第二十一章 宇佐美海月
川の水が海へと還るように、木に成った果実が地へと落ちるように、夏の後は秋が訪れる。
無数の命に区切りが付けられ、次の夏に備えるための準備の季節であり、その観点からすればある意味で始まりの季節とも言える。
高校二年の夏季休暇、その只中の一件を契機に、僕の内部には炎が占める一帯が生まれた。
どれほどまでに血気盛んな豪傑にしても、はたまた冷血なる軍師であれど、我が隣で炎熱が猛っていては、その存在を完全には無視することはできぬ。動物的な本能によるものか、あるいは知恵の実を食したが故に得た先見によるものか。どうであれ、常に視界の片隅に置いて自らの監視下に治めておきたがるもの、それが炎という存在であり、現象である。
恋が炎に例えられる所以はそこにあると、僕は考えている。
結局のところ、人の感情というものは、それが自身のものであっても完全には制御などできはしない。
その中でも一等手に負えないものは何か。それこそが憤怒でも怨嗟でもなく、恋慕である。
感情の先端を向けるにあたり代替手段――例えば、より弱き者や脅威の感じられない者へと矛先を突きつけること――が用意されているそれら怒りや憎しみとは異なり、こと恋愛の情に限れば別の対象を見つけること……これができない。
故に、当人に抑える術が用意できないのであれば、せめて何時の瞬間に爆ぜるのか、あるいは冷え込んで消火するのか、その推移を遠巻きに眺めるしかないのである。
僕の中ではそのような炎に包まれた焚火台がひとつ組み上げられており、級友たちと過ごした夏季休暇のとある一日を境に、燻ることなく残り続けていた。
この炎が大きくなる前に水をかけて鎮火すべきか……あるいは今暫くの間手をかざして心の暖を取るために残しておくべきか……僕は未だに決心がつかず、仲秋を過ぎた十月の今日まで静観を続けていた次第である。
さて、秋を話題としてこの章を切り出したが、ここで取り上げるは僕の親友であり、この季節を表す同じ漢字を名とするシュウのことではない。そのシュウに想いを寄せる、僕の妹の海月についてである。
これまでに何度かその名が挙がり、何かとつけては騒がしいということを描写してきたこの海月について、本題に入る前に改めて説明しておくことにしよう。
僕がかほ姐さんと呼ぶ件の図書館司書とは異なり、宇佐美海月は正真正銘紛うことなく、同じ母親の腹から産まれた僕の血縁であり、妹である。その内外の幾つかについては第六章において少しばかり説明したであろうから、重複する部分については適当に纏めることにしようか。
背丈は百五十五、髪は短めで肩にかかる程であり、僕とシュウがかつて所属していたミニバスのチームに二年遅れで入団してからというものの、中学三年となるこの年まで籠球に熱を上げている。
性格は活発であり、友人知人が多いことは海月が手放さないスマートフォンの通知が鳴っていない時間の方が短いことから明らかではあるが、現状を一旦脇に置いて過去を振り返るとすると、そのような性格が昔からずっと変わらずに今日まで続いているわけではない。
幼児か園児かといった頃合いにおいて、海月は説極性を有しておらず、むしろ今の僕とよく似通った内向的性質の方が色濃くあった記憶がある。何をするにしても、さながらカルガモの子が如く僕の後ろをついて回っており、その様子は傍から眺める分には大層仲の良い兄妹の図に映ったことであろう。
ただ、現在の海月からは当時のようなおどおどとした気配は一切感じられず、そのために僕の後ろに張りつくようなこともなければ、隣に腰かけて懇談に興じるようなこともなくなり、兄妹間の具合に関してはさほどでもない段階にまで落ち込んでいたことを隠さずにしておこう。
海月の性格の転換点がいつだったか……少なくとも僕には思い当たるところがなかった。
ただ、いつの間にかそうなっていたとしか言えず、契機がどこにあったか、何が由来であったか、その他諸々についてもまた、当人にしか知りようがないところにあった。
「――……だからっ、考えてるって言ってる!」
その海月の怒声が自宅の玄関越しにも耳に届いた。
いつしか顔を出すことの方が当たり前のとなった美術部を後にした十月二週目――だったような気がするが、正確な日付は怪しいので明言は避けよう――の夕刻、僕が玄関の扉を開くに合わせて、奥の居間から響く穏やかではない喧騒の音量も大きくなった。
僕が完全に扉を開け広げるとほぼ同時に、居間から飛び出した海月が玄関へと走り込み、土間の片隅に投げ出されていたスニーカーへと乱暴に裸足を突っ込むと、そのままの勢いで外へと飛び出していった。
その海月の一連の疾走に関し、あいや待たれいと阻むことも、つかぬことをお聞きするが何用でと理由を問うようなこともせず、僕は狭い玄関の端へと身体を押し込みながら、妹の足音が遠ざかる気配を壁越しに確認した。
僕がようやく落ち着いて靴を履き替え、グラウンド・ゼロと疑わしき居間へと一度顔を出すと、
「あっ、海春! 海月、見なかった……?」
聞いている側が悲痛な気分となる涙混じりの問いがあった。
「あぁ、見たよ。外に出てったけど」
「えっ、外に? 部屋に戻ったのかと……」
「それを置いてどっか行くってことは、そこそこな面倒、か」
僕が机の上に置かれた海月のスマートフォンに視線を配らせると、宇佐美葉月は無意識か、下腹部の前付近まで下ろした両手の指を噛み合わせて力を込めた。これは僕の母親の癖だ。身体の外へと向かう脱力を防ぐためであろうか、不測の事態に直面すると決まってこのような体勢を取るのである。
「どっ、どうしよう……」
「風に当たればどれだけか頭も冷えるって。適当な頃合いで帰ってくるよ」
「でも、もう五時半を過ぎてるし、日の沈みも早くなってきたし……」
「海月も中三なんだから、自分の身の丈に合った振舞いってのが出来ると思うけど」
「この辺りは事件も事故も少ないけど、絶対安心ってわけじゃないんだから」
「警察や内閣ですら不祥事を起こすんだから、絶対なんてのはどこにもないよ」
「それじゃあ、心配するのが当然じゃない」
そう言うと、葉月はまたその場をそわそわとふらついて落ち着きを失った。
これまでに幾度かその名を出してはいたが、話の内容に直接かかわったことはなかったはずなので、この場面を機に少し詳しく挙げることにする。
宇佐美葉月――旧姓、兎渡葉月――は、僕と海月の母親である。
僕たち兄妹の背丈については母からの遺伝であろうか、身長はそう高くはなく、今では海月にもその高さを抜かれたことで我が家において最も低い位置に頭を携えている。
四十代を折り返し、黒々とした髪には色素を失った真白の何本かが目立ち始め、今まで一度も手を出さなかったという染髪に数年前から取り組み始めたようだが、手先は贔屓目に見ても器用な部類とは言えず、毎度のように長い時間を洗面台の前で消費しているとのことである。
もっとも、性格は几帳面であり、費やした時間に見合うかどうかはともかくとして、髪色の仕上がりに関しては上出来と言えた。そして、その徹底した事細かさは染髪時のみに留まらず、日常生活の細部まで行き届いているわけだが、それこそが僕や海月を常々うんざりとさせる要因でもあった。
母は几帳面であり、同時に心配性でもあった。それも並大抵のものではなく、半ば強迫観念に近いところがあるらしく、そのせいか取るに足らない一件――例えば、外出前にエアコンの電源を切ったかどうか、携帯電話から充電ケーブルを引っこ抜いたか、冷蔵庫の卵の賞味期限が近くはなかっただろうか――でさえも、それが確実に解消されたと判断できるまでは断固として納得せず、どれだけ遠回りであろうとも自身の目で解決を認めようと奔走するのである。
そうした過剰な心配性がどの頃から形成されたかは定かではないが、母の長年の友人であるかほ姐さん曰く、小学生の時分からある程度は既に表在していたとのことである。その傾向は二十代半ばで婚姻届を提出し、数年後に僕を産んだ頃から更に強くなったとのことだが、その前後の振れ幅については僕に物心がついていなかった以上、断言もまた避けることにしよう。
ただ、ひとつだけ、確かに言えることは、そこから更に時が流れ、僕に妹が出来た後、海月が電車の事故――と言っても、線路上の異物を検知して緊急停止しただけだが――に巻き込まれた一件を機に、母の心配性が病的なまでに加速したことについては間違いなかった。
「……分かったよ、探しに行ってくる」
「七時には戻って来てね。それくらいになると、もう真っ暗になって危ないから」
「見つからなかったら」
「知り合いに連絡するわ。町内放送を入れてもらってもいいかも」
「頼むから止めてくれ。生き恥を晒すことになる」
「全力を尽くさない方が後悔するのよ」
「程度にも依るだろ……いいから、静かにしてて」
僕は呆れ果てた。そして、目の前の心配性とこれ以上の会話を交わしても到底有意義とは結び付かないであろうと早々に見切りを付け、入ったばかりの居間から退出し、再び玄関へと引き返した。
……しかし、何故、海月と諍いを起こしたのであろうか。
その理由くらいは事前情報として頭に入れて、衝動的な家出を起こした妹との交渉に用いるカードとして準備してもよかったが、この時の僕の心証はどちらかというと海月へと傾いていた。
それは、子の言動の毎回を過分に気にかける親に対しての反骨精神であり、本件の当事者ではない僕であっても、かつての経験から身に覚えのあるところが多く、故に話の全容を理解するよりも先に、まずは海月への同情が湧いたのである。
なので僕は不足分の情報を母から聞かずとも、失踪した妹から聞ければそれでよいだろうと判断し、居間を振り返ることをせず、そのまま玄関を後にした。
……さぁ、どこを探そうか。
僕には当てなどなかったため、現状の把握を優先した。
母と妹が口論に至った原因と過程……これについてはさほど重要ではない。
ガレージのシャッターが完全には閉じられておらず、微妙に隙間を有していたこと……こちらには大きな価値がある。
防犯意識には疎い我が家でも、ガレージ正面のシャッターに設えられた鍵くらいは毎度のように掛けている。それが開いているということは即ち、家族の中の誰かがつい先ほどガレージに用があったことを示している。そして、再び元の形に戻すところにまで気が回らなかった「興奮した誰か」であることは間違いなく、該当する者は一人しか浮かばなかった。
そのガレージの内部……これもまた重要な情報を示している。
僕の自転車の隣に海月の自転車も止められたままであり、飛び出した海月は何処へと徒歩で向かったようである。そして、玄関から駆け出して直ちに右手へと折れ曲がったことから、妹が向かった先は少なくとも玄関から見て右手の近隣にあることは確かであろう。
統合すると、海月は玄関から飛び出した後、一度ガレージをのぞいてから、しかしながら自転車には用を見出さぬまま、右手の方角のどこかへと徒歩で向かったということになる。
さてさて、と僕もまた玄関の前に立ち、身体の正面を九十度右へと回転させ、前方を望んだ。
直線が続く先は三百メートルほど先で丁字路に分岐し、右か左かを示している。
右へと曲がれば、僕の通学路と同じ軌跡をなぞることになる。
左へと曲がれば、この直線よりも多少は生きている店舗の多い商店街へと合流する。
加えてもうひとつの選択があったが、こちらについては期待は薄く、顔を出すだけ無駄足になるような気もしていたが、とは言え左右の二択を選ぶに際し、その目前まで歩みを進める必要がある以上、ついでという形でのぞく分には構わないであろうという考えもあった。
僕は丁字路の交点を正面として建つ、七美市立図書館へとまずは立ち寄ることにした。




