Hero/アリカ・ディアランド
──アリカ・ディアランドには、私を満足させられるだけの才能がなかった。
これは結局、ただそれだけの物語だ。
1
物心がついた頃、祖母が読み聞かせてくれた絵本が印象に残っている。勇者と魔法使いが龍を倒して世界を救う、ありふれた英雄譚。そのありふれた王道性が、幼い私のお気に入りだった。
私にもこんなふうに、誰かを助けることができるのかな。
あまりにも幼い私の夢は、祖母が肯定してくれたことで夢ではなく目標になった。
それが私の原点だ。
私という物語が歪み始めた、その起点。
それから数年後、五つか六つあたりの頃だっただろうか。
この国の貴族たちの間では、子息がこの年頃になると魔力測定を行わせるのが通例になっている。彼あるいは彼女が跡継ぎとして相応しい能力を有しているかを見定める重要な時期であり、それは私にとっても例外ではなかった。
対象が保有する魔力量に応じて色が変化する、という水晶玉。貴族階級が伝統的に用いているらしいその魔力測定器に、私もまた手を触れた。すると水晶は目まぐるしく色を変え始め、一定の色彩を保つことなく変化を続けると、最終的にはその表面に罅が入ったところで変動を止めた。
室内は騒然としていた。両親も使用人もお抱えの魔術師も、誰もが称賛を口にした。測定器の容量を上回るほどの魔力量を誇る人材は百年にひとりの逸材だ、と彼らは言った。その言葉のどこにも嘘偽りはなく、顔に浮かぶ喜色や驚きも含め、誰もが本心からこの才能を褒めているのだとわかった。
そして私は──はっきりと、私自身の才能に失望していた。
お伽噺の魔法使いは、私と同じ年頃で水晶玉に触れたとき、それを粉砕したらしい。後から思えば紛れもなくそれは作り話で、無垢な子どもたちの心を躍らせようと作者が用意した茶番のひとつに過ぎなくて、けれど幼い私は、完全にそれを真に受けていた。
真に受けて、本気にして、心底信じて──そして、その境地に達することのできない自分に落胆した。
その日を境に、私の生活は一変した。
中心に据えられたのはもちろん魔術の修練で、家お抱えの魔術師だけでなく宮廷に仕える魔導師までもが指導してくれることもあった。空いた時間に身体を鍛え、あるいは魔術以外の学問を修めるような毎日が続く。
連日の指導を終える度に彼らは私を褒めてくれた。けれどそれは私の心に響かなかった。開始点から出遅れていた私が、多少の努力を重ねたところで後追いの道を歩むだけ。お伽噺の魔法使いに、私は一生届かない。新たな魔術を習得し、新たな技術を会得する度に、私の失望はいっそう深まっていく。
幼少期の終わり。
英雄になることのできない自分という存在を、私は明確に自覚した。
2
文字の読み書きを学び、本を読めるようになった頃から、私は蔵書室に籠りがちになった。勉強の合間を縫って時間を見つけては、古今東西の書物を貪るように読んだ。
偉人たちの伝記であれ、庶民の生活を身近に描いた小説であれ、身分違いの恋を題材にする浮ついた話であれ、解明者と呼ばれる人種が様々な謎を解く奇譚であれ、得体の知れない恐怖を感じさせる奇談であれ、あるいは現在とは違う、魔術ではなく技術が発達した世界が舞台の空想であれ。
そこになにかしらの物語が介在する限り、私の興味を惹かない書籍はなかった。
自分という物語に失望した私には、自分ではない誰かの物語を愛して生きることしかできなかった。
低俗だと貴族たちが侮蔑するような小説には、軽薄であるが故の気楽な面白さがあった。高尚だと貴族たちが愛読するような古典には、その評価に恥じないだけの重厚な風格があった。
歴史から学びを得るためでもなく、立場に見合う教養を身につけるためでもなく、ただ自分が楽しむためだけに読書を愛好した。
私は彼らの物語を愛していたし、登場人物である彼女らを愛していた。彼らの苦境では自分も手に汗握り、彼女たちの喜びを自分のことのように喜んだ。彼らが幸福な結末へと至ることを誰よりも望んでいた。
誰かを幸福な結末へと連れていくことができるヒーローに、憧れていた。
それが空想だと今度こそわかっていて、それでも私はその空想への憧れを否めなかった。非現実的だと思い知っていても、誰かを救うことのできる存在に憧憬を抱いた。世界を救うことはできないとしても、誰かひとりを救うことならできるかもしれないと期待した。その期待が幻想に過ぎないことは、自分が一番わかっていたけれど。
自分の才能に失望していても修行するのをやめなかった理由のひとつが、そんな漠然とした心残りだったのだろう。
修練と勉強の合間で本を読むような毎日の末。
年齢が十五になった頃、私は魔法学園に入学することになった。
3
学園に入学しても、特に人づきあいをしようと思ってはいなかった。
貴族という人種が、もちろん自分のことも含めて、私は好きではない。それは物語において悪役であることが多いからでもあるし、現実における家族ぐるみの関係でその人柄を知る相手が多いからでもある。貴族とは富と噂話が大好きな、地位が高いだけの下劣な連中だという偏見が強く、そんな貴族の子息や子女が通う学園にもあまり良い印象がなかった。
両親から頼みこまれていなければ、おそらく通いもしなかっただろう。
けれど実際に入学した私は、自分を学園に通わせるよう促してくれた両親に深く感謝することになった。
なぜかといえば、そこで生まれて初めての友人ができたからだ。
サクラ・アシベールという名の彼女は、私にはないものをたくさんもっていた。真っ先に目につくのは、肩ほどで切り揃えられたその美しい黒髪だろう。夜の闇色に染まったような、純粋でまっすぐな色艶の髪。光を反射してばかりで鬱陶しい私の髪とは違い、あらゆる光を吸収して静かに輝く様子が見ていて落ち着く。それに対して真っ白な肌と端正な顔立ちは不健康というよりは透明な印象を与え、頭髪や制服の漆黒との対比が鮮やかだ。
それほどの美貌を備えながら、貴族階級ではなく庶民的な育ちをしてきたというから恐ろしい。持ち前の資産を活かして美容に余念のない貴族の令嬢たちとは根本的に異なる、天性の美しさである。それでいて貴族連中のような傲慢さは欠片もなく、謙遜と忠実を美徳とする精神性。謙遜を超えて自己嫌悪が激しく、忠実と称せば冗談になるような私とは掛け離れた人間性。
決して派手ではないけれど、だからこそ静かな存在感を示している彼女は、まるで物語の主人公みたいに思えた。
そうしてなんとなく話し掛けてみると、私たちは想像以上に気が合った。自然と学園での生活を共にする時間が長くなり、ますます仲は深くなっていく。彼女がどんどん掛け替えのない友人になっていって、けれどだからこそ、少し怖くなることがあった。
サクラが見ている私は、私から見た私とはあまりにも違う。もっともそれは彼女以外の生徒たちにも同様に当てはまることではあったけれど──彼女たちの私に対する評価は、信じられないほどに高い。そんなものは私ではないのに。褒めてくれること自体は、特に友人からのそれは嬉しいけれど、私はそんな人間ではないのに。
幼い頃の目標をあっさりと諦めて、かといって完全に捨てきることもできなくて、中途半端なままに生半可な努力を積み重ねてきてしまった、欠陥だらけの、英雄のなり損ない。それが私の、そのはずなのに。彼女が言うような完璧な存在では、決してないのに。
とはいえ、学園に入ってから私の魔術の実力が伸びたのは事実だ。でもそれは私の才能なんかではなくて、サクラがいてくれたおかげだった。彼女が心の底から私の成長を喜んでくれるから。彼女が私の成長を彼女自身のことのように誇ってくれるから。だから私は、自分のためではなく彼女のために努力することができただけ。
努力という点では、私よりもサクラのほうが賞賛されるべきだと思う。成長する伸び幅もその速度も格段に優れているし、何よりひたむきだ。私という友人に恥じない自分でありたいと笑う彼女が愛おしくすらあって、その努力に敬意を抱くことしかできない。
友人と過ごす学園生活はとても楽しくて、けれど主観と客観との間の断絶が恐ろしくなる。
迷宮探索の特別授業が行われたのは、そんなある日のことだった。
4
不覚だった。
一生ものの不覚だった、と言い換えてもいい。
自分の精神の安定性には、わりと自信があった。数多の本を読んできた経験は状況を客観的に整理する思考を助けている。並のできごとではそう簡単に動じたりしないという自負があった。
死という事象の衝撃は、それ以上に大きいもので。
親しい人が亡くなったという報せは、破滅的な衝撃を伴った。
おばあちゃんが死んだ。祖母が亡くなった。その現実に現実感がなくて、実感が形成されない。自分が思い悩んだからといってどうなるというものでもないとわかっているのに、動揺が止められない。
顔が真っ白だとサクラに言われて、取り繕うように笑顔を浮かべた。うまく笑えた自信がなくて、それでも気にせず笑い続けた。
探索の二日目は散々なものになるだろう、と曖昧な意識下で確信する。
散々なものになった。
自分でも面白いくらいに手が震えている。思考が揺らぎ、脳が震える。自分が今どこにいるのかわからなくなる。自分が何をしているのか認識できなくなる。魔術の展開にすら失敗するありさまの自分を、もうひとりの自分が嘲笑っているような錯覚。どうしようもないくらいに私は、班のお荷物だった。
それでも咄嗟にサクラを庇うことができたことだけは、自分を褒めてやることができた。朦朧とした意識の中で魔物が彼女に迫っているのを認識して、思考する前に身体が動いていた。胸の中心をその爪が貫いた。痛みはなかった。動かないように爪を押さえつけながら、サクラの様子を見た。片腕が壊れている以外大きな怪我のない彼女の魔術が魔物を焼き尽くした。支えを失って倒れた。サクラが無事であることが本当に本当に嬉しくて、私は笑っていた。
そのまま、意識が暗転する。
5
目を覚ましてからしばらく、自分がどこにいるのかがわからなかった。治療所に入院する患者が身につけているような病衣。肌着はなく、胸には包帯が巻かれている。医務室ではなく自宅の自室にいることと傷の治り具合から考えるに、迷宮探索の日から幾日か経っているようだ。
使用人に命じて情報をいくつか集め、学園の状況を確認する。そして私は、少しだけ安心して、思った。
──やっと化けの皮が剥がれてくれた。
学園は私の実力は嘘だったのだという噂で持ちきりだった。私がすごいと勘違いして祀り上げていたような形跡は影も形もない。脅迫だとか援交だとかの下らない風聞も気にならなかった。同時に、実は私よりもサクラのほうが優れた学生なのだという噂も広がっていた。それには全力で同意した。わかり手である。こっそり噂の広がりに手を貸しもした。サクラのすごさを同級生たちが知ってくれたことが嬉しくて、そして。
ならもう私は彼女に会わないほうがいい、と思った。
今のままならサクラはきちんと評価され続ける。私みたいな偽物ではなく、彼女のような本物が尊敬されている現状こそがきっと正しい。だから、今更私が水を差すようなことをすべきではないのだ。
そんな衝動に駆られたまま──わざわざ見舞いにきてくれたサクラにも、心にもない酷いことを言って追い返した。
また一緒に授業を受けたいと言われて流石に心が痛んだけれど、それだけだった。心が痛んだことを隠すように心ないことを言い立てた。サクラが私のことを裏切ったなんて、事実に則さない噂を止めてくれなかったなんて、実は私のことを妬んでいたのだろうなんて、これっぽっちも思っていなかったのに。心にもないことを言って彼女を裏切っているのは、私のほうなのに。
サクラのことを妬んでいたのは、私のほうなのに。
酷いことを言って彼女を裏切る自分に酔っているという自覚があった。こんなに酷い人間に彼女が会おうとすることはないだろう、と思って安堵した。もう二度と会うことがないかもしれないと考えると、少しだけ寂しかった。
だから、サクラが翌朝また私を訪れてくるなんて思いもしなかった。
6
彼女が孤児だということを、私はまったく知らなかった。入学当初に彼女が抱えていたという不安も見当さえつかなかった。相手のことを何ひとつとして知らない私は、やはり友人として最低だと思った。
その不安を覆してくれたと彼女は言うけれど、感謝されるようなことをしたわけではない。私が勝手に興味をもって勝手に友達になろうとしただけで、挙句に裏切って、友達にすらなりきれなかった。
私のことを妬んでいないと彼女は言う。
──妬んでいたのは、私のほうだった。
私の失墜を望んでいないと彼女は言う。
──けれど私自身はそれを望んでいた。
全幅の信頼に胸が痛む。絶対的な肯定に怯えを感じる。
私のことを信じてくれるサクラが、怖い。
私と友達になったことか彼女を救ったのだ、とサクラは言う。
そんなことはない。
彼女のことを救った私のことを誇りに思う、とサクラは言う。
そんなはずはない。
彼女のことを救った私の引き立て役でいられる彼女自身を誇りに思う、とサクラは言う。
──それは、卑怯だった。
私の存在が彼女を邪魔していたのに。私を引き立てることが彼女の魅力を覆い隠していたのに。そのはず、だったのに。
彼女自身が引き立て役である自分を誇りに思っているのなら、私にそれを否定できるはずがない。私のことを肯定するサクラの言葉を、どうしても否定することができない。
──どうして、と喘ぐように尋ねていた。
決壊しそうになる何かを懸命に堰き止めながら。気づかないうちに流れ出していた涙を拭うことさえできずに。荒くなる呼吸を抑えながら、彼女に問うていた。
──どうして、そこまで私のことを信じてくれるのか。
──どうして、そこまで私のことを肯定してくれるのか。
──どうして、そこまで私のことを想ってくれるのか。
どうして──、と。
見えるはずのない扉の向こうで、サクラが満面に笑みを浮かべているような気がした。
7
「だってアリカは、わたしのヒーローだから」
8
そこが、限界だった。
「あ、」
耐えてきたものもこらえてきたものも抑えてきたものもすべてすべてぶちまけるような勢いで、私は、
「ああああああああああああああ──ッ!!」
私は、泣いていた。
全力で泣いていた。全身で泣いていた。全霊で泣いていた。
号泣だった。慟哭だった。絶叫だった。ありとあらゆる十五年分の感情をすべて混ぜこんだ涙声だった。
声が嗄れるほどに叫ぶ。胸の傷が開くほどに身体を曲げて、目が痛くなるほどにきつく閉じて涙を流した。
情動が爆発したかのように感じた。無意識のうちに抑制していた感情が殻を突き破っていた。扉の外側でサクラがじっとしていることに安心して、遠慮も外聞もなくただ泣いた。
──幼い頃、お伽噺の魔法使いに憧れた。
それが夢物語だと思い知っても、誰かを救うことへの憧憬は消えなかった。
だから次は、物語のヒーローに憧れた。
それさえも不可能だとわかっていて、それでも心のどこかにほんの少しだけ希望を残したまま、無駄だろうと思いながら努力を重ねていた。
もうほとんど、その夢を諦めかけていたのだ。
──けれど、無駄ではなかった。
──私は、自分でも気がつかないうちに、誰かにとってのヒーローになっていた。
なれたのだ。
言葉にならなかった。
言葉にする余裕もなくて、私はただ泣き続けた。
無駄かもしれない努力を重ねている自分を直視するのが怖くて、心を隠した。
本物に少しでも近づきたくて、形だけは誠実であるかのような振る舞いを繕った。
隠しごとばかりの紛いものである自分に、初めて友達ができたことが嬉しくて、舞いあがって、救おうとして──失敗して。
それでも、間違いではなかった。
自分が一番助けになりたかった人のことを、自分でも気がつかないうちに救っていた。
虚勢が、崩れる。
鎧が、剥がれる。
覆い隠していたものがなくなって、その下に眠っていたものが噴出する。
すべての澱が涙となって流れ去るまでにはひどく長い時間が掛かって。
それが終わる頃には、すっかり泣き疲れてしまっていた。
眠気でぼんやりとしてくる思考の隙間に、子守唄のようにサクラの声が入りこんでくる。
言われて初めて迷宮探索のことを思い出した。ほとんど忘れかけていた、というのは冗談だけれど、興味は薄れかけている。サクラ以外の四人のことは正直どうでもいい、とすら思っていた。
お世辞にも話を聞く側の姿勢として良いものだったとはいえないけれど、それでも、一番大事なところだけは聞き届けていた。
「だから、アリカ。──わたしを、たすけて」
足音が去っていくのを感じながら、睡魔に負けて意識が暗転する、その直前。
声に出すことなく、心の中で私は応えた。
──まかせて。
9
さて、状況を整理しよう。
現場は学園が保有している人造迷宮、その内部。遥か昔の学園長が施したという術式により半自動的に内部の構造が変化し、それに応じた敵性生物が魔術的に生成される。
問題となるのはこの術式の効果のひとつ。授業のために迷宮を使用する際の混乱を避けるため、つまりは一度に多くの生徒が内部でかち合うことを避けるために用意された術式。これにより、時間を空けて別の集団が内部に入った場合、それぞれの集団が別の迷宮に入りこむ、という仕様が成立している。
多重迷宮、あるいは並行迷宮とでも言おうか。迷宮が存在する座標は一意だけれど、その迷宮への解釈が多数存在している状態だ。異なる迷宮が同時に存在する──その中のひとつに、サクラがいる。
サクラたちが迷宮に入るのと同時に迷宮入りすることができれば最善だけれども、それは不可能だ。自分に対する悪評を自分で広めたことがここになって響いてくる──サクラに迷惑を掛けることはできない。
かといって、迷宮に入らないという選択をすることもできない。約束を、してしまったから。私はサクラを助けなくてはならない。
──では、どうするか。
誰にも入ることができない迷宮の謎を、いかにして解くか?
策はひとつだけあった。というより、可能性はそれしかない。
私が愛好する物語に登場する解明者は、こんなことを言っていた。
曰く、不可能を消去した末に残るのがいかに奇妙なものであったとしても、それが真実となる。
つまり──絶対にサクラを救うことができないと確定している選択肢をすべて捨てて、最後に残るのがいかに低い可能性だったとしても──サクラを救うことができるのは、その選択しかない。
迷宮に潜らなければ何も始まらないのは明白だ。
かといって、単に迷宮に潜るだけでは彼女と遭遇できずに終わる。
だから。
探索がなんらかのかたちで終了するまでは他の班と遭遇することがないのなら、迷宮を踏破することでいったん探索を終了してしまえばいい。
それが、唯一の可能性だ。
そうと決まれば話は早い。
一日掛けて傷を完治させ、制服に着替えて準備を万全に整え、誰にも見つからないように学園へと侵入する。同級生たちが全員迷宮内部へと入っていったのを確認してから、先生たちの注意が逸れた隙に、迷宮へと突入した。
──視界が切り替わった直後、あらゆる魔術を展開する。
移動速度加速、動体視力強化、反射神経強化、疲労速度減衰、と重ね掛けして自分の身体は完璧。そこに魔物対策用の魔術をつけ加える。魔術を自動で射出する結界を軸に、私の思考よりも早く敵を撃ち抜くための術式を用意する。いざというときに備え、詠唱を省略して魔術を放つ準備も忘れない。
あとは──駆け抜けるだけ。
七日ぶりに訪れた迷宮を、再会の挨拶もほどほどに疾走する。浅層の雑魚は自動で焼き払ってくれるし、罠は起動するより早く乗り越える。次第に敵が罠が苛烈になっていくのを気にせず、同じ方法で対処する。それさえうまくいかなくなって──
そこからは無我夢中だった。考えるより先に身体が動く──考えていることを自認するより早く行動に移す。些細な傷は気にも留めずに、重めの傷は応急処置を済ませてまた走り出す。間に合わないかもしれない、とは考えなかった。間に合わせよう、とも考えなかった。ほとんど何も考えていなかった。思考の中心にあったのは、ただひとつだけ。
──絶対に、サクラを助ける。
気がつくと最奥にいた。最深部を守っていた最後の敵がうっすらと記憶に残る。踏破したことへの感慨も薄い。迷宮の支配権の一部が譲渡された、ということだけを認識。何をすればいいのかもわからず、サクラがいる迷宮へ、と念じた途端に視界が切り替わる。眼前にはへたりこむ彼女と、片手を振りあげた魔物の姿。既視感を覚えるよりも安堵を感じるよりも思考をするよりも前に魔力を直接放つ。
過剰に魔力を取りこんだ魔物の身体が耐えきれずに爆散した。
思わず座りこみそうになるのを無理やり抑えて、残る魔物を殲滅する。そこで私に気づいた他の四人がこちらを向くのにつられて、サクラの視線が私に移る。
身体が今にも崩れ落ちそうなのを隠しながら、精一杯恰好つけて私は笑った。
「──助けにきたよ、サクラ」
10
そうして、一連の事件はあっさりと終わりを告げた。
二回目の迷宮探索から数日が経つ頃には私とサクラに対する評判もすっかり以前と同様になっていて落胆したけれど、サクラ自身は喜んでいたので良しということにする。
過去五十年間まったく踏破されていなかった迷宮を私が踏破してしまったことでよりいっそう畏敬の念が強まったという見解もあるらしいけれど、気にしたら負けのように思う。サクラはそのことを知らないので問題はない。
サクラとの関係も以前どおり──というよりは、少しだけ距離が近づいた気がする。班の編成が変わって彼女とふたりきりになったのも一因だ。私が大泣きした日のことは気恥ずかしくて話題に出せないけれど、彼女も私がどうやって彼女を助けたのかを訊いてこないから、それでおあいこだと思う。
私の自己認識も、決して好転したわけではない。サクラのためだと思えばある程度以上まで振りきることができるけれど、私だけの状況では以前のように仮面を被ってしまう。それでもいいかな、と今では考えることができる。サクラを喜ばせることが、私の一番の望みだから。
──アリカ・ディアランドには、私を満足させられるだけの才能がなかったけれど。
どうやら、ヒーローにはなることはできたらしい。