4-10/詭激
前回のあらすじ
獣狩り、開始。
追加の“獣”が1匹。手負いの隊員が4人。そして、ガス欠寸前の学生が3人。
足掻けば足掻くほどに、見えたはずの光明が塞がっていく。これ以上に状況が悪化することなどないと、そう考えるほどに手酷く裏切られる。
どこまでもどこまでも、念入りに希望の芽が摘み取られる。嘲笑うようなそのやり口にどこまで人為が絡んでいるのか、そんなものは神でもなければ見通すことは不可能だ。
確かなことはひとつ。「最悪の状況」など、とっくの前に通り越しているということ。
何をどうすればこの悪夢から逃れられるのか、そんなものを考えている余裕すらもない。たった1秒の思考停止があれば、人間は簡単に死に至る。
ここはそういう場所で、そういう空間だ。そういう戦場に、なってしまった。
「兵長!」
「…………っ!! くそ、やはり——」
こちらを視認した兵長が、この上ない焦りの言葉を口にする。逃がしたはずの俺たちが絶望的な戦闘に巻き込まれているのだから、その心中は推して知るべしだ。
もちろん。その兵長が置かれている状況もまた、希望の一欠片すら見出せないことは言うまでもない。
本来なら死んでもおかしくないほどの重傷を負って、なお兵長が戦っている理由。それは意地などではなく、それほどまでに戦況が逼迫しているからだ。
今しがた森から転がり出てきた隊員たちは、とても組織だった戦闘ができるような様子ではない。逃走用の陣形こそかろうじて機能しているものの、それも無いよりはマシという程度のものだ。
だが、それも仕方のないことだろう。
眼前で暴れている“獣”は、得体の知れない星屑などではないのだから。
彼らが相対している獣が誰だったのか、今はもうそれすらも分からない。どうやら佐野隊員ではないようだが、隊員のうちの誰かであることは明白だ。
今まで隣で戦っていた仲間が、次の瞬間には駆除すべき敵に変わっている。日本星皇軍の一員として誇り高く死ぬ、たったそれだけの望みすら彼には許されていない。
友人も、同僚も、あるいは己自身すらも。瞬きのうちに、言葉すら通じないバケモノに成り果てる。
どれだけ覚悟を決めた隊員であろうと、正常である限りその恐怖から逃れるのは不可能だ。あまりに残酷すぎる末路を前にして、およそ人間が正気でいられるはずがない。
ここまで彼らが抗戦を続けられたのは、ただガムシャラに逃げていたからだろう。特A級星屑という、あまりにも大きすぎる障害から逃げきるために、雑念など抱いている暇すらなかったはずだ。
不幸中の幸いと言うべきか、“シャウラ”は未だこの場に姿を現していない。うまく撒いたのか、それとも何らかの思惑が噛んでいるのかは知らないが、何にせよ逃げ果せたことは彼らの功績だ。
——人間が最も油断するのは、緊張から解き放たれた瞬間だという。
特大の敵から逃れ、たどり着いたはずの管制塔。そこが地獄と化しているなど、想像だにしなかったに違いない。
「あ……うわあああああああ!!!」
響き渡る絶望の叫びは、状況を正しく認識してしまったが故か。
残された隊員のうちの一人が、突如として頭を振り乱す。その狂気を——否、その正気を咎め立てることなど、此処にいる誰も出来はしない。
「ダメだ……!」
しかし、だ。それが許されるかと問われれば、また話は変わってくる。
星屑の群れを薙ぎ倒す樋笠が、呻くように小さく声を漏らす。兵長も、恐らくは魚見も、同じ懸念を胸に抱いているはずだ。
7人。こちらにいる人間をフル動員しても、残存戦力はたったそれだけだ。そのうちの一人が使い物にならなくなれば、戦線の維持はそれだけ困難になる。
未だ戦意を失っていない兵長はともかく、佐野隊員を含めた残りの3人はあまりに危険だ。一人がパニックに陥れば、そこから集団ヒステリーのような連鎖が起こっても不思議ではない。
数秒後に何が起こるか、その未来図は手に取るように分かる。だがそれを防ぐには、目の前の獣をどうにかしなければ始まらない。
「縺薙m縺励※縺上l」
「……くそ」
一撃。二撃。掠めるだけでも致命傷になりうるそれが、さも当然のように畳み掛けられる。
正面から振るわれる剣は、速度も威力も常軌を逸している。一度でも捕まったが最後、骨ごと真っ二つにされるのは疑いようもない。
いくら後退したところで距離を詰められ、近接戦を余儀なくされてしまう。疲労がピークに達している今、鍔迫り合いなど夢のまた夢だ。
「っ、ぐ——」
剣。剣。眼前に突き出される剣に対して、紙一重の回避行動を重ねていく。思うように動かない身体を動かせば、神経が焼き切れんばかりの負担を訴える。
こちらが切れる手札は残り二枚。だがそのどちらも、この状況下では相応しくないと言わざるを得ない。
一枚目の手札を切るには、この間合いは少しばかり近すぎる。二枚目は有効打になり得るかもしれないが、それでも使うだけの隙を作り出さなければどうしようもない。
首筋を刃が撫でる。すぐそこに立っている死が、ただ無表情に俺の手を引く。
……そうだ。死はただ、当然のものとして其処にあるだけだ。
力が足りないから死ぬ。生き残るだけの力がないから、当然の帰結として命が消える。それが分かりきっている以上、そこに恐怖など介在する余地はない。
だったら——だったら、なぜ。
何故、俺はここまで死にたくないと思うのだろう?
「…………っ」
考えるな。飲み込まれたくないのなら、走り続けろ。
何よりも恐ろしいものは、断じて死などではない。薄笑いを浮かべるソレがどれほど罪深いか知っているからこそ、触れたら終わりだと確信する。
「縺上k縺励>」
「————っ」
あと数秒のうちに状況は変わる。だが、目の前の獣をどうにかすることは、今の俺では不可能だ。
俺では、届かない。どれだけ手を伸ばそうと、眼前で起ころうとしている悲劇を止められない。
戦場で生き残るのは、狂気の渦に身を浸し続けられる者だけ。一度でも正気に戻ろうものなら、その瞬間に死が影を踏む。
一呼吸の失策すらも許されない極限状態で、彼は正気に「戻ってしまった」。錯乱し、隙を晒す人間が生き残れるほどに、この場は優しく出来てはいない。
彼は死ぬだろう。彼の正気に当てられた周囲の隊員たちも、高確率で死ぬことになる。
味方が減る、それはいい。戦力的には痛手だとしても、仕方のないことだと割り切ってしまえばそれで済む。
しかし、敵が増えるとなれば話は別だ。
星屑。それは錯乱した星刻者が至る終着点。
この獣が、仮に星屑だとするのなら——そしてそれが、“シャウラ”の制御下にあるものだとすれば。
彼らは本当に、死ぬことを許されるのか?
眼前の“獣”がどういった存在なのか、正確なところは知る由もない。証拠も根拠もない、くだらない妄想だと言われればそれまでだ。
だが、どれだけ最悪な想像であろうとも——悪意と絶望に塗れたこの状況で、その可能性を否定できるかと問われたのなら、答えは間違いなく否だろう。
三人の隊員が、そのまま三匹の“獣”になるのだとすれば。
この戦線は、今度こそ1秒となく崩壊する。
「いくぞ——」
もう一度繰り返そう。目の前の獣をどうにかすることは、今ここに居る俺では不可能だ。
だから。
俺は俺の、為すべきことを為そう。
獣の剣が服を裂き、肌を浅く削っていく。体の内側から滲み出す赤色に、何かが崩れ落ちる音がする。
「……樋笠!!」
水流、射出。傷を負ってまで優先したその行動は、しかし敵を倒すためのものではない。
俺では届かない。
だが、不可能を可能にする人材ならば、ここにいる。
誰よりも手を伸ばそうとし、掴んだ手を離さない人間を知っている。
——であれば。俺の役目は、彼をその手が届く位置に送り届けることだ。
「頼む」
「ああ、任された」
一瞬で俺の意図を理解した樋笠が、確信とともに頷きを返す。
水流をぶつけて相手を吹き飛ばすことなら、今までも散々やってきた。暴力的なまでのその力も、使い方次第では誰かを生かす力になり得る。
「……翔べ!!」
加減などない。手加減などもってのほかだ。樋笠という人間を知っているからこそ、全力で水流をぶち当てる。
叩きつけた掌のはるか先、星屑に囲まれた樋笠の足元へ。合わせた照準に違うことなく、10メートル級の水柱が噴き上がる。
巨大な水のアーチが向かう先は、言うまでもなく二匹目の獣の直上。天高く樋笠を打ち上げたそれは、ジャンプ台と言うにはあまりにも危険な奔流だ。
送り届けると言えば聞こえはいいが、要は力任せに押し流しているだけだ。一歩どころか半歩間違えれば、樋笠の命すらも危うい賭けでしかない。
だが。いかな困難であろうと、彼は必ずやり遂げる。
「繧?a縺ヲ——」
尾を引く彗星のごとき勢いで、大質量の水が獣へと直撃する。滝もかくやとばかりに叩きつけられるそれは、獣の行動を圧し潰すに足るものだ。
そして。樋笠拓海が、その隙を見逃すはずがない。
「斬った」
降り注ぐ大瀑布、その中に潜むは必殺の剣。
刃に宿る煌きは、どんな状況下でも曇ることなく光り輝く。研ぎ澄まされた一閃は水流を切り裂き、のみならず獣の腕をも切り落とす。
「ァ——A噫——!!」
「すみません。……どうか、安らかに」
慈悲も、容赦も。すべてを持ち合わせているからこそ、振るわれる剣には一切が存在しない。
舞い踊る刃の切っ先が、鮮やかな光芒を描いて駆け巡る。隊員たちを背にした樋笠の剣は、一切の淀みなく獣を切り裂いていく。
二匹目の獣の攻勢も、一匹目に負けず劣らず苛烈なものだ。にも関わらず、彼には指一本触れることすらも叶わない。
満身創痍でありながら、なおも一方的に獣を解体していく樋笠。その圧倒的な姿を見れば、僅かでもこちら側が優勢だと勘違いしそうになる。
「——谿コ縺帙??譌ゥ縺!!」
「……っ…………」
だが。
当然。そんな幻想を抱けるほど、この戦場は甘くない。
いくら樋笠が強かろうと、その戦力は所詮個人のそれだ。彼がいくら強かろうと、すべての敵を一瞬で殲滅させることなどできやしない。
彼を送り届ける任務を完遂したところで、目の前の窮状は変わらない。酸素の回らない頭が示す警告が、すぐさま現実のものとなって俺を襲う。
「縺ゥ縺?@縺ヲ」
降りしきる純白の雪は、しかし地に落ちたその瞬間に踏み荒らされる。ぬかるむ地面に足を取られようものなら、それが俺の命が終わるときだ。
不安定な足場が、不透明な視界が、こちらの集中を削いでいく。身体が空気を求めるそのたび、吸い込んだ冷気が喉に絡みつく。
「これで——」
神器抜刀。引き抜いた短剣、その先から迸る水流を、真一文字に振るい抜く。
身を翻す獣、その腹部に照準を合わせた横薙ぎの一閃。タイミングを見計らった一撃がヒットし、狙い通りに獣の体勢を大きく崩す。
「豁サ縺ォ縺溘¥縺ェ縺」
しかし。まだ、足りない。
「………………!!」
駆け巡る予感は何度目か。突き刺さる直感のままに身体を捩れば、意趣返しのような斬閃がこの身を削る。
「縺ゥ縺?@縺ヲ」
水流に押され、束の間浮き上がった獣。それはあろうことか、地に剣を突き刺すことで踏みとどまっていた。
腕一本で逆立ちした獣が、ギロチンのように剣を振り下ろす。一瞬でも回避が遅れていれば、豪快な袈裟斬りを食らっていただろう。
「……く」
攻めきれない。取れる手段が潰えるほどに、その事実はいっそう顕在化する。
単純なスペック差、最悪に近いこちらのコンディション。そればかりか、後手に回っても強いときている。
回避行動を取るたび、身体がスタミナ切れを訴える。いくら生の実感を噛み締めたとて、人間のエネルギーが有限であることは覆しようもない。
時間がない。時間がないのに、眼前の敵はあまりにも強い。
「————あ」
ふつふつ、と。
湧き上がる。
とめどなく。
持って1分。その間に獣を倒し切らなければ、どう足掻いても勝ち目はない。
殺さなければ、殺される。どこまでも明快、子供にでもわかる単純な理論だ。
生き残りたいと思うのならば、己が力で刃を振るえ。それすらできない者に、戦場に立つ資格などありはしないのだから。
「縺溘?繧?——!!」
三撃。四撃。執拗なまでに首元を狙う刃を、あまりに頼りない小盾で捌いていく。
こちらの得物は短剣一本。防御の隙間に攻撃を差し込むためには、もう一歩踏み込む必要がある。そしてそれを許してくれるほど、この獣は知性を失ってはいない。
「————!」
威嚇するように短剣を握り込めば、獣は殊更に大きく反応する。再度水流でリーチを伸ばそうにも、これでは却って決定的な隙を晒すのがオチだ。
正攻法では攻略不可能。力押しはおろか、小手先の技術すらも対策されているときた。
もとより付け焼き刃で対応できる相手ではないが、猪突猛進の割には恐ろしく頭が回る。樋笠のように削り殺せるだけの技量があれば別だが、俺にそんな悠長なことをやれる余裕はない。
必要なのは奇策だ。それも生半な手ではなく、この獣を完全に上回るだけの一発が要る。
「ああ——」
……ああ、そうだ。
何も。そう、何も恐れる必要はない。
そんなものは取るに足りないものだと、最初から理解しているのだから。
「安心しろ」
チャンスは一回。二度はない。
その一回で、きちんと殺しきってやる。
「縺ゥ縺?@縺ヲ——」
みしみし、と。獣の両腕を受け止めた盾が、またひとつ限界へと近づいていく。
腕ごとへし折らんばかりの剛力が、盾の表面に看過し得ない罅を入れる。受け流すのならともかく、次に正面から受ければ砕け散るのは自明の理だ。
こうしている今もなお、盾の耐久値は減少し続けている。この膠着状態を維持するのは、俺にとって不利にしかなり得ない。
もちろん、それはこの獣も理解しているだろう。そしてそれ故に、警戒レベルは最大にまで引き上げられている。
この獣は馬鹿ではない。頑なに回避し続けていた俺が防御を選択した時点で、何らかの裏があると読んでいるはずだ。
反撃に即応できるだけの余裕を保ちながらも、決して力は緩めない。人より堕ちた身でありながら、その思考の速さには感嘆させられる。
そして。だからこそ、こちらが付け入る隙もある。
正面から攻撃を受け止めている——それは取りも直さず、盾が獣に面しているということだ。
組み合った状態より、盾の表面がごぼりと音を鳴らす。泡立つようなその音は、真実そこが泡立っているからに他ならない。
「————」
考える時間は与えない。密着状態を保ったまま、ジェット噴射のごとく水流を放出する。
いかな獣とはいえ、ノーガードで受ければダメージは免れないだろう。どのような形であれ、直撃は避けるべく動くはずだ。
「螯ゆス輔@縺ヲ——!!」
咆哮する獣が選択したのは、身体を大きく翻しての蹴り。盾にかかっていた荷重が消えた瞬間、足から伸びる鋭い刃が俺を襲う。
盾の直線上から外れつつ、俺に行動する時間を与えない。間違いなくこの場における最適解だ。一度同じ攻撃を受けているとはいえ、それを瞬時に選び取れるあたり、やはりこの獣には知性が備わっている。
だが。それは、こちらの想定通りの行動だ。
コンマ1秒と満たない時間、その中で下された獣の回答。求めた通りの答えが頬を切り裂くと同時、第二の罠を発動させる。
本命の一発。それは正面ではなく、獣の背後より放たれる。
獣の死角となるポイント、あらかじめ定めておいた地面から。撃ち出した水流が雪を巻き上げ、獣を飲み込まんと牙を剝く。
一発目で行動を限定し、二発目で確実に仕留める。既に行動を選択してしまった獣に、この一撃を回避する術はない。
大質量の水が直撃すれば、いくら獣といえど確実に怯む。その事実は、他ならぬ己の手で実証済みだ。
…………そう、そのはずだ。
確実に仕留められる自信があった。これで詰みだと、確信を持ってそう言い切れるはずだった。
なのに、どうして。
どうして獣は、この攻撃をも避けられる?
ぐるり、と。
“獣”の上に咲いた花が、勢いよく真後ろを向く。陽の光を求める向日葵のように、彼は死角だったはずの場所を視認していた。
「っ——」
十重二十重に重ねた思惑すら、見通していると言わんばかりに。
あまりに強引な動きで、獣が上空へと跳躍する。およそ尋常でないその脚力は、身体強化があってなお異常の域に達するものだ。
貴重な手駒を減らさないよう、肉体にかけられたドーピングが強制的に機能したのか。全身が砕け散る事も厭わぬ勢いで、獣が高空へと飛び上がる。
「繝峨え繧キ繝……!!」
響き渡る叫びは、苦しみ悶える悲鳴そのもの。
すべてを足し合わせてなお、たった1秒にも満たない攻防の果て。理を超えた力が、張り巡らされた読みを覆す。
どれだけ策を弄したところで、圧倒的な力の前では無力なのだと。全てを捩じ伏せる暴力が、そう言わんばかりに天から落ちてくる。
「……なーんて」
ああ、そうだ。それでいい。
問題ない。ここまで含めて、すべてが想定内に運んだとも。
「——換装!!」
奴が何をし、何を考えているのか。僅かに聞こえるその声にどんな意味があるのか、それすらもまるで分からない。
だが、俺は知っている。
問うまでもない。奴は——魚見恭平という人間は、必ず動く。
逆回しのように収束していく暗幕は、なんらかの能力によるものか。あるいはもっと単純に、それを維持することすら出来なくなっただけなのかもしれない。
晴れ渡る視界の向こう、数十メートル先の一点。
構えられた洋弓の先で、番えられた何かが迸る。
「3番、召喚——全装填!!」
天高く跳躍する獣、その瞬間を待っていたと言わんばかりに。
魂から絞り出された叫びと、呼応するがごとく爆ぜる閃光。洋弓から撃ち出された何かが、滞空する獣の身体を吹き飛ばした。
僅かな静寂。
その意味を認識した時にはもう、すべてが終わっている。
「——————!!!!」
声にならない声を上げ、天より落ちてくる獣。地へと叩きつけられるその姿は、あるべきパーツの過半がごっそり欠け落ちている。
避けられない。避けさせない。覚悟とともに放たれた光跡は、確かに獣に致命打を与えていた。
「……縺斐a繧薙↑縺輔>」
両腕を失った。脇腹にはごっそりと大穴が開き、まともに機能させるのは不可能に近い。
あるいは再生機能もあるのかもしれないが、傷の具合に比べれば焼け石に水だ。あの異形並みの再生速度でもない限り、ここから勝負をひっくり返すなどできるはずもない。
だが。そんな状況、この獣には何ら意味を為さない。
「縺斐a繧薙↑縺輔>」
まだ、死ねない。まだ、立ち上がる。
命果てるその時まで——否、果ててもなお。獣となってしまった以上、その生に安息は齎されない。
そこに、彼本人の意思はもはやなく。あるのはただ、飼い主によって生かされ、その命令を全うする“獣”の意思だけなのだから。
「縺斐a繧薙↑縺輔> 縺斐a繧薙↑縺輔> 縺斐a繧薙↑縺輔>」
獣の周囲を囲うように、全方位から水流を噴き上げる。噴水のようなそれの目的は、獣の視界を一時的に封じることだ。
視界を占有する水の壁が、次の攻撃の出所を不鮮明にさせる。それを突き破る一撃こそ、この勝負を決するものに他ならない。
「A————ア——噫アあああ!!!」
あるいは。それは意地だったのかもしれない。
決死の咆哮とともに、水の壁を突き破るソレを叩き落とす獣。最後に残った誰かの意地が、その行動を獣に選択させたのか。
完全に支配され、使い潰されるのを待つだけだったにも関わらず。その誰かは最後の最後で、獣の闘争を人間の決闘へと塗り替えたのだ。
すべては仮定、無意味な話だ。
だが。それを認めることは、きっと無価値な話ではない。
——獣が叩き落とした一撃は、ひび割れて壊れかけた盾。もはや使い道などないそれが、獣に致命的な隙を生む。
「終わりだ」
撃ち出した碧落のワイヤーを巻き取り、水の壁を突き破って肉薄する。勝負を決める武器はただひとつ、それは俺の掌に握られているものだ。
盾を使った陽動、碧落を使った接敵。最後に残った神器は一本、それだけあれば十分に止めが刺せる。
たった一本の短剣。それは決して過つことなく、確かに獣の核を貫く。
「縺ゅj縺後→縺——」
声が揺らぎ、虚空に消える。
最後に、そう言い残して——“獣”だった誰かは、静かにその生を終えていた。
その在り方は、獣か、人か。
夜明けは、まだ遠い。
次回の更新は明日夜を予定しています。クリスマス編にふさわしい、ハートキャッチなお話をお届け。
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