」


 セバスティアンの声が低くなった。


「マンドレイクの根を使った毒は、即効性がない。じわじわと、何ヶ月もかけて魔力の核を侵食する。最初の処方は七年前。そして三年前、アネリーゼの魔力が僅かに回復する兆しを見せた時、ベネディクトは再び処方を命じられた──お前が見つけた処方箋は、その二度目のものだろう。患者本人は体調不良だと思い込み、自分の魔力が奪われていることに気づかない。完璧な──そして、卑劣な手法だった」


「あなたは、それを止められなかった」


「止めようとした。だが、先代侯爵の力は絶大だった。私は追放され、アネリーゼはカルーセ領に送られた。証拠は隠蔽され、ベネディクトは沈黙を強いられた」


 セバスティアンの声は淡々としていた。けれど、茶碗を持つ手が微かに震えていた。七年分の後悔が、その震えに凝縮されていた。


「あなたは七年間、何もしなかったのですか」


 厳しい問いだと分かっていた。けれど、聞かずにはいられなかった。


「……何もできなかった。証拠がなかった。証人もいなかった。私一人では」


「今は一人ではありません」


 セバスティアンが顔を上げた。鋭い目に、驚きと──希望の色が浮かんだ。長い間、諦めていた目に灯った、小さな炎のようなもの。


「お前は」


「証拠は揃いつつあります。処方箋の写し、子爵家の財務記録、聖女候補の身元保証の覚書。そしてアネリーゼ師匠が生きているという事実。あとは、あなたの証言があれば」


「危険だぞ。ベネディクトは殺された。お前も──」


「承知しています」


 私は真っ直ぐセバスティアンを見た。


「でも、嘘をそのままにしておくことが、一番危険です」


 セバスティアンは長い間、私の目を見ていた。それから、深い溜息をついた。溜息には、七年分の重さがあった。


「トリカブトは毒にも薬にもなる──人と同じだ。私は長い間、毒の側にいた。沈黙という名の毒だ。もう少しだけ、薬の側に戻りたいものだな」


「証言していただけますか」


「ああ。──老い先短い身だ。最後くらい、正しいことをしよう」


 帰り際、セバスティアンが私を呼び止めた。


「イヴェッタ。一つ、忠告しておく」


「何ですか」


「ジルベールは父親より聡い。追い詰められた時、あの男は自分ごと盤面をひっくり返す。チェスで言えば、キングの自爆だ。自分が取られるなら、盤ごと吹き飛ばす。気をつけろ」


 その言葉を胸に刻んで、王宮に戻った。


 翌日、事態は急変した。


 セバスティアンの庵が放火された。


 火は深夜に起き、庵は全焼。セバスティアンは──助からなかった。


 報せを受けた時、私の手から薬瓶が落ちた。硝子が砕ける音が、やけに大きく響いた。飛び散った破片が、蝋燭の灯りを反射して、一瞬だけきらめいた。


 アシェルが駆けつけてきた。


「イヴェッタ」


「……間に合わなかった」


 声が震えた。初めて、この王宮で泣きそうになった。前世の記憶が一瞬だけよぎった。誰かの手を握りながら、何もできなかった──あの感覚。繰り返してしまった。


 アシェルは何も言わなかった。ただ、私の傍に立ち、落ちた硝子の破片を黙って拾い集めてくれた。


 一つひとつの破片を丁寧に拾う彼の手は、騎士の手だった。剣を握るために鍛えられた、大きくて無骨な手。けれど今、その手は硝子の欠片を壊さないように、そっと拾い上げている。騎士の手が、こんなにも静かに動くことがあるのかと、不思議に思った。


 破片をすべて拾い終えると、アシェルは立ち上がった。


「犯人は必ず突き止める」


 短い言葉。だが、その声には怒りが滲んでいた。普段は感情を見せないこの人が、私のために怒ってくれている。


 その背中を見ながら、私は拳を握った。


 セバスティアンは証言を約束してくれた。その証言を、生きているうちに形にできなかった。


 だが──彼が語った内容は、私の記憶にある。そして、レナートが記録に残してくれた退去記録がある。アネリーゼ師匠が生きている限り、証拠は消えない。


 (あなたの死を、無駄にはしない)


 握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込んだ。痛みが、悲しみを怒りに変えた。そして怒りは、決意に変わった。


 翌日、私は王太子オリヴィエに謁見を求めた。


「殿下。お話ししたいことがあります。この王宮で起きている──七年前から続いている不正について」


 オリヴィエの目が、初めて窓の外から私に向いた。真っ直ぐに。


「──聞こう」


 その一言に、迷いはなかった。


 そして、もう一つの知らせが届いた。

 カルーセ領から。師匠アネリーゼが、王都に向かっている、と。


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