第10話 嘘のない世界の始め方
すべてが動き出したのは、アネリーゼ師匠が王都に到着した日だった。
七年ぶりの王宮。師匠は相変わらず手袋をしていた。けれど、私が手を差し出すと、静かに手袋を外した。
掌に、金色の紋様が残っていた。聖癒の力の証──消えてはいなかった。
「魔力は戻らない。けれど、紋様は嘘をつかない」
師匠の声は穏やかだった。七年の沈黙は、この人から怒りを奪ったのではなく、覚悟に変えていた。カルーセ領の薬草園で、静かに、確実に、この日のための準備を整えていたのだろう。
金色の魔紋は、聖癒の力を行使し続けた者にだけ現れる。一度刻まれれば消えることはなく、偽造も不可能だ。王宮の古い文献にも「魔紋は聖女の唯一の証明なり」と記されている。
オリヴィエ王太子の前で、すべてを明らかにした。
私がこの数週間で集めたすべてを、殿下の前に並べた。
処方箋、財務記録、覚書、成分分析、退去記録──そしてアネリーゼの掌に残る金色の紋様。余計な言葉は挟まなかった。事実だけを、順に。
一つずつ、余計な言葉を挟まず、事実だけを並べた。感情ではなく、記録が語る真実を。
オリヴィエは最後まで黙って聞いていた。窓の外を見ることもなく、真正面から。彼の赤銅色の瞳に、何かが変わっていく光があった。
「──なぜ、もっと早く言わなかった」
「証拠が揃うまで、お話しする意味がないと判断しました。殿下のお立場を考えれば、噂や推測だけでは動けないと」
「……お前は王太子の立場まで考慮したのか」
「殿下を巻き込むなら、殿下が動ける形で差し上げるべきだと思いました」
オリヴィエの唇が、かすかに震えた。怒りと、後悔と、決意が入り混じった表情だった。
「──ジルベール侯爵と関係者を、王宮法廷に召喚する。令状は今日中に出す」
王宮法廷。国王直轄の裁判機関であり、貴族の不正を裁く最上位の法廷だ。通常は国王の勅命がなければ開かれない。王太子が単独で召喚令状を出すには、「国家の安全に関わる緊急事態」の認定が必要だ。聖女の偽装は、王宮の宗教的正統性を揺るがす事案──緊急事態の要件を満たしていた。
その日のうちに、令状が執行された。
ジルベールは、召喚を受けた時、微笑んでいたという。あの仮面のような微笑みを、最後まで崩さなかった。
法廷でのジルベールは、最後まで冷静だった。
「すべて、父の代の話だ。私は関与していない」
紫の靄。薄く、だが確実に。
「先代侯爵が始めたことを、あなたは継続しました。ベネディクト元団長への圧力、フェリスを通じた情報収集、セバスティアン元薬師長の庵の放火」
「放火? 根拠のない中傷だ」
「セバスティアン殿の庵の焼け跡から、火元に用いられた油が特定されています。王宮の備品庫に保管されている灯火用の特殊油と同一成分でした。備品庫の鍵を管理しているのは──」
「──財務顧問の管轄だ」
レナートが証言台に立った。声は震えていたが、言葉は明瞭だった。背筋は伸びていた。臆病な男が、最も勇気を必要とする場所に立っている。
「備品庫の出入り記録を確認しました。該当する日時に、侯爵家の使用人が出入りした記録があります」
ジルベールの微笑みが、ゆっくりと消えた。
セバスティアンの忠告が、頭をよぎった。「追い詰められた時、あの男は自分ごと盤面をひっくり返す」。
案の定、ジルベールは最後の手を打った。
「──すべて認めよう」
法廷がざわめいた。
「ただし、一つ条件がある。私だけではない。この不正に関与した者すべてを、同時に裁くべきだ。ハインツ公爵、ノエル子爵家、ダリオ近衛副団長──そして、知りながら沈黙していたオリヴィエ殿下も」
盤面をひっくり返す。自分が沈む時、周囲も道連れにする。
オリヴィエの顔が蒼白になった。
だが──私は、この手を予測していた。セバスティアンの忠告のおかげだ。
「侯爵閣下。オリヴィエ殿下は「知りながら」沈黙したのではありません」
私は法廷に立った。
「殿下が不正を知ったのは、私が証拠をお見せした時が初めてです。そしてその直後に、殿下は召喚令状を出されました。知ってから行動するまで、半日も経っていません」
「それは彼女の証言に過ぎない」
「いいえ。殿下と私の会話は、記録管理局の公式な謁見記録として残されています。レナート書記官が立ち会い、日時と内容を記録しました」
レナートが頷いた。「公式記録として、謁見の内容と日時を保管しています」
ジルベールの目から、最後の光が消えた。すべての計算が外れた瞬間、仮面の下にあったのは空虚だった。
法廷の結審は、迅速だった。
ジルベールは侯爵位の剥奪と王都追放。ハインツは公爵位の停止と蟄居。ノエルは子爵家の当主継承権の喪失。ダリオは近衛騎士団からの除名。シルヴィは聖女候補の認定取り消し。
そしてフェリスには──情状酌量が認められた。身分差による強要が認定されたためだ。薬務室への復帰は認められないが、王都の民間薬局での勤務が許可された。
法廷が終わった後、フェリスが私のもとに来た。
「ありがとう。庇ってくれて」
「庇ったんじゃないって言ったでしょう」
「……うん。でも、ありがとう」
彼は泣いていなかった。少しだけ、強くなったように見えた。背筋が以前より伸びていた。
ノエルとは、廊下ですれ違った。彼はもう、完璧な紳士の仮面をつけていなかった。疲れ切った顔で、けれど私を見る目だけは、初めてまっすぐだった。
「すまなかった」
靄がなかった。初めて、彼が嘘のない言葉を私に向けた瞬間だった。
「もう終わったことよ」
それだけ言って、歩き去った。背中が見えなくなるまで、振り返らなかった。
レナートは、法廷での証言が認められ、記録管理局の局長補佐に昇進した。臆病な男は、最後の最後で勇気を出した。
「あなたがいなければ、何もできませんでした」
と彼は言ったが、それは謙遜だ。彼の「うっかり」がなければ、私は一つも証拠を見つけられなかった。
アネリーゼ師匠は、王宮には戻らなかった。魔力は失われたまま、もう聖女にはなれない。けれど、カルーセ領の薬草園で、若い薬師たちを育てると決めた。
「お前に教えたことが、七年越しで実を結んだ。それだけで充分だ」
師匠の手は、手袋なしでも温かかった。
王太子オリヴィエは、この一件を通じて変わった。窓の外ばかり見ていた青年が、人の目を見て話すようになった。
「良き王の定義が、少しだけ分かった気がする。目の前の人間を、まず見ることだ」
彼はそう言って、初めて自分から笑った。
そして──アシェル。
すべてが片付いた夜、薬務室の前で待っていた。いつもの場所に。
「終わったな」
「ええ」
「巡回経路、元に戻すか」
「……戻す必要、ある?」
アシェルの足が止まった。灰青の瞳が、私を見た。
「ないな」
「そう」
短い会話。それだけだった。
けれど、彼が差し出した右手を取った時、その手が温かかったことが──この王宮で過ごした日々の中で、一番確かなものだった。
前世の記憶の中で泣いていた人の手に、似ていた。冷たかった手が、今は温かい。
偶然ではないと、もう知っている。
嘘の色は今日も見える。
けれど、この手には、一度も靄がかかったことがない。
薬務室の窓から、星が見えた。
王宮の夜は深い。けれど、暗闇の中にも──確かに光る、小さな真実がある。
それを信じて、また明日。
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